ミレニアム企画 アバド・ケンペのベートーヴェン交響曲全集を聴く
交響曲第6番 ヘ長調 作品68
ベートーヴェンの「田園」は、名曲として名高い。中学校の音楽の教科書にも出てきた。きっと、文部省が推薦するほどの名曲なのである。「田園」ではなく、別の交響曲を取りあげている教科書もあるのだろうが、私は意図的にこの曲が選ばれたと思っている。第5楽章の主旋律に歌詞をつけてみんなで歌うことができる、というのがその理由である。
しかし、「田園」は、ベートーヴェンの交響曲の中では全く異質の存在だと私は認識している。9つの交響曲の中で、これほどベートーヴェン*らしく*ない曲はない。異質という意味では、合唱が入った第9番が該当しそうだが、「第九」の基本的なスタイルは、ゲンコツを振り回す中期傑作の森時代のベートーヴェンに相通じるものがあり、決して異質ではない。第5番「運命」とほぼ同時期に作曲された「田園」こそ異質である。交響曲第8番を除く他の交響曲が、多かれ少なかれ「剛」の部分が多いのに対し、「田園」だけは「柔」がメインである。
私はベートーヴェンの交響曲は、この曲があるからこそ価値が一層高まっていると信じている。もしこの曲が全集に混じっていなければ、ベートーヴェンの交響曲に対するイメージはかなり偏ったものになっているのではないだろうか。他のどの曲でも見せなかった「柔」の世界を描くことで、ベートーヴェンは新たな境地を切り開いたように思う。
それだけに、「田園」の演奏は難しそうだ。他の交響曲、例えば、第3番「英雄」、第5番「運命」の演奏がいかに優れていても、この曲は同じスタイルによる演奏を受け付けないように思えるからだ。では、アバドやケンペはどういった演奏をしているのか?
まずはアバド盤。
■ アバド盤
ベートーヴェン
交響曲第6番 ヘ長調 作品68
アバド指揮ベルリンフィル
録音:2000年5月、フィルハーモニーメリハリの強い演奏である。何度も繰り返すが、アバドは透明感とリズム感を重視しつつ、ベートーヴェンを演奏している。アバドはここでもそのスタイルを崩していない。というより、第1楽章ではリズムの強調に加え、音量差をかなり意識した表情付けを行っている。第2楽章では、ベルリンフィルの技術をフルに使い、弦楽器セクションは室内楽的な演奏を披露している。弦楽四重奏曲並みの世界とまでは私も言わないが、それに近い。とてもベートーヴェンとは思えない軽みを見せる。ごく少人数の弦楽セクションのアンサンブルに、管楽器が数人加わっただけ、と言う感じの見事な演奏である。アバドの意図はきっとこの辺の演奏にあったのではないか? 第3楽章以降は、低弦の強力な表現力と、ティンパニの小気味よい強打、そして跳ねるようなリズムを最大限に活かした演奏となっている。しかし、惜しいかな、優れた演奏には違いないのだが、何かがもの足りない。私はアバドのベートーヴェン全集は極めて高く評価しているのだが、この演奏ばかりは心に沁みてこない。指揮の冴えとオケの超絶的アンサンブルがあっても、である。
では、ケンペ盤はどうか。
■ ケンペ盤
ベートーヴェン
交響曲第6番 ヘ長調 作品68
ケンペ指揮ミュンヘンフィル
録音:1972年6月23日〜26日ベルリンフィルとミュンヘンフィルの技術差は、この曲を聴いていると歴然とする。勢いだけで乗り切れる曲ではなく、誤魔化しがまるできかない。弦楽セクションはアンサンブルの精緻さを特に強く求められる一方、木管楽器のソロが頻出、金管楽器の弱音も随所に登場、しかも弱音で歌う場所が聴き所になったりしている。ベルリンフィルと比べて、大きく差がついているのはホルンセクションだ。上記アバド盤を何度も聴いた後でケンペ盤を聴くと、その違いに愕然とする(逆に言えば、ベルリンフィルのホルンはうますぎる!誰が吹いているのだろうか?)。また弦楽器のアンサンブルもベルリンフィルと比べるとややモゴモゴしたところがある(これもベルリンフィルがうますぎるのだ!)。
しかし、そうした技術差を超えて、ケンペ盤がもたらす音楽の感動は計り知れない。重厚なサウンドを基調とした演奏なのだが、冒頭から、「ああ、これでは勝負にならないな」とまで感じさせる出来映えだ。何が違うのかというと、ケンペ盤からは、溢れ出す歌心、音楽に寄せる共感がじかに伝わってくるのである。わずかなフレーズの演奏においても、しっとりとした味わいがあり、それが聴き手を包み込んでいく。アバド盤に欠けていたものは、多分この歌心なのではないだろうか。アバドだって、彼なりの歌を盛り込んだのだろうが、ケンペはさらに上を行ってる。
さらに、木管のソロが活躍する場面はこの録音の真骨頂を伝えている。ケンペがかつてオーボエ奏者だったから、という常套的説明はしたくないのだが、木管楽器の創り出す色彩感覚は、すばらしいの一言。超絶技巧を持つベルリンフィルの演奏を足下にも寄せ付けない。
音楽の演奏は難しい。同じ楽譜を使って同じように演奏しても、全く別の印象を与える。アバドとケンペの場合は別の楽譜を使って別のスタイルによる演奏を行っているのだから、聴き手に対する印象がそもそも180度違っている可能性がある。しかし、それを考慮しても、この曲に限って言えば、楽譜や演奏スタイルよりも、指揮者を含めた演奏家全員の歌心が決め手になるのではないかと思う。少なくとも技術だけではどうにもならない恐ろしい曲である。
熱烈なケンペファンの「ゆきのじょう」さんからベートーヴェン全集に関する以下の投稿を頂きました。当時の状況が彷彿とされる面白い文章です。
かの名著「指揮者ケンペ」にあるように、この全集録音は「ビュルガー・ブロイケライ」で録音されています。今はすっかり幻となっている同じコンビのブルックナーやブラームスの録音も同じ場所で行われています。「ビュルガー・ブロイケライ」は文字通り「市民ビアホール」でして、ガスタイクが出来る前の当時は、其処が練習所であり、録音場所であったようです。ミュンヘンにはヘラクレスザールという響きの良いホールがありますが、経費の問題だったのか、コンサートではミュンヘンフィルが演奏しても、録音などでは使用されなかったようです(唯一の例外はコルンゴールドの交響曲の世界初録音でして、ヘラクレスザールで演奏会を行う時に録音されました)。
LPでのケンペ/ミュンヘンフィルのベートーヴェン交響曲全集にある解説書には、第9の録音風景の写真があります。実にコンサートホールともスタジオとも言えぬ殺風景な広間で、テーブルや椅子を其処此処に積み上げてあり、オーケストラ奏者の椅子もビアホールの椅子と同じものを使っています。天井からはモールのような飾りがぶら下がっています。平土間で合唱団とオケはケンペを中心に向かい合わせとなっていて、ケンペは半身を合唱団に向けながら指揮棒を振っています。合唱団の並び方も雑然としていて、この写真だけ見せられたら、何処の田舎のアマチュア団体の練習風景だろうと思ってしまっても不思議ではありません。
しかし、此処から、あの素晴らしいベートーヴェンが生み出されたのです。「指揮者ケンペ」によれば『よく閉まりきらないドア。ピアニシモのパッセージをやっているとき、隣のキッチンで皿が崩れ落ちる音。申し分なかった録音は振り出しに戻る。(p.206)』というどう考えたって劣悪な環境から、あの芸術が生まれたのです。私はミュンヘンには旅行で一日だけ訪れたことがあるだけです。その時「ビュルガー・ブロイケライ」が何処にあるのか? 旅程が立て込んでいたこともあり、ドイツ語が操れぬ私は遂に突き止めることができませんでした。訪れていたらもっと唖然としたのかもしれません。しかし一方において、「市民ビアホール」と銘打たれた、最もドイツらしい場所で、ドイツの芸術家達がベートーヴェンを奏し、唄い上げた。そしてその演奏が世界で極めて高い評価を受けている、というのも何となく当然の成り行きのようにも思うのです。かの全集には、ベートーヴェンの、そしてミュンヘンの息吹が刻まれている、そんな気がいたします。
あの立派なベートーヴェン全集、実は劣悪な環境で録音されていたのですね。なるほど。ビアホールとはいかにもミュンヘンらしい録音場所であります。で、その「ビュルガー・ブロイケライ」とは、一体どこにあるんでしょうか? 私は何度もミュンヘンで飲みましたが、その名前のブロイあるいはビアホールは耳にしたことがありません。名前からすれば街の中心部にありそうな感じなのですが...。ご存知の方は、ぜひ教えて下さい(のちに、現在ガスタイクがある場所と判明しました)。
なお、「指揮者ケンペ」についてはこちらをご参照下さい。
(2001年1月17日、An die MusikクラシックCD試聴記)