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シャイー
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リッカルド・シャイー
シャイーについて書くことは、なかなか困難であると言わざるを得ません。そもそも、なぜ彼がハイティンクの跡目として五代目を襲名するに至ったのか、そのあたりの経緯がどうもよく分かりませんでした。というのも、まったく個人的な事情なのですが、わたしは1980年代の半ばから後半にかけて一時的にクラシック音楽から遠ざかっていたので、その間の情報が欠落しているのです。そこで図書館へ行って当時の『レコード芸術』誌を調べてみたところ、業界の諸事情に最も通じていそうな三浦淳史氏の連載記事「スクラムサイド/音楽切抜き帖」に「アムステルダムのイタリア人−ACOに就任したシャイー」というのがあるのを発見しました。1988年11月号です。これによりますと−−
- シャイーが初めてコンセルトヘボウ管弦楽団を指揮したのは1985年で、ブソッティやベリオという現代音楽プログラムだった
- どのようにテストされたかシャイー自身には分からなかったが、楽団員はとりわけ指揮者のビートの明快さに対してうるさかった
- シャイーに主席指揮者の話があったのは、その後3〜4回指揮をした後で、そのときもガーシュウインやプーランクといった非主流のプログラムだった
- 楽団員は3回に分けて投票を行い、最終的な票はシャイーと某イタリア人指揮者に割れた
- 1988年のシーズンが9月最終週に始まると同時に、シャイーは正式に主席指揮者に就任した
この記事の情報源は8月31日付の『ザ・タイムズ』紙におけるインタビューとのことで、レコ芸同号の別のページでも他の人がその同じインタビューを引用していました。
さてこのときコンセルトヘボウ管弦楽団は、楽団員の投票によって指揮者を選出したようです。二人のイタリア人に絞られた後の最終決戦ではシャイーが満票を獲得したとの記述が別の資料にありましたが、いずれにしても「オランダ人」という条件は、もうこのときなかったわけです。最初の非オランダ人主席指揮者となったことを、シャイーは大いに誇りにしていたとのこと。
ちなみにこの記事ではシャイー以外の指揮者の動向にも触れられているのですが、三浦氏は記事中で、チーフ・コンダクターを「主席指揮者」、プリンシパル・コンダクターを「首席指揮者」と訳したと断っておられます。一方レコード会社側は「常任兼音楽監督」という表現をしていました。例えば、シャイー/コンセルトヘボウ管弦楽団の二度目の来日公演に合わせて、ポリドール株式会社が1993年9月に制作した宣伝用小冊子には、こうあります。
1986年に、初めてオランダ人以外の、しかも弱冠33歳という若さのイタリア人シャイーが常任兼音楽監督に任命された時は大きな話題となりました。1988年にはその若き巨匠のもとで創立100周年を盛大に祝い、(以下略)
これが正しいとすれば、正式就任の二年前に「任命」、すなわち内定していたことになります。また、彼の若さが強調されているものの、歴代の常任指揮者の就任年齢を調べてみますと、
- ケス 32歳
- メンゲルベルク 24歳
- ベイヌム 44歳
- ハイティンク 32歳
- ヨッフム 59歳
- シャイー 35歳
ベイヌムもコンセルトヘボウ管弦楽団の副指揮者就任が30歳の時ですから、ヨッフムを別にすれば、シャイーの就任はむしろ最年長とさえいえるのです。しかしこうしてみてくると、中堅やベテランではなく若い指揮者を常任に迎え、成長を共にしながら長い関係を築いていくこと、これこそがコンセルトヘボウ管弦楽団の伝統ではないかと思えてきます。オランダ人を選ぶことよりもそのことの方が大事だったとすれば、シャイーの場合にもその伝統は守られたというわけです。最終投票で破れたというもう一人のイタリア人指揮者がシャイーよりもずっと年長だったのならこの仮説の裏付けになるかもしれませんが、『ザ・タイムズ』紙のインタビューでのシャイーの答えは……
「え? もう一人は誰かって? それは私の口からは言えないよ」次に、コンセルトヘボウ管弦楽団に就任した後のシャイーについて見ていきましょう。テキストは、コンセルトヘボウ管弦楽団のHPです。シャイーの項を、例によって直訳します。
リッカルド・シャイーは1988年以来、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団のチーフ指揮者であり続けている。彼のリーダーシップのもとで、レパートリーの意味深い拡大がなされ続けている。彼は、20世紀の作品やオペラのレパートリー演奏を刺激するに足る革新性を持ち続けると同時に伝統的なロマン派のレパートリーを広く維持することのできる、数少ない指揮者の一人である。ヒンデミットの室内楽、メシアンのトゥーランガリラ交響曲、そしてエドガー・ヴァレーズの作品全集の録音は、彼に最も格の高い賞をもたらしてきた。他の高得点には、最近のクリスマス・マチネーやネーデルランド・オペラと合同での上演制作における演奏会形式によるオペラの上演が含まれる。1998年11月、リッカルド・シャイーはオーケストラとの十周年を祝う演奏会の指揮をした。その際に、彼はダッチ・ライオンのナイト爵を授けられた。
最後の爵位はどういうものかよく分かりませんが、ベアトリクス女王から授けられたものです。この中にもあるように、シャイーがコンセルトヘボウ管弦楽団にもたらした変化は、決してイタリアもののレパートリー拡大ではなく、まず近〜現代音楽の導入であり、次がオペラの上演でした。20世紀音楽への目配りは、彼の父親ルチアーノ・シャイーが作曲家であったということが、やはり影響しているのでしょう。彼の現代音楽シリーズに対して、比較的保守的なアムステルダムの聴衆は当初戸惑いを見せたとのことですが、考えてみればメンゲルベルクの時代には、別項で取り上げたようにマーラーもR.シュトラウスも「同時代の音楽」だったわけで、そのような同時代性はむしろコンセルトヘボウ管弦楽団の特徴の一つでもあったのです。その意味ではシャイーが吹き込んだ新風は、むしろ伝統の回復だったのかも知れません。
そういうわけで、デッカへの録音でもこの路線が重視されています。初期の録音はムソルグスキー、ドヴォルザーク、シューマン、ブラームスといった名曲路線ですが、その傾向は徐々に弱まってきます。ブラームスの交響曲シリーズのカプリング曲を見ても、1987年の第1番では「大学祝典序曲」だったものが、2年後の第2番ではウェーベルンとなり、続く第3番と第4番ではシェーンベルクでした。一般に全集録音でフィルアップが「大学祝典序曲」とくれば、次は「悲劇的序曲」「ハイドン変奏曲」と相場が決まっております。これは明らかに途中で路線変更がなされたのでしょう。現在は、マーラーおよびブルックナーというコンセルトヘボウの伝統を継承したシリーズ(「マタイ受難曲」も録音済みとのこと)の他は、20世紀音楽の録音が中心となっており、バルトークなども録音されているようです。そして1999年にはオペラ録音も登場しました。こちらの路線も、継続が期待されるところです。
オペラについては、2000年2月に来日した際のインタビュー記事(『FM fan』2000年第7号,共同通信社)によると、3年ほど前に年に2回、オーケストラに柔軟性を身につけさせるためにオペラを演奏していたものの、当時はまだ自信を持って聴いてもらえるところまでいっていなかったとのこと。しかしその後もこの試みは続けられてきたようで、そのインタビューの際には「6月に『アイーダ』を演奏するから聴きに来ないか」とインタビュアーの黒田恭一氏を誘ったらしく、コンセルトヘボウ管弦楽団のオペラ演奏はいよいよシャイーが満足できるレベルまで到達したということなのでしょう。最後に簡単なプロフィール。1953年2月ミラノ生まれ。1968年に15歳で指揮者デビューし、1972年にはミラノ・スカラ座のアシスタント指揮者となる。1982年から1989年までベルリン放送交響楽団(現ベルリン・ドイツ交響楽団)の音楽監督、1982年から1985年までロンドン・フィルの首席客演指揮者、1986年から1993年までボローニャ歌劇場の音楽監督、1999年からは創設されて間もないオーケストラ、ミラノ・ジュゼッペ・ヴェルディ交響楽団の音楽監督。
そしてもちろん1988年からコンセルトヘボウ管弦楽団の常任指揮者で、現在は13回目のシーズンということになります。先に引用した2000年来日時のインタビューによると、シャイーは年間25週間をアムステルダムで過ごしているということで、本拠地でこれほど長い時間を費やすスター指揮者はあまりいないのではないでしょうか。例えばショルティが自伝で語るところによると、シカゴ響との契約ではシカゴに割く時間が年間12週間(プラス演奏旅行)という条件だったとのことです。このように多くの時間も確保しながら、コンセルトヘボウ管弦楽団との良好な関係を依然として保ちオーケストラの質を維持しているという点だけでも、シャイーは充分な評価に値する指揮者であるといえましょう。まだまだ長期に渡ってその関係を継続し続けるに違いありません。
(An die MusikクラシックCD試聴記)