マルケヴィチを聴く その2
シューベルト
交響曲第3番ニ長調D.200
チャイコフスキー
交響曲第4番ヘ短調作品36
録音:1978年
マーラー
交響曲第1番
録音:1982年
マルケヴィチ指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管
TAHRA(輸入盤 TAH 281-282)「The Igor Markevitch Legacy」と題された2枚組CD。石丸電気でかつて1,905円で投げ売りされていたもの。これ以上は安くなるまいと思って買ってみた。マルケヴィチに人気がないのか、あるいはライプツィヒ・ゲヴァントハウス管という地味なオケが災いしたのか、売れないCDになっていたのだろう。
確かに、聴いてみると、複雑な思いに駆られるCDなのである。何がそうさせるかというと、オーケストラの技術である。ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管は世界最古のオケとして知られ、その名はクラシック音楽界に燦然と輝いている。メンデルスゾーンが指揮したことはもちろん、近世ではニキシュやフルトヴェングラー、ワルターといった世界有数の指揮者が君臨した名門オケなのだ。にもかかわらず、このひどい音はどうしたことか。特にトランペットとホルン。いくら何でもどこかの学生オケ並みの音である。前回の「展覧会の絵」でも音色はよくはなかったが、スタジオ録音だけに破綻はなかった。しかし、このCDは全曲がライブだけに破綻が目立つ。オケの技術を心配しないでまともに聴けるのはシューベルトの交響曲第3番だけ。それもそのはず、この曲に金管楽器はほとんど登場しない。チャイコフスキーでもマーラーでも「ここぞ」というべき場所ではずしている。何とも残念なことである。さすがにライブであるから、会場の聴衆は気にもとめなかったようだが、CDで繰り返して聴くには問題があるかもしれない。売れなかったのはきっとそういうところに原因があるのだろう。
この録音は1978年と1982年に行われている。ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管最悪の時期に当たる。これはあくまでも私の推測であるが、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管を駄目にしたのはクルト・マズアではないかと思う。1970年以降のマズアの統治下で、どうもこのオケの技術は急降下しているような気がしてならない。旧東ドイツの経済状況が悪化したことも考慮しなければならないだろうが、同じ旧東ドイツにあったシュターツカペレ・ドレスデンがこれほどの凋落を見せなかったのが何よりの証拠ではあるまいか。マズアの批判をここでするのは気が引けるが、壁の崩壊にからむマズアの名声を考えると、これまた複雑な気持ちにならざるを得ない。
さて、さんざんオケの技術を批判した後では、もうこのCDを聴きたい人はいなくなってしまったろうか。そうだとしたらTAHRAには申し訳ない。TAHRAはこのCDに価値があると見て世に出したわけだから。演奏には関係ないが、音質など申し分ない。78年のライブはライプツィヒのコングレスハレ、82年のライブは新しいゲヴァントハウス・ホールで録音されたが、いずれもみずみずしく、量感がある。TAHRAの優れたリマスタリング技術が窺われる。
そして演奏。マルケヴィチが指揮しているのだから、演奏が面白いのは言うまでもない。特にチャイコフスキーの4番はダイナミックな起伏が興奮を呼ぶ。マルケヴィチは自在にテンポを変え、音楽を好きに料理しているように見える。マルケヴィチのことだから、おそらくは彼なりの緻密な計算があってのことだと思うが、それが即興で行われているとしか思えないほど自然に出てくる。打楽器を派手に鳴らすのもこの人らしいし、強弱の取り方が実に巧みである。チャイコフスキーの交響曲は、マルケヴィチにとっては最高の素材であったろう。
ライブだから、燃えるような終わり方をする第4楽章がもっとも目立つが、私はこの演奏では第2楽章が一番優れていると思う。弦楽器と木管楽器のからみ具合が絶妙で、しんみり聴かせる。野蛮さや、派手さが売りのマルケヴィチだが、底知れぬ音楽性を見せる。
マーラーもいい。聴衆が喜びそうなサービスをかなりしているのだが、嫌味にならない。どうすれば音楽を楽しめるように聴かせられるか、きっと真剣に考えていたのだろう。そんな人柄が伝わってくるような演奏である。聴衆は大喜びでブラボーを送っている。メジャーなオケには恵まれなかったが、自分の演奏をきちんと評価してくれる聴衆には恵まれていた。マルケヴィチはこの演奏の翌年に亡くなるが、聴衆の声援に包まれて、幸せだったかもしれない。
1999年7月28日、An die MusikクラシックCD試聴記