ベートーヴェン
「レオノーレ」序曲第3番
モーツァルト
交響曲第29番イ長調 K.201
ブラームス
交響曲第4番ホ短調 作品98
録音:1954年1月28日、コペンハーゲン
ベートーヴェン
交響曲第3番変ホ長調 作品55
録音:1957年4月26日、コペンハーゲン
クレンペラー指揮デンマーク王立管
TESTAMENT(輸入盤 SBT 2242)
オケがデンマーク王立管という私には馴染みのない団体であったので、買ってからしばらくCD棚で眠っていたCDなのだが、このCDを聴いて私は再びクレンペラーという指揮者の偉大さに触れる思いがした。ハーディングやベルグルントの最新録音から遡ること46年。音は克明に収録されてはいるが、もちろんモノラル。しかし、このブラームスが与える感動はどう表現すればいいのか?
クレンペラーにはEMIに1956年〜57年にかけて収録したスタジオ録音盤があり、さらに1957年には名盤の誉れ高いバイエルン放送響とのライブ録音がある(ORFEO)。今回発売されたデンマーク王立管盤はそれらとほぼ同じ時期に録音されたものであるが、演奏内容は、バイエルン放送響との録音を超えている。この組み合わせからは想像もつかないのだが、指揮者とオケが渾然一体になった怒濤のような演奏である。
今時、このような古いタイプの演奏は流行らない。オケは分厚い響きを作り、指揮者はコブシが入らんばかりの気合いの入れよう。音楽が訴えかけてくる迫力は筆舌に尽くし難く、第1楽章の終わる頃には完全に音楽の中に没入してしまう。全くオールドタイプの演奏である。
演奏している団体は歴史こそ古いようだが(起源は1448年。2002年時点では533年の歴史を持つらしい)、世界的なレベルでは第1級とは言い難い。しかし、演奏は立派だ。団員が持てる能力のすべてを出し切っているような気がする。たまに客演していただけのオケで、クレンペラーはなぜこれほどの統率ができたのであろうか? 技術はともかく、オーケストラが必死にクレンペラーの燃える棒についていく様は、当時クレンペラーがしばしば指揮台に立っていたフィルハーモニア管の場合と変わらないのである。クレンペラーは一体どのような力で暗示をかけていたのだろうか?
どうも私はオールドタイプの演奏から離れられないらしい。最近流行している比較的小編成による録音の良さを認めないではないが、「だからどうした?」と言いたくなることがある。プロの音楽家の目から見れば、編成や奏法は重要なのかもしれないが、私のような通常の聴き手においては、どれだけの感動を得られるか、という点が最も重要なのではないか?
クレンペラーという指揮者は今はいない。そのような指揮者の古い演奏をありがたがってばかりいても仕方がないと思う。私は現代に生きる現代人なので、現代の演奏家をしっかりと聴き続けていきたい。しかし、音楽の持つ生命力や迫力はどうしてこうも違ってしまうのだろうか? 単なるノスタルジーとは言い切れない重要な問題がどこかにあるのかもしれないと私は思う。
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