ベートーヴェン
交響曲第5番 ハ短調 作品67「運命」
ボストン響
録音:1973年
DG(国内盤 POCG-9236/41)
有名な全集から。最近クーベリックのCDといえば、まず間違いなくライブ録音のことを話題にしているようだ。が、かつてはそうではなかった。ORFEOあるいはMETEORから数々のライブ録音が出るまで、我々リスナーはクーベリックについては、他の指揮者同様ほとんどスタジオ録音を聴いて楽しむしかなかった(実はライブはFMで聴けた)。そういう聴き手にとって、「ライブでなければクーベリックではない」ような現在の風潮はちょっと違和感がある。ライブがよいのはどの指揮者も同じで、別にクーベリックに限ったことではない。また、クーベリックのスタジオ録音が出来が悪いかといえば、そんなことはもちろんない。「クーベリックはライブだ」と誰かが言い始めると、みんなライブに走ってしまう。どうも日本人は一方方向へ偏ったものの考え方をする習癖があるのではないか。クーベリック自身も特にスタジオ録音に消極的だったわけではなく、膨大な録音を残しているし、スタジオ録音をライブと全く違ったものとは考えていなかったようだ。例えば、この全集の付録として付いているインタビューの中でクーベリックはこう述べている。
「私にとって、レコーディングは主としてコンサート・ホールのための仕事のドキュメントです。スタジオのための仕事じゃありません。」
「楽曲がコンサートで演奏されるようにレコーディング・セッションで演奏されるならば、いっぺんに長い分量をとれば、自発性が生きてくるはずです。曲は息をしなくてはなりません。」
至極まっとうな話である。それはそうだ。ライブでなければクーベリックの本当の姿でないなどとは私はとても思えない。もっとスタジオ録音盤も脚光を浴びるべきだ。そもそも、グラモフォン・SONYをはじめとする各レーベルがクーベリックを今も正しく評価していないのがいけないのではないか?代表的な例がこのベートーヴェンだ。この交響曲全集だって生気に満ちた演奏が目白押し。特にこの第5番は指揮者、オケの音楽にかける気迫がまざまざと感じられる名演だ。にもかかわらず、私の知る限り、このCDによる全集からは交響曲第9番「合唱」が分売されただけで、他の曲は全集を買わなければ聴けない(LPはこの限りではない)。発売元であるグラモフォンからして、この演奏の良さを理解していないのではないかと私は心底疑っている。
ところで、この第5番「運命」。演奏は実に堂々とし、輝かしく、熱い。クーベリックのベートーヴェン全集中の白眉ともいえる演奏であろう。この演奏を初めて聴いた時は、地味なクーベリックのイメージと大きく食い違った演奏だったので私もびっくりした記憶がある。クーベリックはこのオケとかなり相性が良かったのだろう。それが演奏に現れている。アメリカのオケでも最もヨーロッパ的な音色を持つといわれるボストン響がクーベリックの格調高く、力感溢れる指揮に見事に応えている。音楽の表情はみずみずしく、しかもダイナミック。第1楽章冒頭から両者の作る音楽に引き込まれてしまう。
クーベリックはどんな曲を演奏しても極端に遅いテンポや極端に速いテンポを取るということがない。ここでも中庸といえるようなテンポなのだが、音楽に内在するエネルギーがオケの熱演によって加速度的に激しく放出されてくるので、聴いている方はあっという間に最後まで聴き通すことになる。いわゆる「手に汗握る」演奏。クーベリックはあからさまな加速などしていないのに、聴感上はまさに驀進する音楽となった。最後の和音が鳴り終わった後には大きな溜息をつく聴き手が多いのではないだろうか。
オケで特筆すべきはホルンだ。気持ちよく咆哮するホルンの音色がこの演奏を随所で彩っていると思う。この交響曲第5番を録音する際にクーベリックがボストン響を選んだのは、ボストン響の比類なきアンサンブルだけではなく、このホルンがあったからではないかと私は密かに考えている。
録音は残響をたっぷり含み、オケの各楽器の音色の艶やかさを余すところなく表現している。名曲、名盤、名録音といったところか。 |