クーベリック指揮の「マーラーを聴く 第10回 交響曲第6番」
文:松本武巳さん
マーラー
交響曲第6番
ラファエル・クーベリック指揮
バイエルン放送交響楽団
録音:1968年12月7〜8日録音
DG(国内盤UCCG-3952)
マーラー
交響曲第6番
ラファエル・クーベリック指揮
バイエルン放送交響楽団
録音:1968年12月6日録音(ライヴ)
Audite(輸入盤95.480)■ 演奏会に引き続き、翌日から録音されたドイツ・グラモフォン盤
クーベリック指揮のマーラー交響曲第6番の録音は、ドイツ・グラモフォンへのスタジオ録音と、アウディーテへのライヴ録音の2種類の録音が残されているが、この両盤は録音日時を確認すれば一目瞭然であるように、演奏会ライヴが1968年12月6日、スタジオ録音が1968年12月7日から8日であり、実際のところ1つの一連の録音が残されていると考えても、特段差し支えないように思われる。そこでこの交響曲の場合に限って、特記しない限り、2種類の録音を区別せずにまとめて試聴記を書くことにしたい。
■ 両方のディスクに共通すること
両方の録音ともに言えるクーベリックの特質は、少なくともこの交響曲の俗称である「悲劇的」という表題に、まったく拘泥しない堅固な絶対音楽として、クーベリックは指揮していることである。クーベリックの取ったマーラー演奏の基本的なスタイルは、現代では一般的にあまり人気がない手法であることは、これまでにも何度か指摘してきたのだが、この交響曲に求める聴き手の期待感が仮に「悲劇性」にあるとするならば、この録音はほとんど肩透かし的な演奏に感じると言わざるを得ない。
しかしながら、クーベリックはいつも通りの温かみのある音を維持しつつ、同時にいつもとは若干異なるこの交響曲に対する確かな意志を感じるのである。それは、この交響曲の「悲劇性」を否定しつつも、同時にこの交響曲の「劇性」自体を肯定し、その結果意図的に曲全体に強い推進力を与えようとしたのかも知れないと、そんな風に思うのである。■ 個人的な嗜好からの演奏評について
私の個人的な意見として、クーベリックのマーラー交響曲第6番の録音は、残念ながらあまり好みの演奏だとは言いかねる。さすがに、全体を貫くテンポ設定が速すぎるように感じてしまうのだ。演奏自体の迫力は、クーベリックの指揮した他のマーラー交響曲の録音よりも確かにあるように思うのだが、そもそも曲の冒頭から快速に突き進んだ演奏であるにもかかわらず、終楽章に入ってから、更に加速していくといった猛烈にアグレッシヴな演奏に、少々驚き同時に戸惑ってしまうのである。この点は正直に告白しておきたいと思う。
クーベリックらしさをこの録音から認めるとしたら、このような快速な演奏にもかかわらず、全体を通じて決して乱暴な演奏や雑な演奏になっておらず、細部まで丁寧さを失うことなく、きめ細やかな配慮を決して怠っていないとか、このような側面から評価することは可能であろう。加えて、楽曲の基本的構造を重視し、細部に拘泥しないスタンスを貫いた場合、この交響曲は曲調の転換が若干前後を断絶する形で行われることが多く、それゆえ、全体の造形をきちんと聴き手に示すためには、必然的に若干快速なテンポ設定が必要であるとも言えるだろう。
それでもなお、ライヴ録音の方はともかく、スタジオ録音の方に関しても、各奏者の音が技術的に不揃いな箇所が垣間見られる上に、終結に向けての全体の追い込み方が、クーベリックにしては少々単調に陥り気味で、そこにクーベリックらしからぬ多少の強引さを、交響曲全体の演奏として丁寧で配慮を尽くした指揮ではあるものの、私としてはこの交響曲の録音から、残念ながら感じてしまうのである。■ クーベリックの側から考えられること
一方で、この演奏について、クーベリックの側に立って考えてみると、もしかしたら以下の2点が主張できるのかも知れないだろう。ひとつは、第2楽章と第3楽章の演奏順序の問題であり、クーベリック自身が作曲家であったことも合わせて勘案した場合、そもそもクーベリックは当時一般的であった第2楽章と第3楽章の演奏順序について、最初から指揮者としてだけでなく作曲家としても何らかの疑問を抱いていたのではないかと考えられるのである。実際、バイエルンでのクーベリックの後任であるコリン・デイヴィスは、バイエルン放送交響楽団との交響曲第6番の録音で、両楽章を入れ替えた順序での演奏を行っているのだ。
もうひとつは、ハンマーの打撃のように、そもそもの作曲者の意図が明確でない部分が多いことに、クーベリックは一部ではあるが納得できないまま録音に臨んだのではないかと思えることである。この曲に関するマーラーの解釈の本質は、妻アルマによって少なくとも若干捻じ曲げられているように思われる。すなわちこの曲に関する限り、私はベートーヴェンと弟子のシンドラーの関係を思い起こしてしまう。そんなこんなで、クーベリックにとって非常に珍しいことではあるが、楽曲の一部について解決しえていない部分を残しつつ演奏会に臨み、引き続きスタジオ録音をしたのかも知れないと思うのである。大変残念ではあるが、この交響曲に関してのクーベリックの指揮は、その他のマーラーの交響曲演奏ほどには高く評価することはできないと、そんな風に今も感じている。■ この交響曲からボヘミアの自然への憧憬を感じ取れるか?
私は、マーラーの出身地であるボヘミアの自然への憧憬であるとかを、かつてこの交響曲からは特段意識することなく、クーベリック以外の指揮者の演奏も含めて、そのような視点からは全く聴いてこなかった。しかし、ノイマン指揮チェコ・フィルの2種類のマーラー交響曲第6番のディスクを聴いたときに、私の内部で未消化ではあるものの、ノイマンの演奏したこの曲の演奏とクーベリックの演奏の間には、確かに何か深いところで通じるものがあると言わざるを得ないように、最近になって考えるようになったのである。この点について今後もし触れるとすれば、ノイマンのディスクの試聴記を執筆する機会があれば、その際に真剣に考えてみたいと思っていることを、最後に付言しておきたい。
(2023年9月14日記す)
An die MusikクラシックCD試聴記 文:松本武巳さん 2023年9月14日掲載