クーベリック指揮の「マーラーを聴く 第7回 交響曲第5番」

文:松本武巳さん

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マーラー
交響曲第5番

LPジャケット

ラファエル・クーベリック指揮
ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団
録音:1951年6月21日、オランダ・アムステルダム(ライヴ録音)
TAHRA(フランス盤 TAH 419)CD

LPジャケット

ラファエル・クーベリック指揮
バイエルン放送交響楽団
録音1971年1月5〜11日、西ドイツ・ミュンヘン(スタジオ録音)
DG(西ドイツ盤 2707 056)LP

CDジャケット

ラファエル・クーベリック指揮
バイエルン放送交響楽団
録音:1981年6月12日、西ドイツ・ミュンヘン(ライヴ録音)
Audite(ドイツ盤 95.465)CD

 

■ マーラーの交響曲第5番

 

 この交響曲第5番は、クーベリックが全集録音に取り組んでいた1960年代後半から70年代初頭、ただでさえ大衆の人気がなかったマーラーの交響曲の中でも、実は人気のないグループに属していたようだ。今では凡そ信じがたいことではあるのだが、クーベリックの交響曲全集が出された当時の国内盤の解説には、『彼の10曲の交響曲のうちでは特に有名な方ではない』と紹介されているし、ほぼ同時期に完成したハイティンクの全集でも、同様に国内盤全集の解説で、『この曲は、特殊な立場にあるということができる』と記されているのだ。まさに隔世の感があるとしか言いようがない。

 

■ 3種類の正規録音の存在

 

 マーラーの交響曲に若いころから積極的に取り組んでいたクーベリックは、この交響曲第5番でも1951年という早い時期にコンセルトヘボウと演奏したライヴ録音、1971年にドイツ・グラモフォンに残した手兵バイエルン放送響とのスタジオ録音、さらにAuditeから発売された同じくバイエルン放送響との1981年のライヴ録音の、合わせて3種類の正規盤が残されている。今回はこの3種類の録音を取り上げてみたい。

 

■ 1951年コンセルトヘボウとの録音

 

 まず、1951年のコンセルトヘボウとの録音から始めたい。この録音におけるクーベリックの演奏姿勢に対し、私はとても好ましい感想を持っている。20年後の全集録音につながる、そんなとても端正な演奏であると言えるだろう。指揮棒のコントロールにも長けており、当時まだ30歳代であったことを考え合わせると、驚異的な精度で演奏しているように思われる。

 ただ、当然のことではあるのだが、この演奏はいわば他流試合の上に、非常に若い頃の録音なので、多少一本調子であることも否めないように思えるのも確かだ。しかし、指揮者としての筋の良さを痛感するディスクであると考えるので、この録音が正規盤として発売されたことは、当時のこの交響曲の演奏頻度を合わせて考えると、ファンだけに限らずとても幸運なことであったと思う。

 

■ バイエルン放送響とのドイツ・グラモフォンへの全集録音

 

 つぎに、DGへのスタジオ録音なのだが、この演奏の発売に合わせるようにヴィスコンティの映画『ヴェニスに死す』が封切られ、その後のマーラー・ブームが始まるきっかけとなったように思われる。当時発売されたクーベリックの国内盤LPのオビには、大きく「ヴェニスに死す」の文字が踊っているのだ。

 現在聴き直してみても、全体的にすばらしく均整のとれた、決して退廃的でない、かつ精神的に健全なマーラー像をきちんと描ききっている演奏である。すなわち永遠に失われることのない本質的な内容を鋭く捉えており、今後も交響曲第5番の規範の一つであり続ける録音であると、そんな風に思えるのである。バイエルン放送交響楽団も、当時すでにたいへん充実したアンサンブルを練り上げており、隅々まできちんと神経を通わせて誠実に演奏し、指揮者の意図にも鋭く反応し、とてもレベルの高い演奏であると感じる。

 かつてある評論家が、このスタジオ録音の交響曲第5番を評して「単なる交通整理」とお書きになられたことを未だに思い出すが、何度聴き直してみても私にはまったくそのように感じられない。人の感じ取り方というものは、本当に人さまざまであるように思われてならない。もっともそれゆえに、多くの評論が存在し、多くの録音が存在する根拠でもあるのだ。比較視聴の楽しみの一つに見解の相違があるのは確かで、異なる意見を論破したり批判したりするのでなく、どこまで受容できるかが大切であるように思われてならない。

 

■ バイエルン放送響との1981年ライヴ録音

 

 最後に、アウディーテから発売された第5番だが、非常に振幅と抑揚の大きな演奏であり、発売時に大きな話題を呼んだ理由もそれなりに理解できる録音であると言えるだろう。ひいてはクーベリックのライヴ録音全般への高い評価と、クーベリックのマーラー解釈が良い方向に見直される契機ともなったようだが、私にはクーベリックの演奏姿勢そのものへの変化は、このライヴ録音から特に読み取れないのだ。

 確かにクーベリックは、スタジオ録音ではあまり見せなかった、非常に大きな抑揚をつけてスケール大きく演奏しているように感じる。加えてテンポもややゆったりしている上に、休符の扱いもとても上手く、それゆえこのライヴ録音は聴き手にある種の高揚感を与えてくれるのも確かであるだろう。ただ、この演奏はいわゆるライヴ特有の爆演では決してない。あえて、スタジオ録音との違いを述べると、このライヴ録音特有の美しい響きであろうと思う。この美しさは、スタジオ録音からは若干希薄であるように思われる。そしてこの響きの美しさだけでも、この録音は独立した存在価値を勝ち取っているといえるだろう。

 ただ、クーベリック自身の解釈自体は、3種類の時期の離れた録音ではあるがほぼ終始一貫しており、解釈上のブレはほとんど生じていないのである。ただし、アムステルダムでの録音は、後年の2種類とは異なるスコアを用いているようで、いくつかの楽譜上異なる処理をしているが、指揮者の楽曲解釈の変更とは異なる単なる演奏処理上の差異にとどまっていると言って差し支えないだろう。

 

■ 結語

 

 クーベックによるマーラーを聴くシリーズ。今回が第7回とのことだが、そんなシリーズを本当にお前は連載しているのか。こんな疑問が当然湧いてくるであろう。実はこのシリーズ第1回の掲載は2003年で、前回第6回を公表したのがなんと2014年なのである。さすがにこの事実を前にして私はただ平伏すのみである。

 まだ執筆に至っていないクーベリックのマーラー録音は、交響曲第4番、同第6番、同第9番、同第10番アダージョ、大地の歌、嘆きの歌の、都合6作品もあるのだ。なかなか厳しい情勢であると認めざるを得ない。ただ、以前ある方からご指摘を受けたのだが、これまでに書いた6つの試聴記は、いずれもカラヤンが生涯取り組むことがなかった曲ばかりなのである。今回の第7回において、カラヤンが録音を残している楽曲をついに初めて取り上げたことになるのだ。私はこれまでクーベリックのマーラー演奏を、カラヤンの演奏と比較視聴したことは一度もないのだが、単なる偶然を超えた何らかの意図があるのかどうか自身でも実は明確ではなく、このシリーズの完結までにはまだまだ紆余曲折がありそうである。

(2020年10月20日記す)

 

An die MusikクラシックCD試聴記 文:松本武巳さん 2020年10月22日掲載