ベルグルンドの名盤を発見

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CDジャケット

ショスタコーヴィチ
交響曲第7番 ハ長調 作品60「レニングラード」
録音:1974年1月
交響曲第11番 ト短調 作品103「1905年」
録音:1978年12月
ベルグルンド指揮ボーンマス響
EMI(輸入盤 7243 5 73839 2 9)

 

 以下、交響曲第7番「レニングラード」について。

 ベルグルンドは1972年から79年までボーンマス響の首席指揮者を努めた。その間、最初のシベリウス交響曲全曲録音を行っている。さらに後年、ヘルシンキフィル、ヨーロッパ室内管ともシベリウス全集を録音したので、私の脳裏には「ベルグルンド=シベリウス」の図式が完全にインプットされてしまった。

 しかし、この指揮者のレパートリーがシベリウスに限ったものではなく、他にも優れた録音を残している*らしい*ことは、シュターツカペレ・ドレスデンと録音した「わが祖国」で明らかになった。私はその後、この指揮者による他の録音を探していたのだが、最近CDショップの片隅でちょこんと置かれていたこの2枚組CDが運良く目に飛び込んできたのであった。案の定、この「レニングラード」はすごい演奏だった。私は密かにこの曲を偏愛しているので、いくつもこの曲のCDを聴き、実演があれば出かけて聴いたりしたが、なかなか理想的な名演奏にはめぐり合うことができない。CDではハイティンク指揮ロンドンフィルのパノラマ的演奏があるが、それを超える演奏はとても少ないのだ。面白そうな演奏でも、録音が硬質で聴くにたえないものもある。

 ところが、このベルグルンド盤は、演奏が堂に入っており、せこせこしたところや、これ見よがしの見せ場作りがない。音楽設計は実に巧みである。ベルグルンドは各楽章の中でも大きな起伏を作り、さらに、73分に及ぶ全曲演奏の中では第4楽章に巨大な山を設定している。ハイティンク盤がやや几帳面なテンポ設定をしていたのに対し、ベルグルンドは自在にテンポを変え、千変万化のめくるめく場面転換を実現する。

 ベルグルンドは、不思議な指揮者だ。シベリウスの演奏においても、精緻さを追求しているのだが、それでいて音楽に窮屈さがないのである。このショスタコーヴィチでも、団員の演奏にはこの上ない精緻さを要求しながらも、学究的な演奏とか無機的な演奏にはなっていない。結果的には音楽全体にうねるような大波を作りだしているのだ。彼は演奏者の心理の波動か何かを計算しているのだろうか? 私は不満をどこにも感じなかったし、各楽章の美しさや凶暴さや、華麗さに耳を奪われた。私はこの演奏を聴いてひたすらその音楽作りの巧みさに感心してしまった。これこそまさにプロの仕事である。

 しかも、このCDは録音までよいのだ。録音技術には必ずしも第一線にはいないと思われるEMIの録音でありながら、録音スタッフは、この曲の繊細なピアニッシモから暴力的なフォルティッシモまでほぼ完全に捉えている。優秀な装置で大音量再生をすれば、驚くべき音響に浸ることができるだろう。私の部屋でさえ、大きな拡がりと奥行きのある雄大な音がした。これだけの録音が2枚組の廉価盤とはこれまたもったいない話だ。

 なお、これはart方式によるリマスタリング盤である。前にもCD化されていたのだろうか? また、ベルグルンドにはニールセンの録音もあるらしい。それもずっと探しているのだが、私はまだ見かけたことがない。

 

■ 娯楽としてのショスタコーヴィチ

 

 上記ベルグルンド盤を語る際に、私は交響曲第7番「レニングラード」にまつわる歴史的エピソードを意識的に排除した。以前も「An die Musik」のどこかに書いたのだが、ショスタコーヴィチといえば、やたらと旧ソ連時代の抑圧政治をからませて語られることが多いので、私は辟易している。どの解説書を読んでもスターリンやらプラウダやらの話ばっかり。全くうんざりである。確かに、ショスタコーヴィチの音楽は、旧ソ連という社会体制の重圧なしに理解することは難しいと思う。「レニングラード」の場合は、スターリンによる抑圧だけでなく、ナチス・ドイツのレニングラード包囲までが素材として使われている。そうした背景を無視してこの曲を語ると、心ある読者からは激しい叱責を頂くことになりそうだ。

 しかし、私はそんな頭でっかちな聴き方はもうやめた方がいいと真剣に思っている。歴史的背景を知らなければ、音楽を楽しめないなどということがあってよいものか? それほど知識を要求されるのであれば、聴衆は息苦しさに堪えかねて逃げ出してしまうのではないか? そもそも、音楽はそれ自体で楽しめるものだ。能書きが必ずついて回るなどという音楽は、まともなのだろうか? どうも私は疑問である。

 どうせなら、最初から娯楽として楽しんでみてはどうだ。「レニングラード」は娯楽として完全に楽しめるように作ってある。何だかよく分からないけど、妙にエキサイトし、妙に深刻で、妙に壮大で、妙にカタルシスを得られる。歴史的背景を知らなくても、十分楽しめるはずだ。ベルグルンドの演奏は、その点から聴いても天下一品。音響面でも磨き抜かれた演奏だ。

 ショスタコーヴィチの交響曲の中で、ここまで娯楽性の高い曲は余りない。交響曲第5番「革命」(今でも「革命」というタイトルが必要なのか?)と交響曲第7番「レニングラード」は、全15曲あるショスタコーヴィチの交響曲の中でも、娯楽性の点で群を抜いている。2曲の中では第5番の方が有名だが、私は第7番の方に遙かに愛着を感じている。これほどオーケストラ演奏の醍醐味を味わわせてくれる大曲はざらにないからだ。決して第5番を評価しないわけではない。第5番は第7番よりもずっと短く、音楽が凝縮されていると思う。惜しむらくは、凝縮され過ぎているのだ。また、爆発的な第4楽章をもつ点では「レニングラード」と似てはいるが、その壮大なスケール感は第7番に到底及ぶところではない。しかも、第7番は長大であるのに、冗漫さがない(...と考えているのは私だけかもしれないが)。単なる音響の固まりであれば、73分という演奏時間に聴衆はたえられないはずだが、神秘的なほどの美しさを湛える長大な第3楽章アダージョでも、ダイナミックな表情を併せ持っている。そして第4楽章ではオケがギュルギュルと唸りをあげて驀進するのだ。こんな曲が好きな自分を私は時々恥ずかしく思うのだが、聴いた後でこれほど「クラシック音楽をひとつ聴き終えたぞ!」という充足感を与えられる曲は少ない。これは娯楽大作以外の何ものでもないと思うのだが、そういう聴き方はまだ邪道なのだろうか。R.シュトラウスの音楽であれば、その技巧、音色の多彩さ、ダイナミックさを歴史的背景などとは完全に切り離して楽しんでいるのだから、もうショスタコーヴィチもソ連時代を説き起こすような解説書から切り離して聴かれてもよいではないか。頭で考え、知識を持って理解しなければ楽しめないのなら、それは本当の名曲ではない、とまで私は考えているのだが、言い過ぎだろうか

 

(2001年2月26日、An die MusikクラシックCD試聴記)