私とクーベリックの出会いとその後
文:松本武巳さん
今回、伊東さまのご厚意に甘えて、クーベリックのページの更新のお手伝いをさせていただけることになりました。伊東さまの太っ腹としか言いようのない、大胆なご厚意に対するせめてもの報いとして、誠心誠意を尽くさせていただく決意です。さて、このようなページを手伝わせていただく、たけみちゃんこと本名松本武巳とクーベリックの運命的な(と本人が勝手に悦に入っています!)出会いを書かせていただき、私のクーベリックへの思いが私なりに大きいことをお伝えしようと思います。
私は1959年の猛暑の日に、兵庫県の片田舎に生を授けられました。なぜか『音』に敏感な幼少時を過ごしたためか、3歳の誕生日には既にピアノとソルフェージュを学習しはじめておりました。私に音楽の手ほどきをしてくださった先生が、なぜか私に英才教育を施してくださったお陰で、私は『ド・レ・ミ』より先に『ツェー・デー・エー・エフ』を知ると言う幸運に恵まれました。「三つ子の魂百まで」とは良く言ったもので、私は今でも『ド・レ・ミ』よりも『ツェー・デー・エー・エフ』で音階を自然に考えています。なんて言うとまるで音楽の天才少年みたいですが、実際は専門家になってしまった姉とは違って、ほとんど聴くほうの専門に徹しているこの頃です。
さて、音楽全般に興味を示した私は、5歳のときに、母親に突然「オーケストラの生演奏が聴きたい!」と駄々をこねました。大体、就学前の幼児はコンサートホールに入場すら出来ません。困った母は、遠くの演奏会ならばもぐりこめるだろうと企みました。そして、私は1965年4月12日に、大阪フェスティバルホールに行くことになりました。お気づきの方がもういらっしゃるでしょう。そうです、クーベリック初来日のしかも初日の演奏会です。あの長大なブルックナーの8番のみのプログラムでした。私がさぞや感動し、クーベリックの名前が少年の頭脳に刻み込まれたと思われるでしょうね・・・しかし、そこは5歳の少年です。実は「な〜んにも覚えていません・・・」。記憶にあることは、2階席のレフトサイド(何故か前から2列目だったことは鮮明に覚えています)に座ったことと、くそ長いわけの分からん曲を、背の高い白人のおっさんが延々と指揮をしていたことと、しかもそのおっさんは禿げ始めていて、横向きに残った毛髪がゆらゆらと揺れていた! そのことが無性に面白かったこと、以上が全てです。全く本当に音楽を聴こうとしたのでしょうか? それ以前に、何をしに行ったのでしょうね・・・5歳の私は?
このオーケストラ初体験のあと、私はピアノに熱中し、長い間、オーケストラとはピアノ協奏曲の伴奏者の意味でしかありませんでした。もちろん、クーベリックの名前は記憶の彼方へと去ってしまいました。本当に長い間、私はオーケストラに興味を持たなかったのです。
さて、1983年に話が飛びます。東京都民となっていた私は、念願のフルコンポを手に入れました。そして、LPの末期に集中的にディスクを買い始めました。その際の私の目録は、音楽の友社から出ていた『名曲名盤500』の初版でした。これを元に片っ端から、ピアノ曲を集めていきました。初めて本格的にディスクを買うにあたって、この方法はそれなりに意味がありました(いまではとてもこんなことはしませんが・・・)。1年ちょっと過ぎて、ある程度ピアノ曲のLPが集まったときに、私はふとオーケストラの方も少しは集めようと思いました。そこで、私はピアノ曲ではシューマンが好きだったので、シューマンの交響曲を買おうと思い立ちました。例の『名曲名盤500』では、1番から3番までが、すべてクーベリックのCBS盤が1位で、4番はフルトヴェングラーのDG盤が1位でした。ただそれだけの理由で私は、クーベリックの1番と3番のカップリングの徳用盤を買いました(レギュラー盤は、1番と4番、2番、3番とマンフレッド序曲の3枚でした=結果的にはこちらを買いなおす羽目になったのはご推察のとおりです)。1984年9月24日のことでした。その日の夜のことは忘れることはないと思います。だって、このLPを6回続けて聴いたのですから・・・
衝撃的な出会いでした。このLPから流れる音楽の格調の高さに打ちのめされたのです。単なる交通整理とは全く異次元の格調の高さを感じました。恣意的な面白い演奏が割りと好きで、正確な演奏=交通整理と決め付けていた当時の私にとって、楽譜を正確に音化し、しかも純音楽として高級で、さらに深い感動を呼ぶなどと言う演奏に初めて出会ったのでしょう(なにせ、全然オーケストラを聴いていませんでしたから、余計驚いたわけですね・・・)。クーベリックは派手な演奏スタイルを取りません。それは、音楽に対して深いところで共感しているので、そのような表現方法を取る必要がないのでしょう。この日を境にクーベリックを集め始めました。LPの最後の頃です。9月27日には、BSOとの「わが祖国」とBRSOとのマーラーの「巨人」、10月1日には、マーラーの2〜10番と、「真夏の夜の夢」と、ゲザ・アンダとのシューマン/グリーグのピアノ協奏曲を一気に購入。これらの買った日付を、日記等をつけていない私がいまだに覚えているのですから、その興奮と、衝撃がいかほどに強かったのかご理解いただけるのでは、と思います。
さて、音楽の世界がCDに切り替わったころの、1986年9月、私は久しぶりに兵庫の片田舎に帰省しました。そこで、古い資料を整理していて、当時の演奏会のプログラムの束に気付きました。その中に、前述の1965年4月12日のコンサートのプログラムを発見したときの驚きを、やはり終生忘れはしないでしょう。そうです、私は初めて行った演奏会の指揮者が『クーベリック』であることを、この時点でようやく認識したのです。5歳のときの原体験が、1984年に至って、私とクーベリックを結び付けたのか、あるいは全然関係のない偶然か、それは神のみぞ知ることでしょう。でも、私はクーベリックとこのように2回も出会ったのです。奇跡だと信じています。
最後に、私は、またもやそのようになるとは知らずに、1991年のクーベリック/チェコ・フィルの東京での「わが祖国」に行きました。今度は、結果としてクーベリックの人生最後の演奏会であったのです(録音は、その後、自作をチェコのレーベルに入れています)。本当に運命ですね。この演奏会のことも忘れはしないでしょうが、こちらはまだ最近のことですし、話題を呼んだ演奏会ですから、皆様ご承知のことと存じます。
おまけ:最近名曲のランク付けなどに何の意味もないことが言われています。そのとおりだと思いますが、私がクーベリックと2回出会えたのは、まぎれもない『名曲名盤500』だったのですから、私はこのような企画が馬鹿馬鹿しいと思う一方で、あまり正面から批判の議論に乗れないのです。本当にこの本はいまでも大事に取ってあります。
An die MusikクラシックCD試聴記 文:松本武巳さん 2003年7月22日掲載