アメリカ時代のクレンペラー

ホームページ WHAT'S NEW? クレンペラーのページインデックス


 
CDジャケット

KLEMPERER IN LOS ANGELS

DISC 1
ヴェルディ:歌劇「シチリア島の夕べの祈り」序曲
ベートーヴェン:交響曲第5番ハ短調作品67「運命」
ワーグナー:楽劇「ニュールンベルクのマイスタージンガー」第1幕への前奏曲
クレンペラー指揮ロスフィル
録音:1934年1月1日
archiphon(輸入盤 ARC-114/15)

 アメリカ、ロサンゼルス時代の貴重なライブ。ラジオで放送されたライブ演奏がマスターらしい。演奏前にはラジオのアナウンスが入る。実は、このアナウンスが困りもので、よく聴いていると「ベートーヴェンの交響曲第5番ハ短調です。この曲には表題がつけられており、田舎における楽しい気分や、...」などと解説している。どう考えても「運命」と「田園」を間違えているのだ。こんな恥ずかしいアナウンスがCD化されてしまうと、それこそ未来永劫残るから、世の中は恐ろしい。

 このCDは2枚組で、DISC 1には上記のプログラムによる1934年1月1日のコンサートの模様が収録されている。DISC 2に比べると音質もよく、クレンペラーの燃えるライブ演奏が楽しめる。

「シチリア島の夕べの祈り」序曲

 火のような演奏である。CDの解説には、リハーサルがわずか3日しかなかったために演奏にはいろいろと問題があることが記載されているが、おそらくはその解説記事を書いた人以外は気にならない程度のものだろう。クレンペラーが演奏したヴェルディで、現在残された録音はこの1曲のみ。こんな激しく燃えさかる演奏を聴くと、イタリア・オペラの録音を残してくれなかったことが大変惜しまれる。劇場の人であったクレンペラーは同時に激情の人であったわけだが、このまま第1幕に突入していくような錯覚さえ起こさせる。

「運命」

 「運命」と「田園」を間違えるという一世一代の大ボケをかましたアナウンスにもかかわらず、演奏は充実している。後にクレンペラーは大宇宙を思わせるような「運命」を聴かせることになるが、既にアメリカ時代にも立派な演奏をしていた。第1楽章からエネルギー全開。漲る強い意志の力によって音楽が支えられ、聴き手をぐいぐい引っ張って行く。あっという間に第1楽章が終わってしまう。この第1楽章の後になんと拍手が起きている。もしかしたらコンサート慣れしていない人がコンサートの常識を知らずに叩いてしまったのかもしれないが、この拍手に違和感はない。優れた演奏に対する拍手と受け取って良いだろう。第2楽章以降も聴き逃せない、充実した演奏だ。堂々としているし、実にすばらしい。テンポは速めであるにもかかわらず、重量感があり、とても快速運転をしているとは思えない。軽快なテンポであっても音楽が軽くなるわけではない。ライブらしい音楽の高揚に思わず興奮するのは私だけではないだろう。

 しかし、解説によれば、このベートーヴェンは当時大変斬新であったらしい。オーケストレーションの変更などが当たり前であった時代にはクレンペラーの楽譜に忠実な演奏スタイルはかえって珍奇に聞こえたらしい。

 なお、この録音には難点がある。放送用録音をマスターにしているため、あちこちで音が飛んでいる。一番びっくりしたのは第4楽章で、どんどん盛り上がってきたところで「ぶつっ」と音が切れている。これはさすがに痛い。非常に良い演奏をしているだけに悔やまれる。

「ニュールンベルクのマイスタージンガー」第1幕への前奏曲

 解説にはドイツ的重厚さが全くない演奏であると書いてあるのだが、そうだろうか。私はドイツ的な演奏だと思うのだが。確かに、むやみやたらに重々しくした演奏ではない。その意味でドイツ的でないというのだろうか? よく分からない。私は軽みの中にも荘重さを併せ持ち、この祝祭的な前奏曲にふさわしい演奏だと思う。人によって音楽を聴いた感想がまるで違う典型例かもしれない。

DISC 2

ブラームス:ピアノ四重奏曲第1番(シェーンベルク編曲管弦楽版)
録音:1938年5月7日
ヘンデル:弦楽四重奏のための協奏曲(合奏協奏曲作品6 第7番変ロ長調、シェーンベルク編曲)
クレンペラー指揮ロスフィル&コーリッシュ弦楽四重奏団
録音:1938年1月6or7日
ストラング:インテルメッツォ
録音:1939年2月9or10日
ガーシュイン:前奏曲第2番(デイブ・ブレクマン編曲)
録音:1937年8月9日
以上、ヘンデル以外はクレンペラー指揮ロスフィル
クレンペラー、ヘイワースと語る
録音:1970年

 続くDISC 2。この2枚組CDの本来の価値はDISC 2にあると思うが、困ったことに音質はDISC 1より大きく劣っている。特にヘンデルの「弦楽四重奏のための協奏曲」はノイズの中に楽音が埋もれてしまい、音楽を聴き取るのに精一杯で、とても解釈や音色を楽しめるレベルではない。貴重な録音ではあるが、戦前のアメリカでは致し方ない。残念ながら、ヘンデルの「弦楽四重奏のための協奏曲」についてはコメントを控えさせていただく。

 しかし、それでも「音楽」が聴き取れる部分は貴重だ。クレンペラーとシェーンベルクのつきあいは古く、アメリカに渡ってからはかなり親しくしている。二人の間が常に穏やかというわけではなかったことはクレンペラーもヘイワースとの会話の中で述べているが、音楽家シェーンベルクへの尊敬は変わらなかったようだ。アメリカでは「弦楽オーケストラのための組曲」を当地初演している。また、このCDに収録されているシェーンベルク編曲の「ブラームス:ピアノ四重奏曲第1番」は世界初演である。

 室内楽ファンにとって、あるいはブラームスファンにとっては「ピアノ四重奏曲第1番」は非常に重要な曲である。3曲ある「ピアノ四重奏曲」の中でこの曲を最も愛好する人も多いだろう。そのようなファンがこの演奏を聴いたらあまり楽しくはないかもしれない。室内楽と管弦楽では響きが違いすぎる。特に第4楽章の編曲は原曲を想像しにくくしている。クレンペラーは、最初からそういうものだと理解しているためか、室内楽的には演奏していない。重厚、華麗であり、これでは確かにブラームスの「第5」とまで呼んでしまって良いかもしれない。クレンペラーも世界初演に当たって、ありったけの気迫を込めているような気もする。第4楽章では非常な熱気が感じられ、原曲の迫力とは別の一面を見せてくれる。めくるめく音楽だ。シェーンベルクもこの初演には満足したであろう。なお、クレンペラーの指揮したシェーンベルクの曲は数多い。「浄められた夜」「室内交響曲」「ペレアスとメリザンド」「月に憑かれたピエロ」などがあるようだ。これらの録音がどこかで発掘されないものだろうか。

 ストラングの「インテルメッツォ」は初めて聴く曲である。他にどんな録音があるのか私は知らない。いかにもクレンペラー好みの曲である。マーラーにもやや似ているところがある。なお、この演奏は「リハーサル中の録音」と記載がある。また、ガーシュインはこちらと同じ演奏。

 最後にこのCDにはクレンペラーとヘイワースの肉声が7分間収録されていることを特筆しておきたい。これは1970年、チューリッヒにおける録音である。クレンペラーは齢85。想像したとおりの声である。録音自体は鮮明で、ヘイワースの美しいドイツ語に驚く。が、クレンペラーの話しぶりはひどい。歯が抜けてまともにしゃべることができない老人のようだ。言葉はしっかりしているようだが、ところどころ、言葉がモゴモゴこもってしまっている。これで英語をしゃべったらオケの楽員は何を言っているかわからなかったろう。会話の内容はCDの解説に英語訳が出ているので理解できるが、できればドイツ語の原文も載せて欲しかった。クレンペラーマニアにしてみれば、このクレンペラーのドイツ語を真似したくなるであろう。

 

 

CDジャケット

ベルリオーズ:歌劇「ベンヴェヌート・チェルリーニ」序曲
モーツァルト:交響曲第35番ニ長調「ハフナー」
ドビュッシー:「牧神の午後への前奏曲」
R.シュトラウス:交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」
以上、録音:1938年1月1日
ガーシュイン:前奏曲第2番(デイブ・ブレクマン編曲)
録音:1937年8月8日
プッチーニ:歌劇「ラ・ボエーム」から「冷たい手を」「私の名はミミ」「愛らしい乙女よ」
ソプラノ:ルクレツィア・ボーリ
テノール:ジョゼフ・ベントネッリ
クレンペラー指揮ロスフィル
録音:1937年6月6日
SYMPOSIUM(輸入盤 SIUM 1204)

 「Otto Klemperer conducts THE LOS ANGELS PHILHARMONIC ORCHESTRA」と題するCD。ロスフィル時代におけるクレンペラーの極めて珍しいレパートリーを含む。クレンペラーは長いアメリカ生活の間、1枚もLP録音をしていない。このCDも音源は放送用録音である。それを強調したいのか、全曲とも演奏開始前には放送用アナウンスが入っている。これがまるでTOEICのリスニングテストにそのまま出してもおかしくないようなもので、結構笑える。

 それはさておき、アメリカ時代はクレンペラーにとっては辛いものだったろう。CDにはクレンペラーが奥さんなどに書いた手紙の文面が何通も載せられている。それによれば、クレンペラーにとっては文化果つる地であったロサンゼルスでは毎日が孤軍奮闘の連続であったらしい。それでも1939年に脳腫瘍にかかるまでは仕事があったので何とか暮らしていけたが、さすがに脳腫瘍では仕事を続けるわけにもいかない。1946年にヨーロッパに戻るまでは金銭的にも辛い、不遇な時代を過ごすのである。

 しかし、人生万事塞翁が馬というのはクレンペラーにも当てはまる。アメリカ時代はクレンペラーにとって極めて重要である。コンサート指揮者として多くのレパートリーを修得できたのも、アメリカで生活の糧を稼ぐためにコンサートの指揮をしたからだ。新しいレパートリーとしては、ベルリオーズの「幻想交響曲」などが挙げられる。また、39年以降、何もすることがなかったクレンペラーは一心不乱にスコアを読む。それが後年に生きてくる。最晩年、神の如き指揮者として名演の数々を生み出すことができたのは不遇な時代の譜読みにがあったからだともいえる。もしかしたら、強力な意志の固まりであったクレンペラーも逆境の中でしょげ返ったこともあったと思うが、人間投げてはいけない。クレンペラーのことを思うと、そう思わずにはおれない。

 さて、また前置きが長くなってしまった。肝心の演奏について。ベルリオーズの「ベンヴェヌート・チェルリーニ」は快速運転による疾風のごとき演奏だが、残念ながら特にすごい演奏ではない。続く「ハフナー」。これも快速運転。全曲を16分で駆け抜けている。しかし、演奏の充実度は既に最晩年のクレンペラーを思わせるものがある。快速運転でありながらも、重心の低いどっしりとした響きや、鋭いリズムによって音楽が非常に生き生きとしている。ドビュッシーはクレンペラーらしくもないレパートリーなのだが、違和感が(少なくとも私には)全く感じられない演奏だ。クレンペラーは意外に器用だったようだ。

 このCDの白眉はR.シュトラウスの「ティル・オイレンシュピーゲル」だ。これはもう巨匠的風格を備えた演奏で、さすがという他はない。オケの機能も十分で、クレンペラーも満足した出来であったろう。語り口の達者さは晩年の録音にも決して引けを取らない。このCDは好事家向けに制作されていると思うが、この「ティル」は大推薦したい。

 さて、ガーシュインの「前奏曲第2番」はガーシュイン追悼コンサートのもの。例のTOEICのようなアナウンスによれば、この日の演奏のために管弦楽用に編曲されたものである。歴史的な価値は高いと思うが、演奏も曲も、特にすばらしいわけではない(失礼)。

 最後にはプッチーニの「ラ・ボエーム」からの二重唱が入っている。これはクレンペラーを聴くというより、やはり歌手を聴くものだ。コメントは差し控えたい。なお、ソプラノのルクレツィア・ボーリは、あのボルジア家の末裔らしい。そういえば、名前も「ルクレツィア」。

 

 

CDジャケット

1945:Klemperer in Los Angels
トーマ:
歌劇「ミニヨン」序曲
リスト:「死の舞踏」
ピアノ演奏:ベルナルド・セガル
ヨハン・シュトラウス:「こうもり」序曲
バッハ

  • アリア「汝はわが傍らに」BWV.508(クレンペラー編曲)
  • 管弦楽組曲第3番から「エアー」BWV.1068

以上、録音:1945年2月11日
コレルリ(オーケストラ版)
ヴァイオリンソナタ第12番「ラ・フォリア」
ヴァイオリン演奏:シゲティ
クレンペラー指揮ロサンゼルスフィル
録音:1945年12月16日
GRAMMOFONO2000(輸入盤 AB 78643)

 このCDの正式名称は"1945:KLEMPERER IN LOS ANGELS − The Unknown Recordings"となっている。文字通り「こんなのがあったの?」という録音ばかりだ。クレンペラーはアメリカ時代にスタジオ録音を行っていないから、これらの録音はコンサートの実況中継のテープなどを探し出してきて作ったのだろう。一部にテープが伸びてしまったところがあるが、ほとんど鑑賞に問題はない。ただし、このCDでクレンペラーのアメリカ時代の演奏を語れるかというとちょっと辛い。「死の舞踏」は圧倒的にピアノがメインだし、「ラ・フォリア」はシゲティのヴァイオリンを聴くべきものだ。従ってこのCDの他の演奏についてだけ語らせてもらいたい。

 トーマの「ミニヨン」序曲。クレンペラーがこのようなかわいらしい曲を演奏していたというのはやや意外。クレンペラーは劇場の人であったから、こうした序曲が多くても本来おかしくはないのだが、あのコワモテのイメージと合わない。演奏は非常に暖かい雰囲気のもので、この指揮者がベートーヴェンを演奏するときとは全く別人の顔を見るようだ。この印象は「こうもり」でも変わらない。のちにフィルハーモニア管ともステレオ録音を残しているがそれと解釈も同じで、実に楽しい。こんな楽しい雰囲気ができたのはおそらくこのCDの音源が「名曲コンサート」か何かの抜粋盤であるからだろう。さすがに見事な演奏だ。晩年の録音と解釈が変わらないということはクレンペラーの音楽がこの時既に完成されていたということだろう。ただし、気のせいかもしれないが、バッハについてはフィルハーモニア管との演奏には及んでいないように思える。

 

An die MusikクラシックCD試聴記、1999年掲載