サンソン・フランソワのドビュッシーを聴く
第3回 前奏曲集第1巻−第7曲〜第12曲−を聴く(除く第8曲)

文:松本武巳さん

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■ はじめに

CDジャケット

 サンソン・フランソワは第1巻の後半に、彼の好みの曲が多かったのでしょうか、第7曲と第9曲のみ、録音が1回だけであるものの、第8曲、10曲、11曲、12曲の4曲は1961年のリサイタル盤が先行して存在し、さらに第8曲と10曲には、1969年来日時のライヴ録音も残されています。かつ、1961年のリサイタル盤と晩年の全集盤は、技巧的なレベルの差も大きいものの、それ以上に解釈上の差も多々見られるので、比較しながら書いていく必要があります。なお、沈める寺の58年録音は、関係者向けプライヴェート音源ですので、ここでは評論を省略したいと思います(61年録音と似ていますが、正規録音に比べるとやや雑な仕上がりです)。

 なお、本特集の執筆上の都合で、もっとも著名である第8曲「亜麻色の髪の乙女」は、後日に回させて頂きたいと思います。ご了承ください。

 

■ 第7曲「西風の見たもの」(68−69年録音)

 

 この「西風の見たもの」の曲想を、無条件に受け入れる感性の持ち主は、そもそもフランス音楽を好み、かつピアノ独奏曲を好む方に限られるかも知れません。その意味で、この曲は、当初から聴き手を狭めてしまっているかも知れません。さらに、冒頭から激しい不協和音の連続で、普通に聴くと、とてもドビュッシーの楽曲だとは思えません。かつ技巧的にも相当な難曲となっており、正直なところ、1961年のリサイタル盤で録音を残して置いて欲しかった代表曲の一つだと思います。

 しかし、私は一方で、この第7曲におけるフランソワの演奏を高く評価します。それは、テクニックの衰えから来ると思われる、タッチの粒の不揃いまでも、色彩の変化に富む一要素と思えてくるような錯覚を、聴き手にもたらしているからなのです。このようなゲンダイオンガクに近い要素に満ちたこの曲を、聴き手に嫌がらせることなく聴かせる、このような能力は、フランソワ以外にあり得ない才能だと信じます。その意味では、テクニックがしっかりしていた1961年に録音が残されていないことは、反面から捉えますと、結果として幸運だったのかも知れません。

 なお、楽譜をお持ちの方のために、少々興味深い事実を一つだけ書いておきます。第35小節〜38小節と、第39小節〜42小節は、ほとんど同じ内容ですが、なぜか最低音部で強調されるオクターブの音型(フォルティッシモの指示あり)が、前者は3回なのに、後者は2回しか書かれていないのです。フォルティッシモの指示があり、かつ飛びぬけて低音で鳴り響く音型ですから、どなたが聴いてもそれと判る和音です。少なくとも作曲したドビュッシーは、意図を持って後者の回数を減らしたと思いますが、実はピアニストの録音を聴くと、単純に楽譜どおり弾いている方はともかく、明らかにきちんと楽譜を読まずに、両方とも同じように弾いてしまっている方もおられます。そのあたりを慮ってか、新ドビュッシー全集である《デュラン・コスタラ版》では、後者にカッコ付きで3回目の低音の音型を挿入してあります。しかし、ドビュッシーの自筆譜その他、どこにも3回目の低音を書き残した形跡は無いのです。(この経緯が詳しく紹介されている書籍に《ドビュッシー・プレリュード 第1巻 演奏の手引き [改訂版] 全音楽譜出版社2007》があります)

 ついでに書きますと、そもそもフランソワは、最低音を深い響きで強調する傾向があります。ここでの、前者3回、後者2回の深々とした低音の響きは、それだけでフランソワの呪縛に捕らえられてしまいそうな気がします。そのくらい、彼の低音の響きは、非常に深いのに、まったく重くない、良い意味でとても珍しい響きに魅了されます。

 

■ 第8曲「亜麻色の髪の乙女」(61年、68−69年、69年録音)

 

 すみませんが、今回は第8曲を省略させて頂きます。

 

■ 第9曲「途切れたセレナード」(68−69年録音)

 

 ピアノで、ギターやフラメンコを模した楽曲だと言われています。ドビュッシー自身が前年に作曲した、管弦楽のための映像の《イベリア》を想起させる音型や転調が見られます。フランソワは評伝によりますと、フラメンコに興味を抱いていたそうですので、たぶんこの曲の録音は出来が良い演奏だと思うのですが、実は、私個人が、この曲を苦手にしておりますので、フランソワの演奏の真価がいまだに理解できておりません。若干無責任ですが、読者の皆さまの耳に委ねたいと思います。

 

■ 第10曲「沈める寺」(58年、61年、68−69年、69年録音)

 

 飛びぬけて大きな構成を持った楽曲で、これ1曲で6分かかります。そのために、単独で演奏される機会も多く、アンコールの1曲目に置かれることも多い楽曲です。また、この曲の生命線は明らかにペダリングだと言えるでしょう。技巧そのものは、そんなに高いものを必要としておりませんが、ペダルが出来の全てを決すると言っても過言ではありません。

 フランソワの3つの演奏を比べてみると、少なくとも彼が、コンサートホールの音響や、弾いているピアノの状態で、ほとんど直感的にペダリングを変更していることが聴き取れます。特に、同年に録音されたフランスのスタジオ録音と、日本のライヴ録音の違い(ペダリングを大きく変えていることが、はっきりと聴き分けられます)は、驚くべきものですが、ピアノの鍵盤を叩く以外で、こんなにもピアノ曲の聴き比べがし易い楽曲は、ほとんど存在しないかも知れません。そんな捉え方もある楽曲だと言えるでしょう。

 

■ 第11曲「パックの踊り」(61年、68−69年録音)

 

 パックとは、イギリスの御伽噺に出てくる妖精のことで、ここでのパックは、たぶんシェイクスピアの「真夏の夜の夢」の中の妖精であると言われています。フランソワの旧録音は、軽やかな動きを強調しすぎたせいか、却って聴き手を想像の世界へ送り込んでくれません。むしろ晩年の全集録音の方が、飛び跳ねるようなコケティッシュな側面が、きわめて心地よく表現されていると思います。

 実は、この曲は、一つにドビュッシーの付点リズムの特殊性、二つに意外なほど多用されている不協和音、以上の2点から演奏は意外に困難な楽曲だと思いますが、フランソワの、特に再録音は、傑出した出来であると言えるでしょう。少なくともこの第11曲は、フランソワの録音から聴いてみると、とても面白いと思います。

 

■ 第12曲「ミンストレル」(61年、68−69年録音)

 

 前奏曲集の中で、もっとも古典的な様式を維持している楽曲です。しかし、ミンストレルとは、そもそも《ガングロ》の団体が、アメリカで歌ったり、踊ったりする興行のことですから、曲のモチーフ自体は、とても斬新なものです。ドビュッシーは、イギリスでこの興行を見たそうです。当然、その際の印象が、楽曲を支配していると思われます。

 なお、私はフランソワの録音で、このミンストレルを聴くと、旧録音はなぜか「ロートレック」を想い出し、新録音は「ミュシャ」を想起してしまうのです。全く理由はありませんが、少なくともフランソワで聴くと、《ガングロ》の音楽では無く、もっと詩的な、あるいは絵画的な、それも直線的な響きではなく、しなやかなエレガントな響きとして聴こえてくるのです。そして、フランソワの前奏曲集の中で、特にこのミンストレルは、ドビュッシーもフランソワも、ともに生粋のフランス人であったことが納得できる、こんな観点から、私はフランソワのミンストレルを特に好んで聴いているのです。

(2008年8月7日、プラハでミュシャ美術館を訪れた日に)

 

(2008年8月13日、An die MusikクラシックCD試聴記)