シューベルトのピアノ音楽を聴く 内田光子篇
■ 内田光子
2013年5月から12月11日までのAn die Musik完全閉鎖中に私はシューベルトのピアノ音楽をよく聴きました。例えば、ピアノ・ソナタです。聴けば聴くほど魅了されました。CDラックに眠っていて、一度通して聴いたかどうか分からなかったようなCDも徹底的に聴きました。内田光子のシューベルトもその一つです。
シューベルト
ピアノ・ソナタ第16番 イ短調 D.845
ピアノ・ソナタ第9番 ロ短調 D.575
ピアノ:内田光子
録音:1998年9月、ウィーン、ムジークフェライン
PHILIPS(国内盤 PHCP-11125)CDのメインは第16番の方ですね。分かりやすくいうと、テレビ番組「のだめカンタービレ」で主人公である「のだめ」がコンクールで弾いた曲であります。テレビの力によっていかにも地味なこの曲が一躍脚光を浴びたわけですが、本当は別に地味な曲ではないのかもしれません。この曲を録音している顔ぶれを見ると、ピアニストには何か特別な曲と映っているような気がします。また、そうしたピアニストの手によって生み出された演奏こそが我々聴き手に曲の真価を伝えてくれるものです。
内田光子のシューベルト演奏が「巫女的」と表現されているのを見かけたことがあります。それを見た私はうまいことを言うものだと感心したものです。このピアノソナタ第16番を聴くとそう感じざるを得ません。内田光子はとにかく音にこだわります。それがどう考えても尋常なレベルではないのです。音符ひとつひとつにこだわりがあって、それを嫌でも分かるように聞かせます。冒頭の主題だけでも徹底していて、どんどん表情を変えていきます。まさに千変万化です。それだけに、今まで他の演奏家のCDで何気なく聴いていた音楽が、全く別の表情をもって迫ってきます。それを聴いていると空恐ろしくなってきます。ここまで徹底的に自分のこだわりを音にする内田光子とは何者なのかと疑問まで浮かぶのです。もしかしたら作曲をしたシューベルトさえ、この演奏を聴いて驚嘆するかもしれません。シューベルトを徹底的に表現したと言うより、内田光子がシューベルトの書いた音符を使って何事かを語っているように思えるわけです。
徹底的なこだわりが内田光子の演奏の長所です。それを実現したのが内田光子の愛用する1962年製のスタインウェイです。両者が相まって完璧な内田光子ワールドができあがっています。
私はこのCDを何度も聴き、そして、打ちのめされました。楽しんだり、感動するというのではなく、打ちのめされてしまいました。それだけ演奏家の強力な意思がこの演奏に込められています。ですから、この演奏の長所はとりもなおさず短所にもなり得ます。息苦しくて堪えられない人がいてもおかしくありません。私は堪えることができましたが、打ちのめされたわけです。これもまたシューベルトの音楽の持つ力なのかもしれませんが、そうではなく、かなりの部分は内田光子の力なのでしょう。恐るべき演奏です。私は学生の頃、内田光子の弾くモーツァルトのピアノ・ソナタをCDで聴いて以来そのウェットさに辟易してきたと同時に、内田光子のCDには色眼鏡をかけて見る(聴く)ようになっていたのでした。それから四半世紀が過ぎました。私は内田光子のシューベルトを繰り返し聴き、ピアニストとしての内田光子の凄みにすっかり魅せられてしまいました。それは好悪とは別のものなのですが、すごいと認めるしかありません。ピアニストとしての覚悟のようなものまでCDで伝えられるとはとてつもないことです。
CD棚で眠っているCDをふと取り出すのも悪くないですね。
(2013年12月23日、An die MusikクラシックCD試聴記)