カルショーの名録音を聴く
6.他の名演奏家たちとカルショー文:青木さん
■ クーベリック
シカゴ響を去った後、モノ末期からステレオ初期にかけてデッカと契約していたクーベリックだが、彼に対するカルショーの評価はやや微妙だ。『魅力と人間性に満ち溢れた人物だが、徹底的に保守的だった』そうで、例えばイスラエルでの録音セッションの合間に当時実用化されつつあったステレオの実演説明会をデッカのスタッフが催したとき、こういうものには耐えられないと途中で逃げ出したほどだという。デッカという組織が意欲的過ぎたから彼はデッカに長く留まらなかったのではないか、とも推測している。『音楽にエネルギーを与え、リズミックに躍動させ、昂揚させるといったことは、クーベリックの気質にはまったく欠けていた。代わりに彼がもたらしたものは、洗練だった。それを精妙さと思う人もいる。しかし他の人々には、退屈としか感じられなかった』。あまり褒めているようには思えない。
ドヴォルザーク
交響曲第7番 ニ短調 作品70
交響曲第9番 ホ短調 作品95「新世界より」
ラファエル・クーベリック指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1956年10月1〜4日 ゾフィエンザール、ウィーン
プロデューサー:ジョン・カルショー
エンジニア:ゴードン・パリー、ジェイムズ・ブラウン
デッカ(国内盤:ユニバーサル POCL6035)これがカルショーにとってクーベリックとの初仕事だったとのことで、この頃のウィーン・フィルはクーベリックを『軟弱とみなしていた』そうだ。録音のときカルショーは、『管制室での音があまりに散漫なので、マイクに何か故障が生じたかと思った』というが、これは指揮者がオーケストラににらみをきかせられず手綱を握れなかったので音が泳いだためだと述べている。「デッカ・レジェンド」シリーズのCDライナーノートでも本書のこの箇所に触れており、当時の彼らの演奏会評を引用した上で、カルショーの見解は不当だとしている。
そのライナーノートでは「身震いするほどの解釈」ともあるが、個人的にはまずまずの佳演という感想。多種多様な個性的演奏を聴いてきたワタシの耳はすっかり贅沢になってしまっているようだ。部分的には印象的な響きやフレージングもあり、よくまとまっているとは感じるものの、全体としての魅力は薄い。また、決して音が泳いだりはしていないのだが、5年前のシカゴ響との録音で聴かれるような引き締まった響きとはかなり違う。カルショーはそのマーキュリー盤を愛聴していたのだろうか。ステレオ最初期にしては好録音とはいえ、重みのないティンパニのサウンドには違和感があった。
以上はすべて「新世界」の感想で、第7番はより上等の演奏。クーベリックに欠けているとカルショーが言う「エネルギーと昂揚」が、ここには確かに感じられる。
■ ライナー
ライナーが珍しくデッカにLP数枚分の録音を残しているのは、デッカとRCAの提携の賜物。米キャピトルがEMIに吸収されたことでキャピトルの配給権を失ったデッカは、代わりにRCAの配給権を獲得したのだが、その結果としてそれぞれの専属演奏家を交換できることになったのだ。クラシックの分野に関する限りこれはデッカ側にとってあまりメリットにはならなかったそうで、『ピエール・モントゥーやフリッツ・ライナーのような指揮者との関係が生じることは有益―名誉、と言ってもいい―なことである。しかし彼らと録音できるのは、RCAが録音する気のないレパートリーのみである』というわけ。
R.シュトラウス
交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」作品28
交響詩「死と変容」作品24
フリッツ・ライナー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1956年9月4〜8日 ゾフィエンザール、ウィーン
プロデューサー:ジョン・カルショー
エンジニア:ゴードン・パリー、ジェイムズ・ブラウン
デッカ(国内盤:ユニバーサル UCCD6014)たしかにこの両曲は、ライナーとシカゴ響がRCAに録音しなかったものだが、「RCAが録音する気のないレパートリー」だったとは思えない。ふつうなら「家庭交響曲」や「町人貴族」の方を押し付けられそうなのにこれら名曲を録音できたのだから、デッカはラッキーだったというべきだろう(演奏が素晴らしいだけになおのこと)。
録音は「死と変容」が先だったらしい。セッション直前にライナーはカルショーに、君との仕事もこのホールでの仕事も初めてだ、最初のテイクのバランスが完璧でなかったら帰らせてもらう、と言ったという。怖い。その結果は、『彼は精密かつ精錬された演奏を確保してみせたため、私たちはほとんど何も調整する必要がなかった。プレイバックを聴いたライナーは喜んでくれた』。ライナーの怖さを聞いていたので最高に行儀よくしていたウィーン・フィルは、指揮棒の動きが小さかったせいで集中を強いられたそうだ。
さて、「死と変容」はともかく「ティル」のような曲はやはりシカゴ響向きなのではないか?という予測は外れだった。ここでのウィーン・フィルはまるでシカゴ響みたいだ、とは言いすぎだが、やや硬めの響きでバリバリと鳴っていて、曲想によく合っている。4年後に同じスタッフが同じ場所と同じオーケストラで録音したこの曲(カラヤン指揮)が、少し大げさに言うと生ぬるい軟弱演奏に聴こえてしまうほど。それでいてRCA録音のような乾いた固さはないあたり絶妙のバランスで、これはオーケストラの個性に加えて、ステレオ最初期とは思えない素晴らしい録音も貢献している。これならライナーが喜んだのももっともだ。団員だけでなく録音スタッフも、いつも以上に集中して最高の仕事をしたということなのだろう。
■ モントゥー
ライナーと違ってデッカへの録音も多いモントゥーだが、やはりRCAとの提携によってデッカに登場したとのこと。RCAが抱える指揮者の中で特にセールスが悪かったため、『RCAはモントゥーとの契約による録音義務のいくつかを、大喜びでデッカに引き渡してきた』そうだ。カルショー自身はモントゥーとの仕事を、レコード産業に関わった最初の10年で『最も楽しみにした』と述べている。
ストラヴィンスキー
バレエ「ペトルーシュカ」(1911年版)
バレエ「春の祭典」全曲
ピエール・モントゥー指揮 パリ音楽院管弦楽団
ジュリアス・カッチェン(p)
録音:1956年10月30〜11月2日(ペトルーシュカ)、11月2〜11日(春の祭典) パリ
プロデューサー:ジョン・カルショー
デッカ(国内盤:ユニバーサル UCCD7127)ショルティのチャイコフスキーから半年後のパリ録音だが、このオーケストラでは『でたらめな「代役」方式が続けられていた』そうで、このセッションの後にモントゥーはカルショーに『今後の録音はロンドンかアムステルダムか、あるいはウィーンでやれたら、もっと幸せなのだが』と言ったとか。カルショーはパリ以外でできるだけ多くの録音をすると決心し、ロンドンとウィーンは実現したが、アムステルダムの希望だけは叶わなかった。残念だ。
カルショーは、初演者のモントゥーに「春の祭典」初演の思い出を聴かずにはいられなかったという。その答えは『暴動だったよ。スキャンダルだった。そしてもちろん、オーケストラは演奏できていなかった。今でも彼らには演奏できない』。これが前述の、ロンドンやウィーンで録音したいという希望につながったのだろう。だが結局パリで録音されてしまったこのCDについて、『200CD“指揮者”聴き比べ!−オーケストラ・ドライブの楽しみ』(立風書房,2002)という本の中で少し詳しく採りあげられている。その掲載スタンスは「崩壊しそうな危機感が初演当時を彷彿とさせるから」だそうで、ちょっと意地悪な気もするが聴いてみれば気持ちも分かる。
ぎこちないフレージングや奇妙な響き、アンサンブルの乱れなどがそこかしこで聴かれ、ドラティが指揮したミネアポリス響(マーキュリー)以上の危なっかしさ。超A級オーケストラが録音した演奏に慣れ切ったワタシの耳には、たいへん面白く聴くことのできる?演奏だった。今ではアマチュアのオーケストラもさほど難なくこなすらしいが、かつてはたいへんな難曲だったというこの作品の歴史的な革新性。それに改めて思い至らせてくれる点でも、これは貴重な録音だ。その意味で、ロンドン響ではなくパリ音楽院管だったことも、結果論としては幸いなことだったと思う。モントゥー自身は不本意だったかも知れないが。
なお、これもモントゥーが初演した「ペトルーシュカ」のほうは、曲が曲だけに「春の祭典」のように奇妙な演奏ではない。というより、木管類の個性的な音色を中心として、素直に楽しめるものとなっている。ピアノがかなりオンマイクになっているのはカッチェンという大物が起用されているせいだろうか。端の方に位置するのではなくかなり拡がって定位し、なんだかピアノ協奏曲のような録音だ。また各場面の間で響くはずの太鼓はすべてカットされているが、こういう録音は他にもある(ハイティンク盤もそうだった)。
「ペトルーシュカ」と同時に「火の鳥」組曲も録音されている。
ラヴェル
バレエ「ダフニスとクロエ」全曲
ピエール・モントゥー指揮ロンドン交響楽団
コヴェントガーデン王立歌劇場合唱団(ダグラス・ロビンソン指揮)
録音:1959年4月27日〜28日 キングスウェイ・ホール、ロンドン
プロデューサー:ジョン・カルショー
エンジニア:アラン・リーヴ
デッカ(国内盤:ユニバーサル UCCD7124)これも録音時の約半世紀前にモントゥーがバレエ初演の指揮をした曲。『この年の最も幸福なセッション』とカルショーが言うレコーディングだが、デッカの営業部門はセールスを心配し、全曲をLP1枚に収録するように注文したそうだ。しかし、初演者モントゥー自身がロンドンでの全曲版の録音を切望したという点をカルショーは尊重し、『私たちが携わっているのが「歴史」そのものであり、《ダフニスとクロエ》の正統的な演奏を録音するために、モントゥーに対して可能な限りの技術的な便宜を図るべきだと感じていた』。そのためダイナミックレンジを圧縮するような妥協はせず、二枚組になることも辞さない覚悟で制作に望んだそうだが、まさにプロデューサーの鑑というべきだろう。結果は、『熱意と、ダビング工程での優れた技術により』、一枚の両面に収録できたという。LP時代ならではのエピソードだ。
この録音はカルショー自身もお気に入りのものとなったそうで、本書で珍しく演奏内容について具体的に触れている。『各部分を全体の流れに関連づけ、作品全体を見渡す、この指揮者の音楽を扱う手際』を評価し、『偉大な《夜明け》の部分のクライマックスがあまりに力強くなり過ぎて、終曲のクライマックスで力が尽きてしまうことを、彼は許さなかった』としている。実際に聴いてみると、確かにエンディングの盛り上がりは相当なものがあるものの、それと「夜明け」の部分を抑えたこととの関係は、正直言ってあまり感じられない。また、ダビング技術は優れていたかもしれないが、CDで聴いている分には、録音そのものがあまりクリアではなく、当時としても最高とは言いがたい水準に思えることのほうが気になった。
■ カーゾン
本書でカーゾンの名は、カルショーが音楽の仕事を始める前から演奏会やレコードで馴染んでいたピアニストということで、かなり前の方から何度も出てくる。デッカに入社して制作の仕事を始めて間もない頃に仕事を共にした音楽家たちの中にも彼の名を挙げ、『生涯の友人になった』と述べているほど。カーゾンの録音はほとんどカルショーがプロデュースしたようで、その中にはデッカの最初のLPだったというチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番(1950年9月録音、セル指揮新交響楽団)や、デッカのステレオLP第一回発売分となったベートーヴェンの「皇帝」(1957年6月録音、クナッパーツブッシュ指揮ウィーン・フィル)も含まれる。カルショーはカーゾンを、『感受性のとても豊かなピアニストで、教養があり、てらいや気負いが鼻につくことなどまったくない人物だが、短気だった。全能力を駆使して演奏する過程で、外面的なものは何であれ不適切と見なした』と評している。
リストのピアノ・ソナタを録音しているときに、ゾフィエンザールに追加した照明(ヴェルディやワーグナーの大音響にも耐えた)がすべて落下した、というエピソードが出てくるが、考えてみれば本書で紹介されているカルショーのセッションは、協奏曲や歌劇を含めほとんどがオーケストラの録音。しかしカルショーはオーケストラ専門だったわけではもちろんなく、カーゾンやジュリアス・カッチェンらのピアノ曲や室内楽曲も手掛けているのだ。
シューベルト
ピアノ五重奏曲 イ長調 D.667「ます」
クリフォード・カーゾン(p)
ウィーン八重奏団員
録音:1957年11月 ゾフィエンザール、ウィーン
プロデューサー:ジョン・カルショー
エンジニア:ゴードン・パリー
デッカ(国内盤:ポリグラム POCL9782)本書には出てこないがここでは室内楽の代表盤として、かつてキングレコード社から何度も再発売が繰り返されていた「ます」を採りあげたい。嗜好がオーケストラに偏っているワタシ自身にとっても例外的に大好きな室内楽曲だが、ブレンデルとクリーヴランドSQのCD(フィリップス)だけをひたすら繰り返し聴き続けてきたので、他の演奏で聴き比べるのはこれが初めて。その違いは予想を遥かに越えるもので、驚いた。
カッチリとして明晰なブレンデル盤とは正反対に、いかにも柔らかく優美で、なんとなくイメージとしてある「ウィーン風」そのものなのだ。もっともその要因のほとんどは弦にあり、カーゾンのピアノはあくまで端正で地味め。ライナーノートでも触れられているようにステレオ感があまりなく全員が中央寄りに定位する録音は、カルショーが手がけた歌劇や管弦楽の音響設計とは対照的だが、ピアノと弦楽のそのスタイルの差が目立たないようにした結果なのだろうか。
なお、カーゾンがアマデウス弦楽四重奏団と共演したこの曲ののライヴ映像が、TESTAMENTの初DVDとしてリリースされたばかりだが、これはフリー時代のカルショーが制作した作品だという。1977年にスネイプのモールディングで収録されており、前年に亡くなったブリテンの追悼企画となってしまったそうだ。
■ マゼール カルショーは1959年3月、なんとカルロス・クライバーと契約をしようとして、フランクフルトの空港で交渉したという。クライバーにその気がなかったため失敗に終わったそうだが、もし彼がOKしていたら…とつい妄想してしまうような逸話だ。次に登場するのがマゼールで、彼は『手強い交渉相手』だったと書かれている。マゼールは売上に応じて印税がスライドする複雑な方式を提案したが、計算の前提となる販売枚数が無意味なほど多すぎるものだったそうで、デッカ側は長時間の協議を余儀なくされたとのこと。
チャイコフスキー
交響曲第5番 ホ短調 作品64
ロリン・マゼール指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1963年9月13〜28日 ゾフィエンザール、ウィーン
プロデューサー:ジョン・カルショー
エンジニア:ゴードン・パリー
デッカ(輸入盤:430 787-2<交響曲全集>)シベリウスの交響曲第1番及び「カレリア」組曲と合わせて行われたこのセッションは、カルショーによれば『彼の初めてのウィーンでの大曲録音』とのことで、ウィーン・フィルとのデビュー録音とされているもの。マゼールはこれを皮切りにチャイコフスキーとシベリウスの交響曲全集を完成したが、他はすべてエリック・スミスのプロデュース。カルショーは新人指揮者のウィーン録音を担当する役割も持っていたのかもしれない(アバードの場合も同様だったらしい)。なにしろウィーン・フィルは新人を好まなかったそうで、例えばケルテスの場合は彼がハンガリー人だから、マゼールの場合は『彼らがよく知っているつもりの曲目について、再考させようとしたから』だという。シベリウスは馴染みのレパートリーではなかったろうから、これはチャイコフスキーの交響曲のことだろうか。
たしかにあまりオーソドックスとはいえない演奏だ。よくいえばキビキビとしてメリハリがあるのだが、それがこのオーケストラの持ち味を活かす方向にはつながっていない。ショルティとは違う意味で、ウィーン・ウィルをギリギリと締め上げているかのようで、少々聴き疲れがするほど。対旋律というか内声部を強調している箇所も多く、他の演奏では意識しないブラスのフレーズが美しい音色で鮮やかに鳴る場面もあって、面白い演奏であることは確かだと思う。これに比べると、クリーヴランド管との新録音(ソニー)は、きれいに整ってはいるが個性に乏しく、ちょっと退屈なものに感じられてしまう。
■ その他
最後に、本書の他の録音エピソードの中からいくつかご紹介。CDを持っていないので試聴記抜きでご容赦を。
○ヴィルヘルム・フルトヴェングラー
1948年3月、ロンドン・フィルを指揮してブラームスの交響曲第2番を録音。プロデューサーはオロフだがカルショーもスタッフとして参加。このときフルトヴェングラーは、キングスウェイ・ホールにセットされた複数のマイクが目障りだとして、1本を残してすべて取り外させたという。デッカがこのホールで試行錯誤をしてきた末に確立した録音ノウハウをまったく尊重しないこの指揮者のせいで、『いつものように温もりと明快さの組み合わされた音ではなく、散漫で泥のような音質』になったとのことだ。録音現場で聴いた演奏は見事だったそうだが…。フルトヴェングラーの商業録音の音質が(同時代の水準からしても)良くないのは、レコーディングという作業に対する彼の理解や協力の欠如が原因と言われているが、まさにそれを裏付けるエピソードだ。
○ハンス・クナッパーツブッシュ
指揮者のお喋り癖について述べている箇所でカルショーが『ほとんど一言もしゃべらない指揮者』というクナッパーツブッシュ。1951年のバイロイト音楽祭で、カルショーとウィルキンソンは彼の「パルジファル」をライヴ録音し、その指揮に圧倒されたという。そこで予定になかった「ニーベルンクの指輪」も録音したが、演奏や機材の不調などが重なり、かろうじて仕上げることのできた「神々の黄昏」もボツにされて、数年前にテスタメント社が発掘するまでデッカの倉庫に眠ったままだったとのこと。なおこの年のバイロイトでカラヤン指揮の「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を録音したEMIのスタッフは、同じ会場で録音しているのに音質が優れているデッカに嫉妬していたそうだ。
○カール・シューリヒト
1956年6月、ウィーン・フィルとのモーツァルト「ハフナー」とシューベルト「未完成」をカルショーがプロデュース。彼は1952年にもパリでシューリヒトのシューマンを制作したが、このウィーン録音の際にはシューリヒトはもう老衰しており、「未完成」の第1楽章を『すべてテンポの異なる11の解釈で演奏し』てウィーン・フィルをうんざりさせたという。
○エルネスト・アンセルメ
カルショーはアンセルメの録音をほとんど担当しなかったようだが、1964年6月にドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」を手掛けたときは、この指揮者もまた『高齢のために著しく衰えていた』とのこと。またその1年前に、カルショーがトマス・シッパーズ指揮スイス・ロマンド管でビゼーの「カルメン」を制作したとき、アンセルメは自分が指揮をしたがったそうだ。それに関してカルショーは『そんなことになったら、老人病学の実習を見学するだけのことになるだろう』と辛辣だ。
カルショーにとってアンセルメとの最初の仕事は、スイス・ロマンド管ではなく1953年のパリ音楽院管とのセッションだったという。カルショーは、『オーケストラのバランスについての彼の耳の正確さは、驚異的なものだった』と述べ、その精密なバランスはセル以上だったとしている。そして、初期のffrrのSPの見事な音は、録音技術だけでなくアンセルメ自身の功績も大きかった、と分析している。手持ちの非売品CD「ロンドン/デッカ・サウンド60年史」に、そのffrr初期の録音としてアンセルメ指揮ロンドン・フィルによるストラヴィンスキー「火の鳥」から「カスチェイ王の魔の踊り」が収録されている。SPからの復刻なのでノイズはひどいし、各楽器の量感や鮮明さは不十分だが、確かに楽器間のバランスはなかなか上出来に聴こえる。録音は1946年12月…カルショーがデッカに入社した直後だ。
ちなみにそのCDに序曲が収録されているショルティ指揮ウィーン・フィルのモーツァルト「後宮からの逃走」(1985年12月録音)は「ゾフィエンザールでの最後の録音」と解説書に書いてあった。
○アルトゥール・ルービンシュタイン
1959年7月、ヨゼフ・クリップス指揮ロンドン響をバックに、モーツァルトのピアノ協奏曲を録音。これもRCAとの提携による仕事だが、デッカに貸し出されたモントゥーの場合と違って、RCAによる自社制作のプロデュースにカルショーが指名されたという、委託制作のような形だったらしい。本書の本文中にはこのときの曲名が記されていないが、ロンドン響当局が作成しているディスコグラフィによると第17、20、23番の三曲とのことで、そういうものを見ないと曲目が分からないことからも知れるように、この音源はリリースされていない。
その理由は、ルービンシュタインが『初めから終わりまで、情け容赦もないほど強大にピアノを響かせ』、そのルービンシュタインの指示でクリップスがオーケストラの音量を限界まで抑え、『バランス・エンジニアには対応不可能な状況となった』からだというから、信じられない話だ。これでは適正なバランスにならないとカルショーらがいくら説明しても、彼らは聞かなかったという。カルショーがこの件をRCAに報告すると、RCAは「やっぱり…」みたいな反応で、曲がヴィルトゥオーゾ向きの協奏曲ではなくモーツァルトということに鑑み、『発売するよりも費用を無駄にすることを選』んだのだった。
本書を読みながら、「往年の巨匠たちは皆さん個性的だったんだな」と何度も感じたのだけれども、このエピソードはその中でも別格だ(酷すぎます)。
(2005年9月3日、An die MusikクラシックCD試聴記)