バッハ(ブゾーニ編)
トッカータ、アダージョとフーガ ハ長調BWV564
グリンカ(バラキレフ編)
ひばり
ムソルグスキー
組曲「展覧会の絵」
ピアノ:キーシン
録音:2001年8月4,5日、フライブルク
BMG(国内盤 BVCC-31061)
どんな時代にも天才はいるというが、その事実を実感させてくれる1枚。私は、巨匠的な演奏は21世紀にはもはや似つかわしくないのではないかと思ったこともあった。が、この1枚は現代においても聴き手を圧倒するとてつもない音楽家が存在することを立証している。おそらく、今年、これほどの高みに達した新録音にめぐり会うことは難しいのではないか。それほどのインパクトを与える優れた録音であると思う。
バッハの「トッカータ、アダージョとフーガ」からキーシンは目映いばかりのピアノを聴かせるのだが、圧巻はやはり「展覧会の絵」だろう。これは驚きの連続としかいいようなない演奏だ。ピアノ版を聴いていると、いつもはどうしてもラヴェル編曲による華麗な管弦楽曲版を思い描いてしまうものだが、キーシン盤ではまずそのようなことがない。キーシンは磨き抜かれた音色、技術を使いつつピアノを弾いているのである。ピアノという楽器の鳴らし方が尋常のレベルではない。その響きは千変万化し、ピアニッシモから最強音までの振幅の間で、微妙な表情付がなされている。このピアノを聴いているとその色彩感に驚嘆する。それは弱音になればなるほど凄みを増す。例えば、「死者たちとともに死せる言葉で」は暗闇に沈み込みそうな弱音で弾かれるが、その神秘的なピアノは聴き手の背筋をぞっとさせるだろう。
それだけではない。キーシンはこの「展覧会の絵」において特に確信的な弾き方をしている。「俺はこう弾く。そしてこの曲の演奏はこうあらねばならない」と自信満々でピアノをかき鳴らしているはずである。まず現在のキーシンに迷いや、躊躇などと言った言葉は似合わない。その自信たっぷりの巨匠的な弾き方に私は痺れてしまう。強力な弾き方も含め、キーシンはとてつもなく男性的だと感じられる。
キーシンのピアノ版の後にゲルギエフがウィーンフィルを指揮した管弦楽曲版が発売されたのだが、私はゲルギエフのマッチョな、ロシア的演奏に惹かれながらも、なおキーシンのピアニズムにより大きな魅力を感じている。このピアノを聴いていると、私は大げさにも、「このような天才と同時代に生きている。この天才の演奏を、運が良ければ一生聴いていられる」という幸福感に包まれる。最初に書いた内容を繰り返すが、果たしてこれ以上の録音が新録音で今年登場するのだろうか。私はとても疑わしいと考えている。
なお、このCDの録音は申し分ない出来映えだ。天才の技の冴えを充分味わえるだろう。キーシンはこれをスタジオ録音したが、それ故に完璧な録音ができたと思う。これは何世代にもわたって聴き継がれる録音になるのではないか? 私はそう予感している。 |