クレンペラーのモーツァルト
■交響曲■

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CDジャケット

モーツァルト
交響曲第29番イ長調 K.201
クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管
録音:1965年9月21-23日
交響曲第31番ニ長調 K.297「パリ」
録音:1963年10月16-19日
交響曲第36番ハ長調 K.425「リンツ」
クレンペラー指揮フィルハーモニア管
録音:1956年7月19,21-24日
EMI(国内盤 TOCE-3261)

 クレンペラーはモーツァルトの交響曲では41番「ジュピター」とともに第29番を十八番にしていただけに、このCDでは最初から演奏に大変な貫禄を見せる。続くどの曲も名演奏であるから、聴き逃せない。現代においてはこうした巨匠風の演奏は敬遠されるのだろうが、聴いていると奏法の差を云々するのが馬鹿らしくなる。優れた演奏というものには自ずとたくましい生命が宿るから、そうしたつまらない議論を拒絶してしまうのだ。

 第29番。54年のモノラル盤もあるが、解釈もテンポも大きく違うところはない。ただし、こちらはステレオ録音だけにクレンペラー特有の両翼配置の醍醐味が味わえる。透明感においては旧盤に一歩譲るとはいえ、響きの厚みがすばらしく、交響曲としてのこの曲の貫禄を感じさせる演奏だ。

 第31番「パリ」。クレンペラー唯一の録音。曲が曲なので大変活気に富んだ、躍動的な音楽を聴かせてくれる。重厚さも華麗さも満喫できる演奏で、これを聴いているとモーツァルトの音楽の愉悦にどっぷり浸ってしまう。

 第36番「リンツ」。この名曲をこのような非常な名演奏で残してくれたクレンペラーに感謝したい。56年録音であるが、上質のステレオ録音で、バランス・エンジニアのダグラス・ラーター氏がモノラル録音で見せたセンスがここでも活かされている。音楽はモーツァルトの愉悦そのもので、透明感、躍動感、輝きが非常に良く表現されている。第4楽章の天にも昇るような気分は形容のしようがない。嬉しいのは、絶好調だったフィルハーモニア管の管楽器のえもいわれぬ音色と、弦楽器のしなやかな動きである。高弦はもちろん、低弦も実に充実した響きを出しており、この名曲の低声部を完全に支えている。

 

 

CDジャケット

モーツァルト
交響曲第38番ニ長調 K.504「プラハ」
録音:1956年7月20,23,24日
交響曲第39番変ホ長調 K.543
録音:1956年10月24日
セレナーデ第6番ニ長調 K.239「セレナータ・ノットゥルナ」
録音:1956年3月25日
クレンペラー指揮フィルハーモニア管
TESTAMENT(輸入盤 SBT 1094)

 全曲同じ年の録音だが、「セレナータ・ノットゥルナ」だけがステレオ録音で、交響曲はふたつともモノラルである。最初に録音された「セレナータ・ノットゥルナ」がステレオなのに、後から録音された交響曲がモノラルなのはおかしい気もするのだが、モノラルからステレオへの移行期だけにいろいろな事情があるようだ。なお、私はしつこいほど繰り返すが、モノラルが嫌いではないし、ステレオ録音よりいい味を出していると思うことも多い。このCDなどステレオより優れていると思う。本当にいい音だ。読者の中には私がノイズの中から耳を澄ましてやっとの事で歪んだ楽音を探して聴いているように思っている人もいるかと思うが、そうではない。例えば、プロデューサーであるウォルター・レッグとレコーディング・エンジニアのダグラス・ラーター(Douglas Larter)の手になるクレンペラーのスタジオ録音の数々はモノラルであっても非常に高音質で、ノイズも歪みも感じられない。弦楽器の音も管楽器の音も、そして打楽器の音も非常に克明だし、楽器の様々な音色、ニュアンスが手に取るように分かる。このモーツァルトのCDもこのEMIコンビの傑作と言うべきものだ。このCDもレーベルはEMIではなくTESTAMENTになっているが、事実上同一レーベル。クレンペラーの歴史的名録音であるこのCDは現在輸入盤でしか入手できないようだが、非常に価値が高いのでEMIは早く国内盤でも販売すべきだ。

 交響曲38番「プラハ」も交響曲第39番も後述するステレオ録音があり、それも大変立派な演奏をしているのだが、こちらも負けず劣らずすばらしい。人によってはこちらのモノラルの方がいいと思うだろう。解釈に大きな違いはないのだが、やや軽快なテンポなのが最初の印象。しかし、この演奏の本当の価値はクレンペラーの指揮によって生まれた音楽が、驚くほど透明感があることだ。清澄そのものといっても良い。無駄な響きが全く感じられず、すべての音がきらきら輝いている。そして、透明感を支えるのがきりりと引き締まったリズムとクレンペラーの指揮によって明らかにされた音楽の「輪郭」(うまく表現できない!)である。特に「プラハ」の第1楽章後半や、第39番第1楽章に見られる生きのいいリズムは筆舌に尽くしがたい。また旋律線や和声をはじめ、音楽の「輪郭」が極めてはっきり演奏されているので、面白いように交響曲の構造が理解できる。信じがたいほどの完成度の高さだ。余白に入っている「セレナータ・ノットゥルナ」も名演奏である。

 

 

CDジャケット

モーツァルト
交響曲第25番ト短調 K.183
録音:1956年7月19,21-24日
交響曲第38番ニ長調 K.504「プラハ」
交響曲第39番変ホ長調 K.543
録音:1962年3月6-8日、26-28日
クレンペラー指揮フィルハーモニア管
EMI(国内盤 TOCE-3262)

 このCDを聴いていると、クレンペラーが現代まで生きていたらどのようなモーツァルトを演奏するか興味津々になる。現代に生きるクレンペラーは古楽器演奏には冷淡ではないかと思うのだが、いかがだろう。バロック音楽においても現代の楽器によって深い洞察を見せたクレンペラーだから、生半可なことでは流行には乗らないだろう。挙げ句の果てには「若い奴らは何もわかっちゃおらん。奴らがやっとるのは全部間違っとるね。」とでも言われてしまいそうだ。

 第25番。劇的な音楽だ。クレンペラー最晩年の演奏も聴いて比較してみたいところだが、この演奏は海賊盤も含めてこの曲の最後の録音になっているからどうにもならない。第1楽章がクレンペラーにしてはかなり速いテンポで始められ、非常な緊張感があるし、息もつかせぬ展開を見せる。そうかといえば、緩徐楽章では一転して、しみじみとした歌をつむぎ出す。オケも最高の音色を聴かせるし、最終楽章まで気を抜けない音楽作りだ。この出来映えにクレンペラーも再録音に及ばずと考えていたのかもしれない。

 第38番「プラハ」。重厚かつ流麗な演奏だ。第1楽章前奏から非常に厚い響きを聴かせる。この前奏部分はそれだけでも立派な音楽だが、クレンペラーは過度に構えず自然体の音作りをしている。それゆえ、重厚な前奏からアレグロに移ってからも極めて音楽がきびきびと、そして軽やかに流れる。ただ軽やかなだけではなく、モーツァルト後期の曲らしい壮麗さが見事に表現されている。こんな演奏をどうやって成し遂げたのだろうか。私はこの演奏を聴くと、音楽の愉悦感に満たされる。蒸留水のようなつまらない演奏が多い中で、このモーツァルトは何と独自の存在感を示していることか。

 第39番。名曲の名演奏。クレンペラーとフィルハーモニア管が高度に融合した至芸が聴ける。清澄な響きの中にも重厚さが垣間見られ、のどかな情景と人々のざわめき、物思いに沈む気分と踊り出したくなるような楽しい気分がわずか30分ほどの間に聴き取れる。しかも、どこにも作為的な臭いがしない。これを至芸と呼ばずして何と言えばよいのだろうか。

 

 

CDジャケット

モーツァルト
交響曲第29番イ長調 K.201
録音:1954年10月8-9日
交響曲第41番ハ長調 K.551「ジュピター」
録音:1954年10月5-6日
セレナード第13番ト長調 K.525「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」
録音:1956年3月25日
クレンペラー指揮フィルハーモニア管
TESTAMENT(輸入盤 SBT 1093)

 昨日(1998年12月17日)の朝日新聞夕刊に東大の野口悠紀雄先生のエッセイが載っていた。野口先生の母校である日比谷高校は所謂「遅刻坂」を登ったところにあったそうなのだが、暫くぶりに行ってみると想い出の校舎が醜悪な建物に変身していた。落胆もしたが、憤懣やるかたない。ところが、よく見ると、書類倉庫だけが手も触れられず残っていたそうだ。

 ここで野口先生が面白いことを書いている。

 「この建物が周囲に向かって発散する霊気のために、誰も手をつけられなかったのだ。時代を超えて生きのびるためには、この建物のように、何の説明もなしに人々を圧倒できる存在感を持たなければならない。」

 さすが野口先生、うまいことをおっしゃる。ちょうどこのクレンペラーのCDをどう書こうかと考えていたのだが、まさにこの言葉がそのまま当てはまるのである。このCDに収められている3曲の演奏が如何に優れているか、言葉にしたところで聴いてみなければ始まらないのだが、ひとたび聴き始めると、その存在感に圧倒されてしまうのである。このCDはクレンペラーの偉業を刻み込んだ遺産として後世にまで残るに違いない。

 演奏は言葉に尽くせないほどすばらしい。第29番から清新な音楽で、大変凛々しい。この曲には65年のステレオ録音もあり、解釈も演奏スタイルもほとんど変わりがないのだが、私はこちらの方が好きだ。54年当時のフィルハーモニア管は切れのいい見事なアンサンブルを聴かせており、モーツァルトの醍醐味に浸れる。モノラルでありながらステレオよりも美しい響きがして全く心地よい。

 第41番「ジュピター」。62年のステレオ録音も風格のある立派な演奏をしていて、それも大変な名演なのだが、こちらはそれより遥かにすばらしい。このモノラルの54年録音はクレンペラーのモーツァルトの中でも最高の演奏だ。最初から最後まで磨き抜かれたモーツァルトで、オケの機能美を満喫できるのはもちろんのこと、オケと指揮者がこの曲の演奏にかける気迫が尋常ではない。本当にスタジオ録音なのだろうか? 非常に活気のある演奏で、宇野功芳氏風に言えば、聴いていると音楽が鳴動しているような気になる。すべての音が輝きながらエネルギーを発しているので圧倒されっぱなしだ。聴いている間中スピーカーの前に釘付けになり、一音たりとも聴き逃せなくなる。感動の名演。録音も最高。

 しかも、このCDにはもう1曲入っている。「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」だ。「なあーんだ」と思ってはいけない。そこら辺にある駄演とは比べものにならないのだ。クレンペラーの64年録音と比べてさえ優れている。なんだかモーツァルトの心の深淵に踏み込んでしまった雰囲気を持つ演奏で、明るくも悲しい気持ち、慰めを求める気持ちがひしひしと伝わってくる。聴いていると恐い。こんな「アイネ・クライネ・・・」は他に聴いたことがない。録音当時のクレンペラーがどれほどの高みにいたかこのCDを聴くとまざまざと知ることができる。なお、この曲だけがステレオ録音だ。

 ちなみに、上記「ジュピター」は1954年10月5-6,11月24日に録音されている。クレンペラーにとっては記念すべきEMI初録音であった。しかし、EMIはこの世紀の名演奏・名録音を本体ではなく、TESTAMENTという下部レーベルで販売している。しかも輸入盤でしか入手できない。野口先生の言葉を借りるまでもなく、何の説明もなしに人々を圧倒できる存在感があるのに、継子扱いなのである。このCDが廃盤にならないよう、EMIには切にお願いしたい。

 

 

CDジャケット

モーツァルト
交響曲第35番ニ長調 K.385「ハフナー」
録音:1960年10月22,23日
交響曲第40番ト短調 K.550
録音:1956年7月19,21-24日
交響曲第41番ハ長調 K.551「ジュピター」
録音:1962年3月6-8,26-28日
クレンペラー指揮フィルハーモニア管
EMI(国内盤 TOCE-3263)

 一般的に手に入るクレンペラー3枚のモーツァルト交響曲集(EMI正規録音)の中で、もし1枚だけ買うとすればこのCDだろう。クレンペラーの格調高い演奏はこの3曲で絶頂に達しているように思える。意外なほど速いテンポで進む「ハフナー」、感傷のかけらさえないのに見事な造型を示す40番、そして重厚なのに透明感もある構築的な「ジュピター」。クレンペラーのモーツァルト解釈がはっきりわかる一枚だ。これだけ高いレベルの演奏なら、21世紀になってもその価値を失うことはまずあるまい。

 この3曲の白眉は40番だ。どこといって変わり映えのない演奏に思えるのだが、フィルハーモニア管が絶好調で、クレンペラーの格調高い指揮ともども称賛に値する。第3楽章でため息のように漏れてくる木管楽器の音色にはほれぼれする。名演奏というのは指揮者とオケがそれぞれ高い次元で融合しなければなしえないものだとつくづく感じさせられる。

 なお、EMIはグランドマスターシリーズで国内盤を再発する際に交響曲第33番(1965年録音)、交響曲34番(1963年録音)をなぜか収録してくれなかった。両曲ともクレンペラー唯一の録音なのでしかるべき措置を講じてもらいたいものだ。全部揃えるには4枚組の輸入盤をお勧めする。

・なお、交響曲第40番にはクレンペラー最晩年のライブ録音もある。

 

 

CDジャケット

モーツァルト
セレナード第12番ハ短調 K.388
交響曲第41番ハ長調 K.551
ラモー
ガヴォットと6つの変奏曲
クレンペラー指揮ウィーンフィル
録音:1968年
DISQUES REFRAIN(輸入盤 DR920019)

 DISQUES REFRAINはいわゆる海賊盤レーベルなので、あまり紹介したくないのだが、このページの読者は好事家が多いだろうし、なかなか面白い演奏なので取り上げてみる。

 セレナードは調性が調性であるだけにちょっと暗い曲なのだが、クレンペラーは悲劇的とは言わないまでもかなりドラマチックな演奏だ。この指揮者らしい整った演奏で、何一つ変わったことをしているようには思えないのにドラマチックになってくる。なぜだろう。ウィーンフィルの表現力が卓抜なせいかもしれない。これを聴くと最初からいい演奏をしているのが分かる。

 ただし、このCDはモノラルで音がひどい。1968年の収録だというのに。管楽器の響きが本当に安物のチャルメラみたいで思わず天を仰いでしまう。ウィーンフィルの演奏なのにもったいないことだ。続く「ジュピター」でもやはり音がよくない。第1楽章では絶好のタイミングのところで犬の鳴き声のような盛大なくしゃみが入るし、第2楽章ではテープが伸びてしまったらしいところが散見される。極めつけは第4楽章で、熱狂的な拍手をカットするためだと思うが最後の音が完全に終わらないうちにぶつっと切れている。これはいくらなんでもひどい。海賊盤でも良心があってしかるべきものだと思うのだが。

 しかし、演奏はすごい。このレーベルがこれほど劣悪な条件にもかかわらずわざわざCD化した理由がよく分かる。68年といえばクレンペラー最晩年であるが、非常にきびきびしたテンポで豪快な音楽が作られている。特筆すべきはオケの演奏だろう。オケが生き物のようにダイナミックに動いている。特に弦楽器がすごい。ノリに乗っている。さすがウィーンフィルというべきか。そしてクレンペラーが手兵でもないこのオケを完全にドライブしているのだ。この名オケを得てクレンペラーは自分の理想とする演奏ができたに違いない。豪快かつ壮大な「ジュピター」だ。ウィーンフィルがここまで燃焼する演奏するのも希だろう。先に述べたように最後の音とともに拍手がカットされているが、まず間違いなく熱狂的な拍手が延々続いたことだろう。これはやはりスタジオ録音からは得られない体験だ。

 このCDにはハ短調のセレナードの次にハ長調の「ジュピター」が収録されている。これは多分このコンサートのプログラムのとおりだろう。が、次に収録されているラモーの「ガヴォットと6つの変奏曲」は本当にこの位置にあったのだろうか? この曲はクレンペラーがクラブサンの曲をオーケストラ用に編曲したもので、最初は田園風で微笑ましいが、最後はバッハ風に荘厳な響きを出している。クレンペラーにこんな才能があったのかと驚くのだが、この曲がもしアンコールで演奏されたとするなら、興味深い。聴衆が家路につくときの気分が全く変わってしまうのだ。わずか9分の曲なのだが、熱狂的に終わる「ジュピター」の後でこの曲を演奏したとすれば編曲に相当の自信があったに違いない。この日のプログラムを調べれば分かるだろうが、不思議な曲順のCDである。詳しい事情を知っている方、もしおられましたらご教示願いたい。

 

 

CDジャケット

モーツァルト
交響曲第25番ト短調 K.183
交響曲第29番イ長調 K.201
交響曲第38番ニ長調 K.504「プラハ」
セレナーデ第6番ニ長調 K.239「セレナータ・ノットゥルナ」
クレンペラー指揮ベルリンRIAS響
録音:1950年12月22日
ARKADIA(輸入盤 CDHP 572.1)

 録音データを見ると、1950年12月22日の演奏とある。この4曲を同時に演奏したわけだから、通常はコンサートにおけるライブ録音だと考えるところだが、会場ノイズは全く聴き取れない。それどころか、ノイズ自体がない。おそらくは機械的にノイズを除去してしまったのだろうが、会場ノイズは消せないと思われるから、放送用録音だったのかもしれない。いずれにせよ、一日でこれだけの曲目を演奏したわけだから、編集などが介在しない一発取りライブといえるだろう。

 1950年頃のクレンペラーというと、やや速いテンポで疾走し、即物的な演奏をするようなイメージがある。ところが、このCDを聴くと、意外なことにそうした箇所に行き当たらない。テンポ設定は全体的に自然だし、とても聴きやすいモーツァルトだ。こうした演奏が広く聴かれることによって、50年代のクレンペラーの再評価がもっとされればよいと思う。クレンペラーはベートーヴェンのスペシャリストのように思われているふしもあるが、クレンペラーのモーツァルトはワルターと比べても遜色はないと私は考えている。イメージというものは恐ろしいもので、あまりにコワモテの風貌が災いし、クレンペラーのモーツァルトはあまり話題にならない。が、このCDを含め、いずれも高い出来のものばかりである。

 さて、テンポは上述したように自然だと思うし、TESTAMENTのCDのところでも述べたようにクレンペラーのモーツァルトは清澄で、透明感があり、何ともいえぬ音楽を聴く楽しみを味わわせてくれる。激しい25番、典雅な雰囲気が味わえる29番、おおらかな歌が聴ける「プラハ」、どれをとってもモーツァルトそのもの。「モーツァルトそのもの」という表現は分かったようで分からないような中途半端なものだが、それ以上説明の言葉がいらない演奏である。野暮な言葉は慎みたい。

 残念なのはリマスタリングに際し、ノイズと共に楽音も削られてしまったらしいことと、低音がブーストされていることだ。これは惜しい。古い録音の割には弦楽器がノコギリになったり、オーボエが枯れたりしていないのに。マスターテープはノイズこそあれ、もっと良い音質だったのではないだろうか。古い録音であるからといって、よけいな音作りはしてもらいたくない。もしありのままの音質でこの演奏を聴くことができれば、さらにクレンペラーの作るモーツァルトの深遠な音楽世界に浸ることができただろう。もっとも、あまりうるさいことは言うまい。私は聴き始めるとたちまちこの音楽の虜になり、音質のことなど忘れてしまう。

なお、「セレナータ・ノットゥルナ」はこちらと同じ演奏。

 

An die MusikクラシックCD試聴記、1998年掲載