マーラーを聴く 第4回 ■交響曲第1番■

文:松本武巳さん

ホームページ  WHAT'S NEW?  「クーベリックのページ」のトップ


 
 

 マーラー:交響曲第1番

CDジャケット

クーベリック指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1954年6月
DECCA(POCL-4313)国内盤=モノラル録音

CDジャケット

クーベリック指揮バイエルン放送交響楽団
録音:1967年10月
DG(449-735 2)輸入盤=OIBP

CDジャケット

クーベリック指揮バイエルン放送交響楽団
録音:1979年11月
Audite (audite 95.467)輸入盤

DVD

クーベリック指揮バイエルン放送交響楽団
収録:1980年
DREAMLIFE (DLVC-1039) 国内盤DVD

 

 今回の執筆動機

 

 マーラーの交響曲第1番を、クーベリックは映像を含めると正規録音だけで4回も残しているのは何故なのであろうか。今回第1番を書こうと思い立ったのは、その謎の一端を最近垣間見ることがようやく出来たと信じるに至ったからであって、そのために、今回は4つの録音を聴き比べた試聴記として、クーベリックの評論を書こうとは思っているわけではないことを、あらかじめお断りしておきたい。

 

 マーラーの最初の交響曲

 

 マーラーのこの曲の成立までには、大きく分けて5つの過程に分類できる。1889年のブダペスト版では、交響曲というより『交響詩』であった。1893年のハンブルグ改訂版でも2部構成は維持されており、ここで『巨人』なるタイトルが付せられた。翌年すぐに再改訂がなされ(ヴァイマール版)、1896年のベルリン版で初めて「交響曲」となり、「花の章」を削除するとともに、2部構成も破棄された。そして、1899年に出版にあたって、過去の作曲にまつわる変遷を切り捨てて、最終的には単に「交響曲第1番」として、標題音楽としての痕跡をなくして出版された。しかし、各楽章にさまざまなサブタイトルを付したり、冒頭に説明のための副題をつけてきた経緯から、聴き手はこの音楽を、今もなおいわゆる「絶対音楽」として捉えてはいないように感じる。端的な例は、今も広くこの交響曲は『巨人』と呼ばれているが如くである。

 

■ 全集録音以前の唯一の録音

 

 クーベリックがマーラーの全集を録音する以前は、1954年にDECCAに録音したこの交響曲第1番がクーベリックの指揮したマーラー唯一の録音であった。当時、マーラーの交響曲では、第4番が比較的多く演奏される機会があり、この楽曲がクーベリックの適性に合致していると思われるにもかかわらず、大変意外なことに、クーベリックは第4番をほとんど演奏していないのである。アウディーテのライヴ録音によるマーラー交響曲全集の完成が危ぶまれているのも、第4番の録音を発見できないからである。ところが、さして有名ではなかった当時から、クーベリックは第1番を演奏し、録音まで敢行している。そのわけを、私なりに探ってみたい。

 

 最終出版まで「葬送風」のタイトルが付せられていた第3楽章

 

 第3楽章が「葬送」のための音楽であるとされてきた作曲時にまつわる経緯が、この曲が広く演奏されるに至るまでの長い時間に直接つながってしまった不幸な事実であることは、結構知られていることと思う。しかし、私はマーラーが「カロ風」と言う言葉を使った真意は、「葬送」の部分ではなく、『後期浪漫派』の作品であることの表明としての意味合いのほうがはるかに強かったものと考えている。彼は初の大作であるこの交響曲の作曲で、作曲家としての姿勢を表明する義務があると考えたに相違ない。そのような理由から、この楽章を創作し、第1交響曲のキー・ポイントに据えようとしたと一般に言われている(ただし、この点は違った指摘をしている音楽学者もいるようです)。ところが、彼の使ったモチーフが、以下に記す事情のためか、ウィーンで全く受け入れられなかった不幸が彼を襲ってしまった。「葬送」音楽の前提たる「厳か」な雰囲気がまるでない、この楽章は、彼の意図に反して音楽自体の評価を受ける前に、全拒否をされてしまったのである。

 

 クーベリックの故郷の「ボヘミア地方の葬送」の際立った特徴

 

 20世紀前半まで、ボヘミア地方における一般的な葬儀の行われ方が、世界的に見ても特異なものであったことは、あまり知られていないことであろう。音楽の基本が、「モノフォニー」から「ポリフォニー」に移行したころから、今世紀の中盤(クーベリックが亡命するころ)に至るまでの、ボヘミア地方の一般的な葬儀の時に奏でる音楽は、吹奏楽団による賑やかな演奏をベースにしたものであり、さらに何と死者を埋葬する際に演奏する音楽は「ポルカ」や「フリアント」であったようである。当時のボヘミア人の死生観が、神への帰依であるとの根本理念が強かったものと想像される。つまり、『死』とは、その人物における神による祝福の儀式であったのだ。もちろん、遺族にとって「別れ」の悲しみは当然あったであろうが、村人が総出で祝福することで「悲しみ」を紛らわせようとしたに相違あるまい。

 

 第3楽章に見られる、一見特異な葬送の音楽とボヘミアの風習

 

 さて、マーラーが書いた「葬送の音楽」とされる第3楽章であるが、この音楽が初演された当初からどちらかと言えばコミカル風な楽章であったために、最終出版稿では「葬送」なるタイトルは削除されていたものの、マーラーの見識自体が疑われ続けて来たことは、過去のこの交響曲の受容のされ方の経緯を見ればほぼ間違いがなかろうと思う。たとえば、第39小節の旋律は明らかにボヘミアの民族舞曲を取り込んだものであるし、すぐ後の第45小節からの「パロディ風に」との指示が作曲者によってなされている部分に至っては、「葬送」であることを前提に聴いた者は『不謹慎である』と考え、激怒するほうがむしろ普通の感覚であろう。マーラーはユダヤ人の分裂気質をもともと持っていると考えられるが、この楽章を聴かされた当時のウィーンの聴衆は、気質ではなく「精神病」に罹患していると考えたのも無理からぬ話である。しかし、作曲中のマーラーの頭脳の片隅に、少なくともボヘミアにおける葬儀のことがあったに違いあるまい。でないと、マーラーといえどもいくら何でもこのような音楽を、第1交響曲で作曲するはずはないと信じている。

 

 第3楽章で際立った解釈を見せるチェコ系の指揮者たちの共通項

 

 ところが、元来ボヘミアの音楽家たちは、上記の意味におけるマーラーの『異常さ』を、異常とは理解していなかったことは自明であろう。ところが、単純にマーラーの音楽の前衛性(当時の田舎であるボヘミアから見た場合)のために、第3楽章の真意を知るボヘミア人によるこの交響曲の演奏がほとんど行われなかったこと(例外的にターリッヒはこの曲を取り上げたようです。しかし大戦を挟んだ時期であったためか、あるいは国家の共産化のためか、残念なことにこの楽曲の真意に関しては、少なくともチェコ国外に伝播しなかったようです)が、マーラーの交響曲全体の理解が遅れたことにつながった歴史上の事実は、マーラー自身にとっても、クラシック音楽の聴き手にとっても不幸なことであった。そして、今でもさして多くないボヘミア系の指揮者によるマーラーの交響曲第1番(特に第3楽章)を聴いて見ると、私が勝手に結びつけているだけかも知れないが、理屈ぬきに、私にはある種のこの曲を聴く場合の「安心感」を享受できるのである。もちろん、現在では当時の葬儀の方法は、ボヘミアでも廃れてしまったと聞いている。ただ、ノイマンのスプラフォンのマーラー全集と、クーベリックのDGのマーラー全集には、このようなボヘミアの香りが漂う(気がする?)点で、他の指揮者の全集とは一味違った、共通項を感じるのである。そして、その共通項こそが、私が疲れたときに聴ける唯一(実際には2つ?)の全集として貴重なポジションを、クーベリックの指揮によるマーラーの交響曲第1番のディスクは保持し続けているのである。

 

(文:松本武巳さん 2004年8月1日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記)