シュターツカペレ・ドレスデン来日公演2004

5月14日(金) 東京文化会館
文:松本武巳さん

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■ 地味なR.シュトラウスって素敵ですね!

2004年来日公演プログラム

ハイティンク指揮シュターツカペレ・ドレスデン
コンサートマスター:マティアス・ヴォロング

  • モーツァルト:交響曲第41番ハ長調 K.551「ジュピター」
  • R.シュトラウス:交響詩「英雄の生涯」作品40
  • ワーグナー:楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕への前奏曲(アンコール)
 

■ モーツァルトの「ジュピター」を聴いて・・・

 

 私はこの曲がさして好きではないし、もしかしたら楽曲を全く理解していないかも知れない。そんな私にこの曲の感想を述べる資格があるかどうかはやや怪しいが、当日、東京文化会館でのひと時を共有した者として書こうと思う。ハイティンクの解釈は本当に真っ当な伝統に立脚した素晴らしい物であった。冒頭の響きからして演奏に引き込まれるに何ら不足のない物であった。しかし、私は真に満足は出来なかったことを正直に書いておきたい。何故か? 多分一つには、この曲が来日公演のスタートであったためか、技術的な危うさを露呈した部分が垣間見られた点である。そして二つには、あまりにも真っ当な演奏であったために、結果として、ハイティンクとカペレでしか聴き得ない物が多分一つも提示されずに終わったことである。三つには、私の個人事情であるが、モーツァルトの後期の交響曲のリピートを全て実行すると、私の緊張感が保ち得ない点である。私はあまりにもモーツァルトの交響曲は「30分!」なる固定観念を持たされてしまったのかも知れない。あの、クーベリックの演奏でも、ソニーの「ジュピター」は是であるのに、オルフェオの「ジュピター」は否であるのである。

 

■ R.シュトラウスの「英雄の生涯」を聴いて・・・

 

 この曲はカラヤンによる素晴らしい名演が存在している。私もカラヤンの演奏は今もって大好きである。そして、この曲の正しい演奏方法は、ハデに金ピカに仕上げる物として個人的にも分類していた。しかし、ハイティンクとカペレは、何とも地味な演奏であった。ところが、私はこの演奏に引き込まれてしまった。考えて見れば、何ゆえにオーケストラの機能美を表出することのみが、この曲の唯一絶対の解釈であらねばならないのであろうか? その点を、実に見事に表現しきった「英雄の生涯」であったと思う。ここでのカペレの演奏スタイルは、主導権を完全に「弦」が掌握していた。「管」の中では、むしろ「木管」の方が、従たる役目の中での重要な位置を占めていた。「金管」は本当に控えめな位置づけであった。しかし、見事にR.シュトラウスサウンドを表現していたのである。

 

■ でもやっぱりR.シュトラウスは「金管」のための音楽である

 

 上記と相反する表記であるが、家に帰ってスコアを開いてみたが、本質的にはこの曲は、きらびやかな「キンキラキン」の音楽であるとのスタンスで演奏する方がノーマルであると考えられる。つまり、カラヤンが名演であるとの理解を変える必要はないのである。では、なぜ、カペレとハイティンクの地味な「英雄の生涯」がここまで私の心を捉えたのであろうか。スコア上は、むしろ「ドハデ」のための音楽であることは確実であるにもかかわらず・・・

 

■ ドレスデンとハイティンクの本質的な音楽性の共通項

 

 私は結局、「英雄の生涯」の終盤にこんなことを考えながら、演奏者たちの顔の表情を見ていた。そして、ある結論を持つに至った。英雄の生涯のみならず、このオーケストラと指揮者は、本質的に「主」が弦楽器、「従」が管楽器であるように思われる。しかし、このことが、実際の楽曲の演奏への参加度とは必ずしも一致しないことに気づいた。彼らは、まさに全員の総意で楽曲のあらゆる部分に共有する意思をもって向かっているのだ。つまり、彼らの演奏行為の伴わないときの、各奏者の目や身体の動きを見ると良く分かるが、たとえばヴァイオリンのソロを演奏しているのは、「コンマス」ではなくオケの全員なのである。シンバルを叩くのは打楽器奏者ではなく、指揮者も弦楽器奏者も全員で叩いているのである。これは明らかに、全員の奏者の総意で作り上げた共同作業の結果が、演奏行為となって表れていると思う。つまり、いま流行の「分業と流れ作業」の対極にあるオーケストラと指揮者であるのだ。とすると、彼らの中で最も重要な演奏者は、客観的に見ると最も演奏する部分が少ない者であるとも言える。自ら楽器を演奏しないときの彼らは、決して休息ではない。むしろ、最も演奏に参加しているときは、楽器を演奏していない時であるとすら言えよう。彼らの伝統的なスタイルが綿々と受け継がれているのは、このような演奏を休んでいる奏者の演奏への実質的な参加行為が、他のオーケストラとは異なり、今もなお重要な行為として行われ続けていることに尽きる。結果として、このオーケストラの音楽の魅力の本質は、指揮者と演奏者全員が一体となって作り上げる、昔ながらの合奏の伝統を保持し続けていることにある。少なくともステージ上にあがった全員が、あらゆる演奏行為に参加している。これはまさに「カペレ」である。ドイツ語の「カペルマイスター」とか「シュピーレン」とか、あるいは「ムジツィーレン」などの言葉の、深い部分での本質が今もなお、連綿として引き継がれているこのオーケストラは、ある意味「時代錯誤」なのかも知れない。それにしてもこの意味における錯誤は、結果として何と大きな魅力を現代に伝え続けているのだろうか。彼ら個人個人の技量は、もしかしたら世界の「超一流」の中には入らないかも知れない。しかし彼らの音楽する姿勢は、現代では世界中でも稀な「レア物」であるレベルを維持し続けている。こんなことを感じて終わった、私のカペレとハイティンクによる初日公演であった。今後の2回の演奏が待ち遠しいことは言うを俟たない。

 

(2004年5月16日、An die MusikクラシックCD試聴記)