ブルックナー「ロマンティック」を聴く
文:松本武巳さん
ブルックナー作曲
交響曲第4番「ロマンティック」
ラファエル・クーベリック指揮 バイエルン放送交響楽団
録音:1979年11月
CBS SONY 38DC6(国内盤)CBS MDK46505(アメリカ盤)
■ 優秀録音の話題が先行した「ロマンティック」
今回は、クーベリックがCBSに残したブルックナーの交響曲第4番「ロマンティック」について書こうと思う。この曲は、クーベリック初でかつCBS初のデジタル録音である。発売時より、超優秀録音盤として語り継がれている名録音であるが、私はこの演奏の演奏自体より、録音のことが一人歩きしているように思えてならない。そこで、このロマンティックの演奏から、クーベリックとブルックナーの相性と適性が如何なる関係にあったか、クーベリックが何故にブルックナー・メダルを授けられたのかを語って見たい。
■ クーベリックのブルックナーに対する適性
クーベリックは、彼の特質として、息の長いフレーズを大きな起伏を持たせて、実に雄大にかつ流れを断ち切らないで歌い上げることに、非常に長けた指揮者であったと考えている。この彼の特質は、まさにブルックナーの演奏の極意に通ずる特質といえよう。したがって、大河の流れを表出するようなことも上手く、時折『クーベリックは「川」にちなんだ音楽の演奏がすばらしい』などという指摘をなされることもあるのは、故なしとはいえない。実はこの点から捉えると、ブルックナーの上手い指揮者は、シューマンも上手く演奏可能であるといえるし、極言すればスメタナの「わが祖国」も演奏できるであろう。あのアーノンクールが、ブルックナー全集を録音中に、スメタナの「わが祖国」に手出しをしたことには、一定の一貫性が実はあるのだと私は考えている。
■ 適性を生かしたクーベリックの「ロマンティック」
さて、ではクーベリックは、この自身初のブルックナー正規録音で、どのような成果をあげているであろうか? CBSでの「ロマンティック」の録音において、実はいつものクーベリックの姿勢を一切くずしていない。その結果、ブルックナーの旋律を実におおらかに、スケールが大きく、流れがスムーズで、大きな深呼吸をするような歌い上げ方に徹している。クーベリックのブルックナーは、人間の呼吸に逆らわない、とても自然な深みが感じ取れる名演奏となっている。それに加えて、誰もが指摘している名録音である。本当に素晴らしい、第4番「ロマンティック」である。
■ 詳しい楽章ごとの感想
楽章毎に見てみよう。第1楽章の冒頭のブルックナー開始では、神秘的な側面を強調せずに、森のささやきのようにソフトに開始する辺りに、すでにクーベリックの特長が表れている。 第一主題を吹くホルンものどかな感じで心地よい。第2楽章の深い憂いを感じさせる演奏は、奥の深さを感じ取れる。第3楽章は一転して楽天的に演奏し、俗に狩における「角笛と小鳥のさえずり」であるといわれる部分の表現力の確かさは図抜けている。第4楽章はブルックナー自身が「民衆の祭り」と呼んだ楽章だが、実に生命の息吹が聴こえてくる音楽に仕上がっている。全体を貫く音楽的構成はとても堅固で、しかもクーベリックの人間的な温かさと、南ドイツのオーケストラに特有の暖かい音がマッチして、素晴らしい出来栄えとなっている。傑出した「ロマンティック」と言いきれる。
■ 全集に至らなかったクーベリックのブルックナー
一方、こんなにもクーベリックとブルックナーの交響曲は相性が良かったにもかかわらず、クーベリックはブルックナーの交響曲を、3,4,6,8,9番の5曲しか演奏していない。しかも、スタジオ録音を行ったのは、晩年のCBSへの第4番と、録音後5年も経ってから発売された3番のみである。第4番の初出時に、今後の予定として、レコードの帯に「ブルックナー交響曲全集」が上げられていたにもかかわらず、である。特に、普通に考えるとクーベリックが好みそうで、かつ人気曲でもある第7番にかんしては、どうも生涯一度も演奏しなかったようである。比較的多くの交響曲全集を残してくれたクーベリックが、ブルックナー・メダルを授けられたにもかかわらず、なぜ全曲を残さなかったのであろうか? 多分、私は、彼の健康的な側面が主たる理由であると考える。クーベリックは1977年頃より、健康を害し始めていたようである。それが遠因となって、バイエルンの常任のポストを1979年限りで去り、1986年には一旦引退することになる。クーベリックは1977年の初頭には、まだ62歳であった。彼の人生計画では、ブルックナーは多分自らもその相性の良さを認識していたと思うので、全集を録音するつもりであったと信じる。従って、CBSの「今後の予定」は元来クーベリックにとっても実現する予定であったのだろう。結局、彼自身がブルックナーを大事にしすぎたために、全集には至らなかったわけであるが、われわれとしては、約半数の録音が残されただけで満足しなければいけないのかも知れない(6番はCSOの自主制作盤で、8番と9番はオルフェオで、それぞれライヴ録音ながら、正規録音は存在している)。
■ 「音」と「音楽」と「演奏の瑕疵」
ところで一般的な音楽評論で、録音に関する指摘は数多いが、私は一定の限界を超えて、録音を重視した評論を行いたくはない。というのは、ときおり音楽自体の批評ではなく、「音」そのものの批評になってしまっている評論を見かけるが、あくまでも、まず「音楽」が先に存在するのである。もちろん、「音」が良いことは重要な一要素であるが、それが全部であるかのような論評は如何なものであろうか? 今回のクーベリックの「ロマンティック」はデジタル録音のオーディオ・チェック用のレコードのようにいわれたことがあるが、私は一定レベル以上の「音」で聴けるならばそれ以上は、「音」そのものにはこだわりたくはない。もちろん「音」が「音楽」の内容にまで影響を及ぼしている場合は別問題であるが・・・ 同様に、その演奏の間違い探しをすることが目的であるような聴き方や、あるいはその録音をあげつらうような細部の演奏者のミスを、スコアを見ながらチェックするような聴き方も個人的には好まない。もとより演奏は人間が行う芸術行為である。ミスが少ないように努力することはとても大事ではあるが、ミスをしないことに気を取られたときは、実は演奏自体の出来は、あまり芳しくないことが多いものである。私は、ミスのあるレコードが作られ、発売された場合の大部分は、指揮者とか独奏者があえてそのテイクを採用したいと希望したと信じる。高い芸術性を目指す行為とミスをなくす行為は、目指す方向性が異なっていると考える。ミスが絶対に起こらない演奏は、極論すると芸術ではありえないとすら考えている。芸術性と演奏の瑕疵は表裏一体のもので、不可避であると割り切ってみてはどうかと思う。特に、このレコードがそのような指標にされた経緯が存在することから、あえて書かせていただいた。
■ 終わりに
最後に、私の婚約者は決してクラシック音楽が嫌いではないのだが、残念ながら知識面ではほとんど乏しいレベルしか持ち合わせていない。そんな彼女が昨年の暮れに、私が偶然このCDを聴いているときに、「これ何ていう曲? すごく良い曲ね、とってもロマンティック!」と言ってくれたことを、とても嬉しく思う。このクーベリックの演奏が、いかに適格に曲の正しいメッセージを伝えているかを証明していると思う。われわれは、いろいろと知識を持ちすぎており、その結果音楽を聴くときに邪念を持って聴きすぎているのかも知れない。初心に帰って、虚心坦懐に聴く姿勢を持ちたいと念願してやまない。
An die MusikクラシックCD試聴記 文:松本武巳さん 2003年8月19日掲載