クレンペラーのチャイコフスキー
チャイコフスキー
交響曲第5番ホ短調 作品64
録音:1963年1月
交響曲第4番ヘ短調 作品36
録音:1963年1月〜2月
交響曲第6番ロ短調 作品74「悲愴」
録音:1961年10月
クレンペラー指揮フィルハーモニア管
EMI(国内盤 TOCE-9764-65)クレンペラーにチャイコフスキーというのはどうもミスマッチのような印象がある。ドイツ・オーストリア音楽のイメージが強すぎるからだ。しかし、クレンペラーは別にチャイコフスキーが嫌いだったわけでもなく、演奏も結構行っていたようだ。また、チャイコフスキーの演奏には一家言あったらしい。例えば、シュトンポアの「クレンペラー 指揮者の本懐」には以下のような記述がある(野口剛夫訳。p.98)。
私がチャイコフスキーを演奏するのは、それが良い音楽だからです。しかし、チャイコフスキーは指揮者のやりたい放題の犠牲になってきました。次第に彼の作品の演奏は、誇張されヒステリックな、全く間違った感情をもたらすものとなり、ついにこの音楽を悪趣味の象徴とするまでになってしまいました。しかし資料にあたって、彼の生涯と実際の楽譜を調べてみれば、彼は自分の心に素直に忠実に書いた真正の作曲家であることが分かるのです。つまり、悪趣味は彼の音楽の中ではなく、それを演奏する人間の中にあるのです。(「ニューヨーク・タイムズ」のインタビューより/1935年10月13日)
さすがクレンペラーだけあって、慧眼である。全くもっともなことだ。実際クレンペラーが残したチャイコフスキーの録音を聴くと他の指揮者とは違った演奏になっている。誇張はないし、ヒステリックではないし、いわゆる純音楽的である。スラブ臭など感じられない。逆に言えば、それがクレンペラーのチャイコフスキーの評価をはっきり分けることになる。
ここでは国内盤の曲順にしたがって簡単にクレンペラーのチャイコフスキーをご紹介したい。なお、やや長い文章になるが、クレンペラーのチャイコフスキーを誤解しないよう、最後まで読んでいただきたい。
第1楽章:スラブ臭がするほどではないにせよ、すごい迫力の演奏。金管楽器は全開させているし、弦楽器の重量感もすさまじい。ただし、それでも整いすぎた演奏という印象は拭えない。上記引用の通り、チャイコフスキーの曲を、例えば演歌的に捉えるのはクレンペラーが最も忌避したところだが、やはり物足りなさが残る。すばらしくダイナミックな演奏を展開しているのに、どうも音楽が心に響いてこない。聞こえるのは音楽ではなく音響。音楽に対する共感が全く感じられない。
第2楽章:音楽は大音響で鳴り渡っているのだが、どうにも情感が不足している。冷め切ったチャイコフスキーだ。あの痺れるほど甘美な旋律が死んでいる。
第3楽章:最もまともな演奏。この楽章だけは良くできている。
第4楽章:本来は熱く燃えたぎる曲なのに、クレンペラーはどうにも煮え切らない。クレンペラーは表面的には激しい演奏をしているのだが、熱気がない。そうなると、聴いていて辛い。チャイコフスキーが空虚な音楽になり果てている。別に大きくテンポを揺らしてもらいたいわけでもないのだが、これではチャイコフスキーも台無しだ。録音セッションには5日も費やしているのだから、この録音にはクレンペラーの解釈が徹底しているといわざるを得ない。ということはさすがのクレンペラーにしても、曲によってはハズレがあるという証明にもなる。
第4番:これは大成功。心ゆくまで楽しめるクレンペラーの熱演。
第1楽章:曲に対する共感が強いのか、心のこもった演奏。非常にすばらしい。音楽の激しいダイナミズムの中に指揮者の情熱が反映され、熱い血の通った音楽になっている。録音も左右の分離を際立たせるなどステレオ効果満点(やりすぎの感がないでもないが)で、華々しいこの第1楽章を盛り立てている。
第2楽章:クレンペラーの面目躍如たる名演奏。主旋律の裏で奏でられる木管楽器による対旋律がくっきり聞こえてきて面白い。無意味な音響などなく、ひとつひとつのフレーズが心にしみるようだ。クレンペラーにしても珍しいほど情感たっぷり。チャイコフスキーではやはりこうした演奏が嬉しい。
第3楽章:オケの妙技が味わえる。第2楽章でもそうだったが、第3楽章では特にフィルハーモニア管の好調ぶりが窺える。腕達者なプレーヤー達の競演の場と化しているようだ。
第4楽章:まことに絢爛たるフィナーレ。熱狂的な盛り上がりにも事欠かない。第5交響曲で見せた無表情さはない。同じ指揮者の演奏とはとても思えない。
第6番:名曲の名演。しかも名録音でもある。録音は上記2曲が1963年で、この「悲愴」だけが61年だが、ダイナミックレンジも、細部の艶やかさも、この録音が最も優れている。コントラバスなどの重低音は驚異的なほどだ。
第1楽章:熱い情熱がほとばしるクレンペラーの好演。徹頭徹尾すばらしい。指揮者の熱意がたちまち音楽を通じて伝わってくるため、あっという間に終わってしまう。クレンペラーはかなり思い切ってブラスセクションを鳴らしており、まさに耳をつんざくようだ。弦楽器群は地響きをたてて迫り、ティンパニーは地獄から響いてくるような不気味さだ。これはまさにチャイコフスキー節で、聴き手は肺腑を抉られるような恐ろしい響きの中に放り出されるのである。
第2楽章:暗い情緒が終始拭い去られることがない。ロシアの冬。低く、暗い空の下で孤独のまま不安におののく誰か。しかし、誰も、何も助けてくれはしない。何かにすがろうとしても、どうしても手が届かないもどかしさを感じさせる。チャイコフスキーはそうしたことを表現したかったのかどうか、私にはよく分からないが、クレンペラーの指揮で聴くと、そう感じずにはおれない。
第3楽章:クレンペラーらしいといえばこの楽章である。驚くほどイン・テンポのマーチ。ちょっと恐い。
第4楽章:テンポの揺れこそないが、チャイコフスキーの醍醐味を聴かせる。音楽の持つ迫真のエネルギーが聴き手を打つ。熱気を帯びながら高揚する音楽。イン・テンポでありながらも、暗闇に音楽が沈潜して消滅するまで克明に描かれ、まことに渋い。
An die MusikクラシックCD試聴記、1998年掲載