クーベリック指揮の「マーラーを聴く 第8回 《大地の歌》」

文:松本武巳さん

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CDジャケット

マーラー《大地の歌》
ヒルデ・レッセル=マイダン(メゾ・ソプラノ)
ヴァルデマール・クメント(テノール)
ラファエル・クーベリック指揮
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1959年8月30日、ザルツブルク音楽祭(ライヴ)
Orfeo(輸入盤 C820102DR)

CDジャケット

マーラー《大地の歌》
ジャネット・ベイカー(メゾ・ソプラノ)
ヴァルデマール・クメント(テノール)
ラファエル・クーベリック指揮
バイエルン放送交響楽団
録音:1970年2月27日、ミュンヘン・ヘルクレスザール(ライヴ)
Audite(輸入盤 AU95491)

■ 1959年8月、ザルツブルク音楽祭でのライヴ録音

 

 ザルツブルク音楽祭で、ワルター以外でマーラーの楽曲を指揮した例は、1960年以前にはたったの2回しかなく、いずれもクーベリックの指揮によるもので、1952年の交響曲第5番と、1959年の「大地の歌」の2回である。1960年のマーラー生誕100周年を控えた1959年に行われた、クーベリックとウィーン・フィルの顔合わせによる「大地の歌」演奏は、1959年のザルツブルク音楽祭を締め括るに相応しい演奏であったと言われているが、このオルフェオ盤は近年になってようやく発売された正規音源である。

 しかしながら、例えば終楽章「告別」の開始すぐのオーボエ・ソロが、どう聴いても相当不安定な演奏になっているのだ。まさかとは思うが、一般には楽譜を追いきれなかったときに起きるような危うい演奏ぶりであり、さすがに破綻寸前で何とか踏みとどまってはいるものの、当時のウィーン・フィルがまだマーラー演奏に全く馴染んでいなかったことが見て取れる珍しい一端であろう。そのくらい、マーラーは生誕100周年以前には、ほとんど忘れられた作曲家に過ぎなかったのである。

 メゾ・ソプラノのレッセル=マイダンは、どちらかというとアルトに近い声域に聴こえてくる場面もあるが、それよりもクーベリックの指揮する方向性とは微妙にずれていて、丁寧さと粗っぽさが同居しているようなところが垣間見られる歌唱である。それが結果的に意外な緊張感を生み出しているのは、さすがと言えばさすがだが、ミスマッチと言えなくもないだろう。

 1959年と言う時期を加味すれば、それなりに優秀な演奏記録であると思われるが、後年1970年の演奏と比べると、見劣りがするのは仕方がないと言えるだろう。しかし、とてもありがたいことに、テノールのクメントが両方の録音で歌っており、このお陰でクーベリックの成長と解釈の変化をかなり詳細に見比べることができるのは、この1959年ライヴ録音が世に出たおかげであり、クーベリックを追う者にとっては、とても貴重な演奏記録であると思う。

 

■ 1970年2月、ミュンヘンでのライヴ録音

 

 ここでのクーベリックは、明らかに「大地の歌」を管弦楽伴奏付きの歌曲集と捉えており、オーケストラが主役となって雄弁に語りかけて大いに活躍するような手法を取らずに、優れた歌い手の歌唱をできるだけ邪魔しないように、かつ歌手に寄り添うように指揮しているように思える。もちろん、例えば全体的に低弦の迫力が他の録音以上にはっきりと感じ取れる部分であるとか、両翼配置のヴァイオリンパートの掛け合いをかなり強調したりしているように、オーケストラも主張はきちんとしているものの、少なくともオーケストラが主役ではない演奏であると言えるだろう。

 そしてこれは、クーベリックが「大地の歌」を、ドイツ・グラモフォンで行った「マーラー交響曲全集」に組み込まなかったことの主因でもあるだろう。そんなことがはっきりと理解できる演奏となっている。オーケストラの配置は前述の通りヴァイオリン両翼配置で、曲全体を通じて耳に心地良い立体感が感じ取れ、当時としてもかなり優れたライヴ録音であるように思う。

 メゾ・ソプラノにはマーラー歌手として名高いジャネット・ベイカーを配している。ベイカーは1962年にクレンペラー指揮の「復活」で大成功を収めて以後、多くの名指揮者の下で「復活」を歌っている。ベイカーは劇的な力強さと、抒情的で親密な表現に長けていると言われるが、ここでも洞察力に富んだ優れた歌唱を聴かせていると言っていいだろう。なお、ベイカーの「大地の歌」の正規録音には、1975年にハイティンクと録音したディスクがある。

 第2楽章「秋に寂しき者」における非常に丁寧で美しい歌唱や、第4楽章「美について」における表情豊かでとても細やかな歌唱、第6楽章「告別」での深い洞察力を前提とした含蓄溢れた歌唱力を披露するなど、ベイカーの歌手としての能力を如何なく発揮した名演奏と言えるだろう。

 

■ 両方の録音で歌っているクメントについて

 

 テノールの担当する3つの楽章は、いずれもそれほど長くはないのだが、第1楽章「大地の哀愁を歌う酒の歌」と第5楽章「春に酔える者」は、かなりドラマティックな劇的な楽章であるのに対して、第3楽章「青春について」は、一転してとてもリリックな抒情的楽章であるために、一人の歌手で歌い分けるのはかなり難しく、このことが録音の多さのわりに名盤が少ないと言われている一因ではないだろうか。

 そんなテノールを、1959年録音と1970年録音のいずれも、ヴァルデマール・クメントが担当している。彼は、クーベリックとの共演も多く、1970年のバイエルン放送局制作の映像では第9のソリストも務めている。第9と言えば、クレンペラーの全集や、カラヤンのDG最初の全集でも、クメントは確か第9のソリストを務めていたように記憶している。また、「大地の歌」では、カルロス・クライバー唯一の録音である1967年の録音で歌っていることを、どうしても思い起こさせる。まさに当時引っ張りだこのテノール歌手の一人であったと言えるだろう。

 確かに、クメントの端正な歌声は、テノールにしては意外なほど重みがあり、聴き手に対し歌い手の含蓄を感じさせ、かつ渋めの歌声でもあり、それでいて非常に格調高い美声の持ち主であるので、この「大地の歌」を歌い分ける歌手として、適材適所であると言えるだろう。個人的には第1楽章における、十分にドラマティックでありながら、同時に老境の哀愁が漂うような深い表現に、強く惹かれている。

 なお、クメントの歌唱であるが、第1楽章、第3楽章、第5楽章いずれも、1959年録音よりも後年の録音である1970年録音の方が、むしろ若干速めのテンポで歌われていることについて指摘しておきたい。実は、クメントの歌唱に限ると、古い1959年録音の方が優れていると思われてならない。1970年録音は年齢も加わってか、高音域の伸びが少々足りず、そのためもあってか時折一本調子に陥っている単調な表現が垣間見られるように見受ける。常に歌手に寄り添う指揮を見せているクーベリックが、そんな名歌手クメントをカバーするように、多少早めのテンポを取ったように思えてならないのである。

(2022年12月1日記す)

 

An die MusikクラシックCD試聴記 文:松本武巳さん 2022年12月1日掲載