モントゥーの「エロイカ」を聴く

(文:青木さん)

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ベートーヴェン
交響曲第3番 変ホ長調 作品55 「英雄」
ピエール・モントゥー指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
録音:1962年7月1〜3日、コンセルトヘボウ、アムステルダム

CDジャケット CDジャケット
輸入盤
Philips 442545-2
国内盤
ユニバーサルミュージックUCCD3379
 

■ 演奏の感想

 

 これは名演奏として以前から知られている録音です。1994年に二度目のCDが出て以来ずっと入手困難となっていて、最近ようやく再発売されました。モントゥーとコンセルトヘボウ管のスタジオ録音はこの「英雄」とその翌年の「未完成」の二つしかないという希少価値に加えて内容的にも素晴らしいものなので、入手しやすくなったら採りあげようと考えていましたが、ようやくその機会がきたわけです。

 ところがその内容をいざ文章にしようとすると、これがなかなか難しいのでした。あまりに自然、あまりにまっとうすぎて、「なんと素晴らしい曲なのだろう」という感想が先に立ってしまいます。他とは異なる自己主張や奇をてらった表現は皆無、熱狂や華麗さや深刻さにも無縁で、言うなれば中庸の演奏なのですが、それが凡庸にはならずにすべてが絶妙なバランスで構成されています。端正なフォルムの中に快適な躍動感としっかりした風格を持たせた、味わい深い自然体の名演と言うほかありません。

 その特徴は、冒頭の和音からして明らかです。重すぎず軽すぎず、弾んだリズムが心地よく、これだけで期待が高まるような導入です。速めのテンポと重さを排した響きなのに雄大なスケール感のある第1楽章。葬送行進曲も、もたれないリズムで推進しつつ格調を保ち、金管の抉りなどアクセントも効いています。第3楽章では、典雅なトリオがキビキビと弾む前後の部分と鮮やかな対比を成し、理想的な表現。そして終楽章もメリハリをつけながら進み、途中でちょっとだけ緩みかけるものの、最後は堂々と締めくくられます。まったく見事。

 

■ オーケストラ

 

 さてコンセルトヘボウ管ですが、個々の楽器の妙技や合奏の美しさはいつも通りとはいえ、この時期の他の録音と比較するとややコクに乏しく薄味に聴こえます。その代わり抜群のレスポンスのよさが感じられ、この点は過度の重厚さが抑えられているせいもあるのでしょう。このような柔軟性もまた、このオーケストラの特徴です。

 弦は厚みが中庸的なのに立体感があり、これはヴァイオリンを左右に分けた対向配置の効果でしょう。チェロは右側のようですが。木管の美しさと存在感は格別です。ティンパニは少し弱いものの、この演奏の中で強奏すればバランスを壊してしまうでしょう。金管の音色と溶け合いは理想的。ただ、第3楽章のホルン三重奏は音がくっきり分離せず、このあたりは古い録音の限界かも。

 全体としては、モントゥーの至芸だけでなくオーケストラの個性も十分に味わえる名録音です。ベイヌムの死後数年間は低迷を続けたと言われることもあるヘボウですが、そのような側面は感じられません。

 

■ スコア

 

 この録音は、第1楽章ラスト直前のトランペットによる主題(14:00〜)を、楽譜通りに途中までしか吹かせていないことでも知られています。現在と違って1962年の時点ではトランペットに最後まで吹かせるという編曲が主流で、このような例はたいへん珍しかったとのこと。福島章恭氏は『クラシックCDの名盤』(文藝新書,1999)の中で、この点も含めて「万事スコアの指定を守り」と書いていますが、金子建志氏は『200CD オーケストラの秘密』(立風書房,1999)の中で「微妙な変更」があると書いています。いずれにしても慣例的だった編曲を採用していないことからも、「余計なことをしなくてもいい演奏はできる」というモントゥーのスタンスが伺えるのではないでしょうか。

 ただし、第1楽章で提示部のリピート指示が守られていないことは、個人的には残念に感じます。これも当時はカットが普通でしたが、どうせなら徹底して欲しかったところです。

 

 リハーサル

LPのジャケット

リハーサルが収録されたLPのジャケット。

 この録音セッションには、第2楽章前半部のリハーサル録音も残されていて、1974年にフォンタナ・レーベルから出た「グロリア」シリーズのLPと、ノー・ノイズ・システムを採用した「レジェンダリー・クラシックス」シリーズで1988年に出た最初のCDには、それが収録されていました。14分ほどのモノラルの録音ですが、これが大変な聴きものなのです。

 まず驚かされるのはモントゥーの声。ハリがあり溌剌とした若々しい美声は、87歳の老人のものとはとても思えません。本編の音楽が年齢をまったく感じさせないのも当然だと、妙に納得してしまいます。言葉はフランス語で、フランス人なので当たり前ですが、オーケストラの全員にちゃんと通じていたのかと余計な心配をしてしまいます。オランダではフランス語が普通に使えるのか、あるいはコンセルトへボウほどの国際的オーケストラの団員ともなれば複数言語の嗜みは当然なのでしょうか。

 リハーサルの内容がまた驚きで、スイスイと流していくようなものではなく、冒頭の部分を何度も繰り返してリズムのわずかな違いを根気よく修正していくのです。楽譜の記号を正確に守るようにという指示も何度も出てきますが、とにかく非常に微妙なニュアンスに対するモントゥーのこだわりが、これを聴くとよく伝わってきます。14分をかけて105小節までしか進みません。全曲に渡ってこんなリハーサルをしていたのかと思うと気が遠くなりそうなほど。つまりモントゥー自身が高い理想を持っていて、それを実現しようとする地道な努力の積み重ねがあったわけです。格別なにもしていないような自然体の演奏は、しかし、何もしないのでは生まれない。「名盤誕生の舞台裏」を垣間見ることができる貴重なリハーサルといえるでしょう。

 国内盤LPのライナーノートには、廉価盤にもかかわらずその全訳が掲載されていますので、以下に転記させていただきました。歌が聞こえないのは残念ですが、内容はこれで分かると思います。なかなかの名口調に訳されていますよ。

 

■ 資料編 国内盤LPのライナーノートからリハーサルでのモントゥー

 

【演奏 第2楽章始めから第3小節まで】

さて、一寸待って下さい、それ程、ティヤン・タ・ランと誇張しないで。パーンパパン、ティーララーララーンランという風にね。これは、絶対に32分音符ではありません。いいですね、かといって、また、もちろん16分音符でもない。さて、難しいのは、最初の二つの音符です。第一バイオリンの皆さん。連鎖音をとめる様に奏せねばなりません、パーンパパン・パーンパパンというように。それから、どうぞ、コントラバスの方々、小節の前で、本当に、タララ・トララランと、二つのトララランは第一拍で奏いて下さい。そしてピアニッシモ(最弱音)で、パーンパパンとね。連鎖音をとめるような気持で ―。

【演奏 第2楽章始めから第5小節まで】

コントラバスの皆さん! 正確に、一、二、三、四と、タララ、正確に一、二、タララン、二、三、ティララララン、正確に一、二、と。どうぞ、ここが一種むずかしい所ですね、もう一度、指板に構えて。

【演奏 第2楽章始めから第7小節まで】

少しずつ…いや、タラ、ララ、ラタラじゃない、ティーリリと。レガート(なめらか)に、レガートに。タ、ラ、という風に聞えるが、そんな風でなく。もう一度どうぞ。ここは譜面の註としては唯一の難しいところです。まず、記号をよく見て。

【演奏 第2楽章始めから第8小節まで】

ファーソーラー 皆、平坦に。ティララタラタッタッタじゃなく、ティイアタラ、パパパとね。ここは、音が分離されてはいますが、真のスピッカート(はっきり離して奏する)ではありません。どうぞ、もう一度。これが、ここで我々のなすべきすべてです。

【演奏 第2楽章始めから第19小節まで】

(演奏の途中で)連鎖音をとめて ― 大変よろしい ― ピアニッシモで ― 正確に、正確に、皆さん、ターアン、パパパパパパパとね。ラレンタンド(漸次ゆっくりと)ではありません。ここから第二部となります。エーラー、変ホ長調で、シーミー。

【演奏 Aより第29小節まで】

チェロの皆さん、ほんの一寸グリッサンド(滑らせて音を出す)にして欲しいんですが。レーラ、レーラ、レーラとね、いいですね、チェロ。

【演奏 第29小節目から第66小節まで】

ソステヌート(音を続けて、延ばして)でソステヌートで、ターリ、ターリとね。ティラ、タラとしないで、ここ、長調の前はソステヌートです。ここもですね、一、二、三、四 ― 長調の4小節前です。極めてソステヌートで ―

【演奏 第65小節から第67小節まで】

パアン、パパン、パアンパパン、パアンパパンと、もう一度、四小節前から。

【演奏 第65小節から第76小節まで】

ここも、本当に、パン、パンとね、はっきりと強くパンと。パーンではなく…パンと ―。長調のところから。

【演奏 第69小節から第78小節まで】

合奏の皆さん。ちゃんと音符を数えて下さい。タカタカタカタ。タラタラタラタラタラタラタ。今のように、タララララララというのではありません。いいですね、六連音が不充分といえます。ここです。Cの前どうぞ。Cの3小節前です。タラタラタラタラタラタラタ さあ!Cの3小節前から、強くはっきりと、さあ!

【演奏 Cの3小節前から第97小節まで】

余り強すぎぬように、ティヤン、ティヤン、ティヤン、ティヤン、ティヤンではない。自然に、パンパンパンパンパンとね。問違っている人がいたように聞えましたが…楽符のどこですかな? そう、短調の前、短調の前です。9小節ですね。ここは、自然に、余り強くなく、かといって、ある程度はっきりと強く弾くように書かれています。短調の9小節前から。ピパパ、ピパパ、さあ!

【演奏 第96小節から第105小節まで】

 
 

(2005年6月23日、An die MusikクラシックCD試聴記)