An die Musik 開設11周年記念 「名盤を探る」

第24回 バッハの平均律クラヴィーア曲集第1巻で3人のバッハに会う。

文:ゆきのじょうさん

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 以前にもこの曲集については採り上げたことがあります:「二つの平均律クラヴィーア曲集を聴く」。その時にも書きましたが、あまのじゃくな私は、名盤の誉れ高いグールドとリヒテルのディスクは聴いていません。さらに、これまた何回か書かせていただいているように、私はピアノはまったく弾くことができませんし、楽譜を読む能力もありません。したがって、本特集において、私がこの曲集について書くのは適任とは言い難いと思うのですが、主宰の伊東さんからのリクエストがありましたので、上梓する次第です。

 平均律クラヴィーア曲集(以下「平均律」)は、ピアニストにとってどのような位置づけなのかは、もちろん実感として分かることではないのですが、大学時代ピアノが弾けた友人が「今でも時々はこの曲集をおさらいするんだ」ということを言っていたことを記憶しています。たぶん、ピアノを弾く人にとっては基本的で、避けては通れぬ曲集なのだと想像します。各調性においてどのようにピアノを響かせるか、どのように調性を感じながら音楽を構築していくのか、もっと大袈裟に言ってしまえば、ピアノで弾く音楽とは何かという問いかけを自問するために、この曲集はあるのだと思います。その問いかけに対する自分の中の答えはいわば信仰告白のようなものですから、この曲集が「旧約聖書」に例えられるのも当然なのかと、これまたキリスト教徒ではない私は勝手に想像しているところです。

 したがって、この曲集を人前で演奏するという所作は、いわば自分がピアノで創造する音楽とは何かという根本的な暴露話のようでもあるでしょう。さらに録音に遺して不特定多数の聴き手に届けるという所作は、さらにピアニストとしてはある決断が必要になるのかもしれません。かなり偏見と誤解があるかと思いますが、素人である私はこのように考えているという立ち位置を理解していただき、以下の拙文をご笑覧いただければと思います。

 さて、「平均律」の名盤はそれこそ、百花繚乱でしょう。その中で最初に採り上げたい名盤はフェインベルクです。(なお、以下すべて第1巻での感想ですので曲名は省略してあります)。

 

■ 愉悦するバッハ

CDジャケット

サムイル・フェインベルク ピアノ

録音: 1958-1961年、場所不詳
露Venezia (輸入盤 CDVE44002、第2集とのカップリング)

 第1番前奏曲からしてテンポは実にゆったりとして自由自在に動きます。フーガになってもその雰囲気はかわらず、ゆるやかに弧を描くようにあるべきところに音楽は着地して、また飛翔することを繰り返していきます。第2番前奏曲になると快活に、音符一つ一つは躍動し、フーガになってからもその流れを受け継いで最後は大きくルバートとして第3番の中庸なテンポに結びつけて・・・、というように個々の曲というよりは全体を大きな固まりと捉えて、その中で各々の曲がどのようにイメージされて存在するのかという視点で演奏していると思います。ちょっと聴くと気分にまかせて即興的に弾いているように感じますが、全体を聴き通してみると十分に考え抜かれた設計図があって、必然性をもって演奏しているのだと分かります。したがって全24曲を聴き通すのが当たり前になり、途中でやめるのがとても惜しくなる、そんなディスクです。

 フェインベルクは1890年にウクライナに生まれ1962年に没しています。したがってこの録音は晩年の録音ということになりますが、技巧的にはまったく聴き劣りすることはありませんし、さらに音楽の構えが実に壮大です。もちろん乱暴に言ってしまえば前時代的な演奏と片付けることも可能です。しかし、ここには深刻さも学究的な堅苦しさもありません。あるのは音楽を楽しむ、自分が信じるバッハの音楽のすばらしさを表現したいという一途さのみです。厚化粧だとか、バッハの音楽を歪めているという批判すら黙らせてしまう良心が満ちています。そう、この一途さと良心こそが、フェインベルクの平均律が名盤である理由の一つではないかと、私は思います。

 続いては、先頃発表されて話題となったポリーニ盤です。

 

■ 格闘するバッハ

CDジャケット

マウリツィオ・ポリーニ ピアノ

録音:2008年9月、2009年2月、ミュンヘン、ヘルクレス・ザール
DG(輸入盤 477 8078)

 仮借のないインテンポ、全編にみなぎるピンと貼り付けた緊張感、一音一音に思いの丈を込めて、隅々まで丁寧に磨き上げている演奏です。音楽は大伽藍のようにそびえ立ち、そこから来光のように降り注ぎます。一台のピアノから出てくる音楽とは思えないほどの拡がりと厚みのある響き。第5番のフーガ1曲を聴いても、強弱の変化と連環、音色が合理的に配置されています。

 私はポリーニというピアニストの熱心な聴き手ではありません。ショパンの練習曲集、シェーンベルクのピアノ作品集で完璧とも言える演奏を聴いて、感心したのは覚えていますが心が動かされるような、文字通りの感動というのには、正直つながっていなかったと思います。この「平均律」を録音を完成した当時、1942年生まれのポリーニは67歳。全集化することはないだろうと言われたベートーヴェンのピアノ・ソナタの録音が進んでいるところでした。なぜ、このタイミングで「平均律」なのだろう?と思って買ったディスクです。

 ポリーニというピアニストは、私の勝手な想像ではとても真面目な演奏家なのだと思います。真面目というのは自分自身の音楽への向き合い方に一点の曇りや迷いがないという意味です。一つ一つの録音が今の自分にとって必然性をもって遂行しているというイメージがあります。そのポリーニがこの時点で「平均律」を録音した。ここで何事かを告白せざるを得ない必然性がポリーニにはあったのだろうと勝手に想像するのです。

 その演奏はまさに「格闘」です。それぞれの曲で音楽としてどこまで探究できるのか、チェンバロではなくピアノという楽器で演奏するという意義をどこに表すのか、バッハが書いた楽譜から音楽を完璧に導き出し、ピアノとしての特性をそこに加味して、さらにポリーニは何かのメッセージを加えていると感じます。古今東西の名盤を、おそらくポリーニは聴いているのでしょう。名だたる名演奏家が為し得たことへの敬意と、それに自分の演奏が加わることの意味を考え抜いた結果の録音ではないかと思います。バッハが「平均律」でどのようにバッハ自身の芸術家としての心血を注いだのかは分かりません。分かりませんが、ポリーニはバッハだったら、という視点も用意したのかも知れません。それが例え浪漫主義を経て変容したバッハ観だったとしても良いのだと思います。

 ただ、ポリーニの「平均律」は聴き手にも音楽への向き合い方を当然の帰結として求めるものとなります。「私はこう思っている、貴方だったらどう思うのか?」という投げかけをしていると感じます。こんなに聴き手に求めるものが多い「平均律」はないのでは?と考えます。

 この拙稿を書いている2010年4月末における勝手な妄想を申し上げれば、私は「ポリーニの中で何か一つ終わったものがある」と感じています。それが何か(あるいは、はずれているか)は今後のポリーニの活動を見るとわかるでしょう。「平均律」第2集が続いて出るということが、少なくとも現時点で私は想像することができません。ポリーニはこのディスクで格闘するバッハを提示したことで、伝えたいものがあると私は考えています。

 

■ 沈黙するバッハ

CDジャケット

ロジャー・ウッドワード ピアノ

録音:2008年1月7-15日、、ヴェルトゼー、バイエルン
米Celestial Harmonies(輸入盤 14281、第2集とのカップリング)

 第1番前奏曲とフーガからしてゆったりとしたテンポ、丁寧に紡ぎ出される類い希な美しい響き。ちょっと聴くとキース・ジャレットのディスクを思い出すような演奏です。あちこちにちょっとした装飾音を加え、曲によってテンポを少しずつ変えて演奏は進んでいきます。しかし、音楽を聴き続けていくと次第に感じてくることがあります。それは、乱暴に言ってしまえば「バッハらしくない」音楽であるということです。

 ここで、では「バッハらしい」とはどういうことなのか、という当然出てくる疑問があるでしょう。立体感があって厳粛で・・というありきたりな表現が思いつくわけですが、それが明示できれば音楽が解き明かされたと同義ですので、ここでは何となくの印象としておきたいと思います。

 さて、ウッドワードの演奏はとても静謐な響きに徹しています。音楽はそびえ立つのではなく、床に落ちた水が静かに広がっていくかのように、深く心に入り込んでくるのです。ここには鳥のさえずりもなく、風もなく波もなく、はっとするような動くものもありません。あるのは音楽がただひたすらに何かに仕えるように流れていく様子しかないのです。どんなに速いテンポであっても、どんなにゆったりとしたテンポでも聴き手には何も意識することを要請されていないと感じます。もちろん何もしていない無味乾燥な演奏というわけではありません。よく聴くととても考え抜かれた演奏だと思うのに、少しも作為を感じない、わがことのようでもあり、何もなかったかのように音楽が広がるのです。次に何があるのだろうという前のめりの興味は無用です。あるのは、ただ音楽を受け入れればいいという静かな佇まいだけです。

 ロジャー・ウッドワードというピアニストが私の試聴記に登場するのは、「ジャケ買い」した二枚の現代ピアノ音楽を聴く、「わたしのショパンを聴く」に続いて三度目になります。ショパンでもショパンらしからぬ演奏をしていましたが、今回のバッハはもっと徹底しているように感じます。手練手管を用いながら、それより遙か彼方を見せられているようです。枯淡とか侘び寂びとも違う空間、そこには沈黙しかありません。何も語らないのではありません。何も解釈を加えないわけでは勿論ありません。沈黙は語る者、聴く者がいるからこそ成立します。ウッドワードは「平均律」をピアノで演奏する意味を「沈黙」に求めたのだと思います。

 なお、ウッドワードは1942年12月生まれだそうです。ポリーニは同年1月の「早生まれ」ですが、ほぼ同い年の二人が、まったく違う二人のバッハを提示してくることが名盤を探究する楽しさの一つだと思いました。

 

 

 

 フェインベルクが為し得た「愉悦するバッハ」は、旧時代だからこそできたことです。一方、ウッドワードが実現した「沈黙するバッハ」は先人達が遺したバッハ演奏への一つの回答であったと思います。

 ではポリーニの「格闘するバッハ」はいかなる位置づけとなるのでしょうか? 旧時代の演奏ではなく、かと言って新時代の演奏でもないでしょう。あえて言ってしまえば「ポリーニのバッハ」でしょうが、同時に音楽と格闘したバッハを聴かせてくれたことで、私たちは新しいバッハと巡り会ったとも言えるでしょう。

 「平均律」はピアニストにとって避けては通れない音楽なのだと思います。そして自身を投影してしまう幻灯のようでもあります。また新しいバッハと巡り会うことを楽しみにしていきたいと思います。

 

2010年5月13日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記