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第12回 マーラーの交響曲第1番「巨人」:マーラー演奏の行方

文:伊東

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 「名盤を探る」第12回はマーラーを取り上げます。曲目は交響曲第1番です。

 

■ 旧時代の録音

 

 マーラーの交響曲第1番なら、私はブルーノ・ワルター指揮コロンビア交響楽団による1961年録音(SONY)をことさら愛聴しているのですが、今回は御大バーンスタインから始めます。

CDジャケット

マーラー
交響曲第1番 ニ長調「巨人」
レナード・バーンスタイン指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
録音:1987年10月、アムステルダム、コンセルトヘボウにおけるライブ
DG(輸入盤 427 303-2)

 バーンスタインの洗礼を受けなかったマーラー・ファンは少ないと思います。少なくとも私と同じ40歳代以上では。私もご多分に漏れず、若い頃バーンスタインのマーラーにのめり込み、日がな一日バーンスタインの濃厚なマーラーを聴いていたものです。濃厚などという生やさしいものではなく、重くて、長くて、粘り気があり、おどろおどろしくもありました。それが癖になってしまうのですね。私はマーラーはこのように演奏されてこそ真価を発揮するとさえ思っていたものです。

 バーンスタイン第2回目のマーラー録音はそのひとつひとつが大変な事件でした。新録音が登場するたび話題になりました。1980年代後半においてはそれほどのインパクトを持っていたのです。バーンスタインがどんな傾向の演奏をしているのか多くの人が多かれ少なかれ予想していたにもかかわらず、それを麻薬のようにして聴いていたのではないでしょうか。これだけ指揮者の思いが濃厚に伝わる特殊な演奏を夢中になって聴いていたわけですから、いかに強烈なマーラー・ブームであったか分かります。

 この第1番も、バーンスタインらしいドラマに充ち満ちています。特に第4楽章はバーンスタインが魂を燃焼させているような凄まじさです。今の若い人はどうなのでしょうか。こういう演奏を聴くと笑ってしまうかもしれませんね。しかし、私の年代はこれを大真面目に聴いてきたのです。

 マーラー・ブームを作ったのは、バーンスタインだけではありませんでした。特に1980年代から90年代は多くの指揮者がこぞってマーラーに取り組み、思い思いの録音をしていました。クラウス・テンシュテットもそうです。バーンスタインと同様、その録音がリリースされるたびに注目を集める指揮者でした。ある意味ではバーンスタイン以上に激烈で苦悩に満ちたマーラーを演奏する人でした。それも我々は熱烈に支持してきたのです。

 バーンスタインもテンシュテットも、天に召され、今はマーラーの側にいます。一世を風靡した大マーラー指揮者たちの演奏をリアルタイムで聴くことができた私の世代は大変幸福であったと思います。もし、今の趣味嗜好がバーンスタインやテンシュテットの演奏とは大きく異なっていたとしても、です。あれだけ私の世代を夢中にさせてくれたのですから。

 では、新時代はどのような録音があるのでしょうか。

 

■ 新時代の録音

 

 バーンスタインがコンセルトヘボウ管弦楽団を起用してライブ録音を行った後、このオーケストラでセッション録音を行ったのはシャイーです。

CDジャケット

マーラー
交響曲第1番 ニ長調「巨人」
リカルド・シャイー指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団
録音:1995年5月19,20日、アムステルダム、コンセルトヘボウ
DECCA(輸入盤 448 813-2)

アルバン・ベルク:ピアノ・ソナタ作品1(管弦楽版)

 こちらはさすがにバーンスタインのように指揮者の魂が燃焼しているようには思えません。ドラマチックな演奏ではあるものの、演奏家の内面からわき上がってくる重苦しいドラマがあるわけではないのです。シャイーは近代的機能美を持つコンセルトヘボウ管弦楽団の千変万化する音色とパワーを最大限に活かし、内面のパッションを適度に盛り込んで美しくも劇的な「巨人」を作り上げています。

 セッション録音であるだけに音質的にも万全です。DECCAが行ったコンセルトヘボウ録音は、どれも魅惑的なサウンドになっているのが特長で、 おそらく、本物以上の響きがします。DECCAには、何度も繰り返し聴くに堪えるディスクを作るという意欲も技術もあったのですね。この頃コンセルトヘボウ管のシェフをしていたシャイーは本当に恵まれていたと思います。もちろん、その恩恵は我々リスナーに及ぶのですが。

 実は、この録音を新時代に分類するのはどうかとしばらく考えていました。シャイーは現在も活躍する有力な指揮者ですから新時代への分類になることは間違いありませんが、全体を俯瞰しますと、今ではシャイー盤でさえ旧時代の録音という気がしないでもありません。その後、マーラー演奏のありようが大きく変わってきているためです。

 サンプルとしてコンセルトヘボウ管の最新盤をみてみます。

SACDジャケット

マーラー
交響曲第1番 ニ長調「巨人」
マリス・ヤンソンス指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団
録音:2006年8月28日、11月17日、アムステルダム、コンセルトヘボウにおけるライブ
RCO LIVE(輸入盤 RCO 07001)
SACDハイブリッド盤

 2010年現在のシェフはヤンソンスです。コンセルトヘボウ管は、メジャー・レーベルとの契約をやめ、自主制作レーベル「RCO LIVE」で録音をリリースし始めました。

 ライブでCDを作るというのは、ライブにおける演奏の熱気・感興を盛り込むことができ、かつ、制作費及び時間を大きく削減できるためにバーンスタインのDG録音以降急速に増えてきました。録音技術が向上したために、ライブでも音質を落とさずに録音できるようになったことが大きいのかもしれません。

 この「巨人」もそのひとつです。コンセルトヘボウ当局は音質を確保するためにSACDでリリースしています。このディスクでは、SACDであるとはいっても特に優れた音が取れているとは全く思えませんが、まずまずでしょう。

 演奏は、かなり開放的です。明るく伸びやかにオーケストラを鳴らし、大変健康的なマーラーになっています。バーンスタインのような内面のドラマもなく、シャイーのようなパッションを盛り込むという風でもありません。言葉の響きが良くないのですが、実にあっけらかんとしています。

 別に私はヤンソンス盤を貶しているわけではありません。たまたまヤンソンス盤をここに取り上げましたが、こうした傾向の演奏・録音は珍しくもありません。これが普通のマーラーになってきたと私は思うのです。

 思うに、マーラーの交響曲は、もう特別な曲ではないのです。

CDジャケット

 ワルターは1961年にこの曲の名録音を作りました。今なお第1級の演奏です。ワルターは録音に際し、この曲がまだ聴衆に特別な曲であったためにエキセントリックになり過ぎないようにバランスを考えながら演奏したと想像されます。いかにも微温的な演奏のようでいて、今聴いても優れているのは、そうした指揮者の工夫が録音にしっかり織り込まれているためです。

 バーンスタインやテンシュテットは、マーラーの音楽がエキセントリックであること、激烈であること、さらに自分がその音楽に没入していることを隠そうともしませんでした。彼らにとって、マーラーの交響曲は完全に特別な音楽だったのです。そして、それを聴く我々も特別な音楽だと思って聴いていたのです。

 それが変わってきたのは、おそらく、ブーレーズのマーラー録音が登場した頃からです。ブーレーズのマーラーは交響曲第6番が1994年に録音されています(DG)。曲が異なるので脱線してしまいますが、バーンスタインの演奏とは全く正反対の演奏でした。ブーレーズが「内面のドラマ」になど全く興味がないのがすぐに分かります。ブーレーズにとってはマーラーを特別な曲として演奏する気などさらさらなかったのです。後期ロマン派の、交響曲という名前を持つ抽象的な曲のひとつという接し方だったのでしょう。もっとも、それ故に曲の一面を露わにした演奏でもありました。

 私はブーレーズだけがそうした視点で演奏しているのかと思っていたのですが、そうではなかったのです。考えてみれば、バーンスタインやテンシュテットが極限まで推し進めたマーラー演奏のスタイルを他の指揮者がそのまま継承するのは無理です。私の勝手な憶測ですが、指揮者たちにとっても、「もうよしましょうよ」といった考えがあるのかもしれません。マーラーに対する客観的アプローチは指揮者たちに広がっているように思えます。そして、私たちリスナーもそれに順応しているのです。

 マーラーの交響曲第1番は、自然の中の音が聴き取れますし、聴き終わった後のカタルシスも大きいので私は大好きなのですが、有り体にいえばショウ・ピースです。ショウ・ピースでないように演奏した時代の方が特殊だったのかもしれません。第1番だけではありません。最近ではバレンボイムのように、交響曲9番でさえもショウ・ピースのように演奏する指揮者もいます。そう書いてしまうとびっくりするかもしれませんが、マーラーの交響曲は、ショウ・ピースと割り切って聴いても十分楽しめるのです。

 マーラーの演奏の基準をバーンスタインやテンシュテットに置く時代は過去のものになりました。私としては過去の、指揮者たちの内面のドラマがありそうな演奏が大好きなのですが、それを規範のようにして現代のショウ・ピース・マーラーを判断してはいけないのだと痛感する今日この頃です。

 

2010年4月20日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記