ヤナーチェク「消えた男の日記」におけるピアノの達人クーベリック
文:松本武巳さん
■ ヤナーチェク「消えた男の日記」
ヤナーチェク作曲
「消えた男の日記」
ラファエル・クーベリック(ピアノ)
エルンスト・ヘフリガー(テノール)ほか
録音:1963年11月
CD番号:DG463 672-2(輸入盤)
(日本盤はエルンスト・ヘフリガーの芸術(11枚組)でCD化された。それ以前に音楽の友社の企画盤としてもCD化されている=世界初CD化)■ 話題の発端
今回はクーベリックのピアノの腕前について書こうと思う。彼のピアノの伴奏は、前回書かせていただいたヤン・クベリーク協会盤を除けば数少なく、主な録音は今回の「消えた男の日記」のみと言える。しかしクーベリックのピアノの腕前は、指揮者の「音合わせ」のためのレベルどころか、伴奏ピアニストの腕前をも大きく凌駕していることをお伝えしたいがために、今回の小論を書こうと思い立ったことを、はじめに記しておこうと思う。
■ 楽曲について
まず、この「消えた男の日記」の曲のことについて書いておこう。テノールとアルトの独唱に、女声三部合唱を加えたこの曲は、本来ピアノの伴奏による形式で、ヤナーチェク晩年の1917年から1919年にかけて作曲された。管弦楽編曲版も存在し、クラウディオ・アッバードのDG盤は好演であるが、オリジナルのピアノ伴奏の方が、この曲におけるヤナーチェク特有の語法をより直截に感じ取れ、そのオリジナルの形式での名盤がいくつか存在している。歌詞はモラビア方言で書かれているのだが、実はクーベリックのこのCDは、ドイツ語の訳詩で歌われている。なぜクーベリックがピアノを弾いているにもかかわらずドイツ語歌唱なのか? それは、モラビア方言はチェコ語の標準語とは相当異なった言語であり、クーベリックは自ら、その方言に自信が持てないので、あえてクーベリックから申し出てドイツ語の訳詩で歌われたようである。また、アルト独唱と女声合唱はごく一部分に過ぎず、ほぼ全編に渡ってピアノとテノール歌唱が絡み合う音楽なので、今回の演奏者表記をあえてテノールのエルンスト・ヘフリガーのみにさせていただいた。
■ 第13曲におけるクーベリック
ところでこの曲は、第13曲に2分半程度のピアノ独奏が入ることで知られる。ここはなんと『性交渉』の描写音楽であるので、声楽のパートが休憩し、ピアノのみで怪しげなる旋律が語られるので、この曲のピアノ伴奏は、プロのピアニストでもヤナーチェクに自信のない者は避ける傾向にある。実は、この曲を演奏したいテノール歌手の数は多いのだが、ピアニストを捜すのにとても苦労する由を聞かされたことがあるくらいである。それにしても、この部分におけるクーベリックのピアノの何と雄弁なことか! 彼のピアノの腕前は技術的にも表現的にも、第一級のレベルにあることが実証された名録音であろう。しかも、クーベリックが穏健な控えめな表現に徹した音楽家であった、などと言われていることが、とても信じられない。ここでのクーベリックは、今で言えば、AV(オーディオ・ビジュアルではなくアダルト・ヴィデオ!)の名優以上に、ある種の意味深い音楽を実に官能的に奏でており、まさに情熱的なパッションにあふれた演奏行為である。ここまで弾けるピアノが、指揮者の余芸であるはずなどありえない!
■ クーベリックのピアノ技法
さて、話があらぬ方向に突っ走ってしまったので元に戻すと、クーベリックのピアノの演奏が、普通の指揮者のピアノとどこがどう違うのかを考えて見ると、打鍵の深さの点がなによりもプロのピアニストに近いのである。クーベリックのピアノの音は非常に深い音が鳴っている。ときおりヘフリガーを食ってしまうほどである。指揮者とか伴奏ピアニストの一般的なピアノの奏法は、普段ソリストに合わせるために弾いているせいか、打鍵が浅く、コロコロと転がるように軽いタッチで演奏される点で、専門ピアニストとの大きな相違が見られる。そのためか、モーツァルトのピアノ協奏曲などに指揮者のピアノ演奏の名曲が多いのは、ご承知の通りである。
■ 今回のまとめ
結論に入ろう。クーベリックは父親の期待もあってか、学生時代にはありとあらゆる楽器に加え、作曲や理論など本当に幅広い専門教育を受けたことが知られている。その専門教育の一端がこのピアノ演奏に表れている。本当に才能に恵まれたクーベリックの別の一面が明瞭に表出されたこのCDは、私の宝物である。
■ おまけ:ヘフリガー氏について
8月の下旬に、いつものように、『草津国際音楽アカデミー』に行ってまいります。今年はエルンスト・ヘフリガー氏の「公開レッスン」と「歌曲の夕べ」があり、本当に今から楽しみです。特に「公開レッスン」は彼と会話を交せる機会がある可能性が高く、私はクーベリックのことについて、ヘフリガー氏と話をしようと思っています。
An die MusikクラシックCD試聴記 文:松本武巳さん 2003年8月10日掲載