An die Musik 開設11周年記念 「名盤を探る」

第23回 ショパン《練習曲集》の名盤を探る

文:松本武巳さん

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旧名盤

CDジャケット

ヴィルヘルム・バックハウス(ピアノ)
録音:1928年
Pearl(輸入盤 GEMM CD 9902)

名盤

CDジャケット

マウリツィオ・ポリーニ(ピアノ)
録音:1972年
DG(国内盤 UCCG-2002)

新名盤

 

X

 

■ バックハウスの旧名盤

 

 バックハウスのショパン練習曲集は、電気録音技術導入直後の1928年に全曲がまとめて録音されており、数年後にコルトー盤が登場したときも、超絶技巧のバックハウス盤の地位は揺るがなかったと言うよりも、コルトーとは演奏の視点が異なっていたため、そもそも両者は競合する関係では無かったように思います。

 この録音を前にすると、鍵盤の獅子王たるバックハウスに冠された異名は、彼に対して非常に偏った評価であったことを如実に物語っていると考えます。単に技巧が優れているだけでなく、一切崩しのないとても硬派な演奏であり、ピリリと引き締まった筋肉質な演奏は、非常に男性的な魅力を発散していると言えるでしょう。このような遊び心のほとんど感じ取れない硬質なショパンに、現代の聴き手はもしかしたら反感を感じるかも知れません。しかし、この録音から見えてくるショパンの練習曲集の比較を絶するある種の美しさは、他の名演奏家のもたらす美しさとハッキリ一線を画していると思います。80年も前の録音であるにも関わらず、幸いなことに電気吹込みであるために、ある程度細部まできちんと聴き取ることが可能で、現代においても普遍的な価値を持つ名演だと思います。

 実は、私はバックハウスのその他のショパン録音はあまり好きではありません。しかし、ショパンの練習曲集だけが持っている、他の誰もが引き出したことの無い、練習曲集特有の、かつショパン特有の美しさを体験できる唯一のディスクであると、現在でも信じて疑っておりません。なお、演奏時間が現在でも史上最短である曲が多いのですが、そのような猛スピードであるという実感はあまり感じません。この辺りは、もしかしたらSP録音の特性ではないかと思います。

 

■ ポリーニの名盤

 

 ポリーニのディスクは、名曲の名演奏で名録音です。いわゆる3拍子揃った名演奏の典型例として、永く語り継がれています。彼はショパンの練習曲集に、古典的格調をもたらしてくれました。全曲のテンポ設定や全曲の構成感、全曲の立体感、それらの全てを見透かしたかのような冷徹な演奏で、完璧という言葉はポリーニのこの盤のためにあるように思います。しかも、実はこの演奏は、確かに冷徹ではあるものの、聴いていて決して冷たい演奏では無いのです。ほとんど奇跡としか言いようのない、信じ難い名演であると思います。

 ポリーニ盤の最大の特徴は、全曲を続けて聴くことによる満足感に尽きるでしょう。24曲全体を貫くクオリティが、かつて全く無かった高さであるため、この録音が登場するまでは、ピアニストのリサイタルで、ショパンの練習曲を続けて全曲演奏するようなプログラムは、正気の沙汰ではなかったのですが、ポリーニ盤が登場して以来、ときどきコンサートで実際にそのようなプログラムを組むピアニストが現れたのは、現代のピアノリサイタルの有りようまで根こそぎ変えてしまった、そんな衝撃的なディスクであったのです。

 ただ音があまりにもクリアであることに加えて、楽曲へのアプローチが極端に峻厳であったために、非常に聴き疲れしてしまうのは、ある意味仕方が無いことかも知れませんが、正直なところ聴き終わると本当にクタクタになってしまいます。しかもポリーニのタッチはとても重くて、重量感がズッシリとあるために、ポリーニを聴いていると、軽いタッチのピアニストの演奏が恋しくなってきます。ポリーニのDGへの最初のショパン・アルバムで、空前絶後の名演だと思います。音楽性も非常に豊かで、ショパンの様式も完璧に具備しており、加えて技巧が信じ難いほど高く、ピアニストとして要求される全てをポリーニは満たしています。

 この72年に録音されたショパンの練習曲集は、ポリーニの超人的な技巧を明白なものとした訳です。しかし、私はこのCDを聴くたびに、ピアノがひとつの機械であることをあらためて実感し、さらに加えれば、ポリーニはもしかしたら『情緒音痴』では無いのか?と疑問を持ってしまうときすらあるのです。彼の硬質なタッチが、鍵盤を通して鉄のハンマーから叩き出されていることを、ポリーニの場合は聴き手も他のどのピアニストの場合よりも強く意識し、結果的にポリーニの演奏は十分にロマン的な演奏でありながら、聴き手は無意識のうちに、ポリーニの演奏から、『精密機械』を連想してしまうのは、実はやむを得ないことなのかも知れません。

 

■ 新名盤Xについて

 

 私はここで、ポリーニの名演を、あえて「新名盤」とは表記しませんでした。ポリーニによって新たにもたらされた、ショパンの練習曲の魅力のうち、何か一つ、または二つの側面においてポリーニを超える演奏は、すでに登場していると思います。しかし、ポリーニを総合的に乗り越える演奏は、ピアノを演奏したことがある人から考えると、到底あり得ないことのように思えてくるのです。まるで、自分自身に言い聞かせるように、ポリーニの演奏は決して絶対的なものでは無いのだ・・・と、自分で自分を言い含めているのです。

 従って、ここではポリーニのディスクは、「名盤」とだけ表記し、新名盤Xの登場を、首を長くして待つことにしたいと思います。そのくらい、このディスクにおける当時のポリーニの演奏は、人間業ではないのです。そのくせ、ポリーニの演奏から聴き取れる、あの豊かな音楽性は、なんとも例えようのない感動を聴き手にもたらしてくれるのです。当のポリーニは、90年代になって大病を患い、その後の技巧に明瞭に陰りが出ております。現在のポリーニは、とても人間味のある名演奏家であると思います。そして、かつてのポリーニは、現在どこにも居ないのです。また、とても逆説的に聞こえるかも知れませんが、居て欲しくないのです。

 

(2009年11月30日記す)

 

2010年5月12日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記