クーベリックの知られざる名演「ドヴォルザーク交響詩集」を聴く

文:松本武巳さん

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DG(2530 712)西独初出LP(作品107,108)

ドヴォルザーク
交響詩「水の精」作品107
交響詩「真昼の魔女」作品108
交響詩「金の紡ぎ車」作品109
交響詩「野鳩」作品110
ラファエル・クーベリック指揮バイエルン放送交響楽団
録音:1974年、ミュンヘン
DG(西独2530 712,2530 713)LP

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DG(2530 713)西独初出LP(作品109,110)
 

■ ドヴォルザークの交響詩について

 晩年のドヴォルザークは、チェコの国民的な詩人カレル・ヤロミール・エルベンの「花束」という詩集の中のバラードに創作意欲を得て、4曲の交響詩を1896年に立て続けに作曲している。また、翌1897年には特定のストーリーを持たない「英雄の歌」作品111を作曲しているが、この作品の演奏機会はエルベンによる4作に比べかなり低い。

「水の精」作品107
 1896年6月3日プラハで初演された。ある娘が親の反対を押し切り、水界の王と結婚し子供をもうけた。ある日人間の歌を歌って子供あやしていると王に叱られた。妃は里帰りさせてほしいと懇願して親許に帰るが、母親は娘を王のところへ戻そうとしない。妃が約束の時間までに帰らないので実家の前まで来た王は怒って嵐を起こす。その最中に大きな物音がしたので娘が戸を開けてみると、わが子が首を切られて捨てられていた。

「真昼の魔女」作品108

 1896年11月21日ヘンリー・ウッドによりロンドンで初演された。魔女が自分の悪口を言った母親に復讐するために子供を殺すという話で、クラリネットによる「子供の主題」とヴァイオリンによる「母親の叱責の主題」が展開・変奏されて行き、「魔女の主題」「魔女の踊り」へと変容していく楽曲構成である。レオシュ・ヤナーチェクはこの作品を気に入り、絶賛する評論を書いている。

「金の紡ぎ車」作品109
 1896年11月21日にロンドンで初演された。エルベンの詩による4曲の交響詩の中で最も演奏時間が長い。ドルニチュカという娘が森の奥の小屋で継母と実の娘と一緒に住んでいた。狩にやってきた若い王に水を差しだし見初められたドルニチュカは、城に向かう途中継母らの計略で殺され森に捨てられた。しかし魔法使いが現れ生き返らせ、魔法使いはドルニチュカに代わって王妃となった継母の娘に金の紡ぎ車を贈る。戦場から戻った王がその糸車で糸を紡ぐように命じ王妃がそれを回すと、糸車が継母達の悪行を歌う。王はその歌に従って森へ駆けつけ、ドルニチュカと再会して結ばれる。

「野鳩」作品110
 1896年に作曲され、1898年3月20日ブルノでレオシュ・ヤナーチェクの指揮により初演された。夫の死を嘆く若い未亡人から始まり、その涙は偽りの涙であると語る。やがて若い美形の男が未亡人に近づき2人は結婚するが、亡くなった先夫の墓の上に樫の木が生え、野鳩が悲しげな声で鳴く。妻はその声を聞き発狂して自殺してしまう。先夫は彼女が毒殺したのだ。音楽は葬送の音楽から始まり、若い男と出会う未亡人の心のざわめき、結婚の祝宴、悲しげな野鳩の鳴き声を描き出し、最後は穏やかな長調で終わる。主要主題が最初の動機から導き出され多彩な変容を遂げる技巧的構成であり、高い緊張感と引き締まった構成をみせる晩年の傑作とされる。

「英雄の歌」作品111
 1897年に作曲され、1898年12月4日にウィーンでグスタフ・マーラーの指揮により初演された。クーベリックは当曲の録音を残していない。

 

■ 交響詩作曲の経緯と、ターリヒ、ノイマンの録音について

 

 アメリカでの生活と作曲活動を終えて、1895年にドヴォルザークは帰国した。しかし亡くなるまでの9年間、作曲家としての創作のピークを過ぎていたようで、主要な作品は残していない。ドヴォルザークの晩年において注目すべき作品が、チェコの国民的詩人と言われたエルベンの詩集「花束」にインスピレーションを得て作曲した4曲の交響詩であった。エルベンの「花束」は民間伝説や民話に基づく詩集であり、チェコの独立運動の高まりの中で民衆の魂を歌い上げたものであり、以下の13編から成り立っていた。
『花束(エルベンによる序詞)、財宝、花嫁衣装、真昼の魔女金の紡ぎ車、クリスマス・イヴ、野鳩、ザーホシュのベッド、水の精、柳、百合、娘の呪い、巫女』

 ドヴォルザークはこの中から下線を付した4編を選び出し交響詩を作曲した。しかしながら、これらの作品はメルヘン仕立てではあるものの、結構恐い話ばかりである。そこで、少し婉曲な表現に『改編や改変』が行われている。しかし、民間伝承にはもとより闇の部分が本質的に存在するものであり、このエルベンの「花束」に関しても、そのような闇の部分が強い作品とも言えるのである。そのような民間伝承に基づいた作品に、最晩年のドヴォルザークが強い興味を持ったと言うところに、最晩年のドヴォルザークの本質や特質が存在するのだとも言えるだろう。

 このような晩年の交響詩などは、取り上げられる機会は非常に少ないと思われるかもしれないが、実は以下の通り意外に多くの録音に恵まれている楽曲なのである。

 ネーメ・ヤルヴィ指揮ロイヤル・スコティッシュ・ナショナル管(4曲)、イシュトヴァン・ケルテシュ指揮ロンドン響(3曲)、サイモン・ラトル指揮ベルリン・フィル(4曲)、ヴァーツラフ・ターリヒ指揮チェコ・フィル(4曲)、ボフミル・グレゴル指揮チェコ・フィル(全曲)、ヴァーツラフ・ノイマン指揮チェコ・フィル(全曲)、テオドール・クチャル指揮ヤナーチェク・フィル(全曲)など、多くの優れた録音が残されている。

 最初期の代表盤であるターリッヒの演奏については、意図的に民族色を前面に押し出さないように配慮しているように見受ける。一般的に広く録音が受け入れられることを優先した演奏だとも言えるだろう。一方で、ターリヒのあとを継いだと言えるノイマンの交響詩集は、思い切って闇の世界に踏み込んでいるようにも思える。ただし、ターリヒもノイマンも、交響詩全体の見通しをあくまで最重要視し、そのために楽曲にもとより存在している過剰な表現部分については意図的に控えめに演奏することで、交響詩全体を引き締まった音楽として録音したと言えるだろう。私としては、チェコ民族の誇りを前面に押し出すような演奏姿勢を、母国チェコのメンバーによる録音では常に聴いてきただけに、このチェコを代表する二人の指揮者の録音について、伝承部分に踏み込み立ち入る手法に差はあれど、いずれの録音も私としては多少意外な感じがしないでもないのである。

 

■ クーベリックによる交響詩集の録音について

 

 ラファエル・クーベリックは、毎度のことながら「音楽作りは概して中庸で、素朴な味わい云々」といった評が、宿命的に付いてまわった指揮者である。商業録音の音楽的特質においてクーベリックは、実際にはフルトヴェングラー的な気質を持っていたとされるにも関わらず、である。

 この交響詩集の録音からも、一見メルヘン調に見える楽曲の裏に潜む、深い部分におけるエルベンの主張を抉り出すことに成功しているのだが、それでいながら民族色や民間伝承の闇の部分を徒に強調するのではなく、ドヴォルザークの音楽の持つ本質的な美しい旋律と、ダイナミックで熱狂的な音楽の狭間に、巧みに本質的な主張を密かに組み込むことで、親しみやすさと気高さを十分に維持してつつ、決して音楽全体が浪花節に堕することなく、格調高い音楽に仕立て上げているのである。

 実際には、ターリヒが意図的に控えた表現部分や、ノイマンが一部踏み込もうと試みた闇の世界に、クーベリックは明確に立ち入っているにも関わらず、聴き手からターリヒやノイマンが恐れたであろう批判を受けることなく、この録音を残すことに成功しているのである。亡命者クーベリックならではの、チェコへの深い思いが犇々と感じ取れる、そんな代表的録音であると信じている。その意味で、この録音は聴く機会こそ少ないものの、間違いなくクーベリックの代表的な録音の一つであると、私は思うのである。

(2023年12月11日記す)

 

An die MusikクラシックCD試聴記 文:松本武巳さん 2023年12月13日掲載