An die Musik 開設11周年記念 「名盤を探る」

第5回 モーツァルトのピアノ協奏曲第27番の場合

文:伊東

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 「名盤を探る」第4回はベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」でした。今度はモーツァルトのピアノ協奏曲である第27番を取り上げます。ベートーヴェンと同様、最後のピアノ協奏曲です。

 この曲の場合、旧時代に名盤が集中しています。まず第1に指を折るのはカーゾン盤です。同曲異演盤がありますが、ブリテンが指揮をした1970年盤が私の中では重要な地位を占めてきました。

 

■ 旧時代の録音

CDジャケット

モーツァルト
ピアノ協奏曲第27番 変ロ長調 K.595
ピアノ:クリフォード・カーゾン
ベンジャミン・ブリテン指揮イギリス室内管弦楽団
録音:1970年9月、スネイプ
DECCA(輸入盤 468 491-2)
ピアノ協奏曲第20番、23番、24番、26番を収録

 1970年に録音されたにもかかわらず、カーゾンの許可が得られなかったために発売が1982年になったという曰く付きの録音です。カーゾンのピアノがモーツァルト最晩年の達観したかのような清澄な幸福を表現しています。打鍵ひとつひとつが神秘的な調和の中にあり、しかもその音がこぼれ落ちる宝石のように輝いています。モーツァルトの洗練はここに極まっています。それほどの至純な音楽が自分の部屋の中で聴けるのです。これだけのピアノを、コンサートで聴くことはほとんど不可能に近いのではないでしょうか。

 カーゾンだけではありません。オーケストラの名手たちの奏でる音の清澄さがまたたまりません。私のような素人には、カーゾンがいったいこの録音のどこに不満を持っていたのか皆目見当がつきません。

 この演奏に対する批判を私は目にしたことがありません。それほどの名盤なのでしょうが、私はひとつだけ気になることがあります。これでは協奏曲の演奏とは呼べないのではないか、という一点です。

 カーゾンが演奏するこの曲は、形は協奏曲でも、実質がそうなっていないのです。ブリテンも、カーゾンのピアノの邪魔にならないように、カーゾンを引き立て、そっと包み込むようにオーケストラを伴奏させているように思えます。そのため、協奏曲というより、「オーケストラ伴奏付きのピアノによる独白」になります。この演奏を聴くたび、カーゾンが、自分のピアノを通してモーツァルト最後の年の独白を我々に届けているように感じられてなりません。そういえば、この曲にはトランペットも、ティンパニも使われておらず、実に静かな佇まいを見せています。声高な舞台は不要で、小さく独白するような形式になっているのです。

 それは勝手な思い込みなのかもしれません。モーツァルトだって一般の聴衆に楽しく聴いてもらうために協奏曲を作曲したわけです。モーツァルト最後の年に作曲されたこと、それ故、K.595という番号が与えられていることから、ついロマンチックな深読みをしてしまいます。しかし、カーゾンの演奏はそこまでを聴き手に感じさせるのです。

 上掲のCDジャケットは96kHz、24bitリマスタリング盤です。これがあれば世紀の名盤を心ゆくまで楽しめます。さらに、このリマスタリングでも飽き足らないのであれば、ESOTERICから発売されたSACD盤があります。

SACDジャケット

モーツァルト
ピアノ協奏曲第27番 変ロ長調 K.595
ピアノ:クリフォード・カーゾン
ベンジャミン・ブリテン指揮イギリス室内管弦楽団
録音:1970年9月、スネイプ
DECCA(輸入盤 468 491-2)
ピアノ協奏曲第20番とのカップリング

 ESOTERICによる解説文を読むと、SACD化するに際し、エンジニアはそれなりに音を加工しているのが分かります。そのことに対する是非はともかく、実際にこのSACDを聴いてみると、勝負があったと私は思います。日本人好みの音なのでしょうが、輪郭がはっきりした上、楽器のひとつひとつの立体感まで聞こえそうな仕上がりです。私はSACDに対しては、必ずしも全面的に肯定してはいないのですが、その私もこのSACDでカーゾンの演奏を聴いた際には驚きを禁じ得ませんでした。ESOTERICのエンジニアが音を良くも悪くも調整している結果なので、好みは分かれるかもしれませんが。

 ここで話を戻します。

 カーゾン盤はそれこそ浮世離れしています。この曲を普通の協奏曲として聴きたい場合にはあと2種を私は挙げておきたいと思います。ひとつはバックハウス盤です。

CDジャケット

モーツァルト
ピアノ協奏曲第27番 変ロ長調 K.595
ピアノ:ヴィルヘルム・バックハウス
カール・ベーム指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1955年5月、ウィーン
DECCA(国内盤 POCL-9762)
ブラームス:ピアノ協奏曲第2番とのカップリング

 カップリングされているブラームスの録音の方が圧倒的に有名ですね。しかし、モーツァルトも味があります。バックハウスのピアノがやや重厚で、協奏曲の中でオーケストラを相手に自分を主張しています。また、その音色が独特なまろやかさを持っているのも聴きものです。1955年の録音で、かろうじてステレオで収録されています。オーケストラの音は1967年に録音されたブラームスと違って今ひとつなのですが、バックハウスの音がしっかり収録されたことは大変貴重だと思っています。

 もうひとつは、アンネローゼ・シュミット盤です。マイ・ブームなのでご容赦ください。

CDジャケット

モーツァルト
ピアノ協奏曲第27番 変ロ長調 K.595
ピアノ:アンネローゼ・シュミット
クルト・マズア指揮ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1972年11月19-22日、ドレスデン、ルカ教会
DENON(国内盤 COCQ-84097-105)
(モーツァルト:ピアノ協奏曲全集)

 いかにも地味な組み合わせですね。ベルリンの壁が崩壊するずっと前の旧東側の録音です。演奏家たちがこの曲を協奏曲として立派に演奏しようという意気込みが如実に伝わってきます。全集を作るわけですから、万全の準備を行った上で気合いを入れた演奏をしたのでしょう。カーゾン盤が浮世離れするほど洗練の極みにあって、一種近づきがたい雰囲気がするとの対照的です。ストレートにこの曲を楽しむならこんな演奏がいいです。名曲・名演奏・名録音と三拍子揃っています。

 

■ 新時代の録音

 

 さて、肝心の新時代の録音です。これが難しい。さすがにカーゾン盤という最高峰を知ってしまうと選択肢が限られてくるのですが、バックハウス盤やシュミット盤のようなタイプの演奏もなかなか見つかりません。新時代というからには本来は2000年以降の録音を取り上げたいのですが、それだとほとんどなくなってしまいます。やむなく1980年代の録音から見ていきましょう。

 まず、かつて大評判となった内田光子の全集から。

CDジャケット

モーツァルト
ピアノ協奏曲第27番 変ロ長調 K.595
ピアノ:内田光子
ジェフリー・テイト指揮イギリス室内管弦楽団
録音:1987年6月
PHILIPS(輸入盤 438 207-2)
(モーツァルト:ピアノ協奏曲全集)

 1987年録音です。細部まできっちりととらえた録音の効果もあって、「音のひとつひとつ、フレーズのひとつひとつにこだわりがありますよ」 という演奏家の姿勢がひしひしと伝わってくる聴き応えがある演奏です。内田光子のピアノもピアノソナタの場合と違ってウェットにならず、好ましいと思います。

 次はバレンボイム。1988年録音です。

CDジャケット

モーツァルト
ピアノ協奏曲第27番 変ロ長調 K.595
ピアノ:ダニエル・バレンボイム
ダニエル・バレンボイム指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1988年2月、ベルリン
DECCA(輸入盤 468 491-2)
モーツァルト:ピアノ協奏曲第24番、25番、26番を収録

 かなり立派な演奏です。バレンボイムのピアノはきらきら輝くような目映さがあり、この曲の明るさ、華やかさを表出しています。ピアノ・指揮ともに充実していて、バレンボイムという音楽家の優れた資質が分かります。本当に何でもできてしまう人ですね。ただし、超絶的に凄いかと言われればそこまでではありませんと答えざるを得ません。過去にとてつもない名盤があるというのはつらいものです。

 内田光子も、バレンボイムも同時代人として活躍していますが、二人とも1980年代後半の演奏です。新時代を代表する録音とはとても言いがたいのが難点です。再録音を期待したいところです。

 2000年以降の録音は寂しい限りです。協奏曲の録音が売れないのか、録音に値する演奏をする音楽家たちが払底しているのか、それとも過去にもうやり尽くされたのか。もしかしたらそのすべてが該当するのではと私は疑っていますが、そうした中で気を吐いたのはブレンデルでした。 2008年12月に引退しましたが、2000年録音盤を旧時代に分類するわけにはいきません。

モーツァルト
ピアノ協奏曲第27番 変ロ長調 K.595
ピアノ:アルフレート・ブレンデル
チャールズ・マッケラス指揮スコットランド室内管弦楽団
録音:2000年9月17-20日
PHILIPS(輸入盤 468 367-2)
モーツァルト:ピアノ協奏曲第22番とのカップリング

 ブレンデルは2000年前後にモーツァルトのピアノ協奏曲を集中的に録音しました。今思い起こせば、ブレンデルという才人が残したモーツァルト演奏の総決算であったわけで、録音されたこと自体が貴重でした。

 この新盤でブレンデルはマッケラスと一緒に演奏したにもかかわらず、ひたすら自分の音楽に邁進しています。マッケラスはモーツァルトやベートーヴェンの交響曲を演奏する際には、ピリオド・アプローチを積極的に取り入れ、爆発的に鳴り響く音響を伴う劇的な演奏を行っているのに対し、ここではピリオド・アプローチは最小限に抑えられており、ブレンデルは演奏の主導権を握ってオーソドックスな演奏に徹しています。ピリオド・アプローチが珍しくもなくなっている今日、モーツァルトのピアノ協奏曲、それもこの曲でめぼしい成果が上がっていないのは、もしかしたら、この曲の透明度の高さ故にピリオド・アプローチがそぐわないのかもしれません。

 そう思っていると、ピリオド楽器によるシュタイアー盤が登場しました。

CDジャケット

モーツァルト
ピアノ協奏曲第27番 変ロ長調 K.595
フォルテピアノ:アンドレアス・シュタイアー
ゴットフリート・フォン・デア・ゴルツ指揮フライブルク・バロック管弦楽団
録音:2007年5月、フライブルク
harmonia mundi(輸入盤 HMC 901980)

モーツァルト:クラリネット協奏曲とのカップリング

 フォルテピアノとピリオド楽器を使ったオーケストラとの組み合わせです。これはかなり期待を込めて購入したCDでした。聴いた後の思いは複雑です。こういう演奏を聴くと、さすがに哲学的であるとか、浮世離れしているとかいった感慨は全く入り込む余地がありません。この曲も、後世の人間が勝手な思い込みから大小様々な「物語」を付け加えてきたのだなと思わせられます。要は、この曲に対する思いをすべてぶち壊しにしてくれます。演奏家たちはそれを狙っているわけですから大成功と言えるでしょう。

 ただし、これが新時代の名録音かというと、ちょっと待てよと言いたくなります。まだ聴き慣れないだけなのかもしれませんが、やはりこの曲の持つ澄み切った幸福感があまり聴き取れないのは寂しいです。

 2010年3月現在、この曲に関しては過去の名盤に匹敵し、凌駕するものがなさそうです。あるとすれば、ポリーニ盤でしょう。ポリーニはこのところ散発的にモーツァルトのピアノ協奏曲をリリースしています。今、あるいは今後のポリーニであれば、独自の切り口で、ピアノ協奏曲第27番を聴かせてくれるのではないかと期待します。ただし、それがいつになるのか、誰にも分かりません。

 

2010年3月24日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記