マルティヌー作曲《ピエロ・デラ・フランチェスカのフレスコ》を聴く

文:松本武巳さん

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CDジャケット

ラファエル・クーベリック指揮
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1956年8月26日、ザルツブルク祝祭大劇場
(ザルツブルク音楽祭「オーケストラ・コンサート7」における、初演時ライヴ録音)
ORFEO(輸入盤C 521 991 B)

CDジャケット

ラファエル・クーベリック指揮
ロイヤルフィルハーモニー管弦楽団
録音:1958年4月
EMI(輸入盤CZS 5 68223 2)

テープ

参考盤1
エルネスト・アンセルメ指揮
スイスロマンド管弦楽団
ディスク番号等不詳(ご厚意で提供を受けたテープを視聴)

CDジャケット

参考盤2
カレル・アンチェル指揮
チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1959年1月
チェコSUPRAPHON(輸入盤SU3684)

CDジャケット

参考盤3
ヴラディミール・ヴァーレク指揮
プラハ放送交響楽団
録音:1993年
チェコPRAGA(輸入盤)

CDジャケット

参考盤4
サー・チャールズ・マッケラス指揮
チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
チェコSUPRAPHON(輸入盤SU3276)

 

■ 今回の執筆の動機

 

 実は、前稿の「タラス・ブーリバ」を書いている際に、クーベリックの旧録音(1958年4月)が1980年になって発売されたこと、そして、その録音は、マルティヌーの当曲(こちらは結局LPでの発売は一度もされなかった)と一緒にセッションが組まれながら、両方ともにお蔵入りしていたことに興味を覚えたことが動機となっている。

 

■ マルティヌーの簡単な紹介

 

 マルティヌーは1890年にチェコのブルノ近郊で生まれた。元来はイタリア移民の家系である。プラハのアカデミーで学ぶが、成績不良で中退する。チェコフィルの第2ヴァイオリン奏者を務めた後、1923年パリに出た。当時は時折チェコに戻ることもあったが、1938年のミュンヘン協定以後は、結果的に故郷に戻ることなく人生を終えた。第2次大戦中にアメリカに渡航し、1953年ヨーロッパへ戻ったマルティヌーは、1954年春のイタリア旅行中に、トスカーナ地方アレッツォのサン・フランチェスコ聖堂内で、ピエロ・デラ・フランチェスカ(1415頃〜92)の描いた十字架伝説画の数々を見て深く感動し、1955年2月から4月にかけフランスのニースで、この曲を一気に作曲した。現代には珍しい多作家であったマルティヌーは1959年に没した。

 初演は翌1956年8月26日、ラファエル・クーベリック指揮ウィーン・フィルにより、ザルツブルク音楽祭において行われた。今回紹介するオルフェオのディスクは当日のライヴ録音である。ピアノを除いてハープを入れ、8つの打楽器を用いた4管編成で作曲されている。なお、この作品は、初演者のラファエル・クーベリックに献呈されている。

 

■ 楽曲のごく簡単な紹介

 

 3つの楽章から構成されており、全曲通して約20分の演奏時間である。第1楽章は、叡智と富のソロモン王に貢物を捧げるシバの女王と従者たちの絵による。第2楽章は、天に描かれた十字架を夢に見て、宿敵マクセンティウスを倒したコンスタンチヌス1世の絵による。第3楽章は、フレスコ画全体から得た印象を綴っている。全曲を通じて、弦のトレモロが非常に効果的に使われている。管楽器の使い方も含めて、現代の作品ではあるが、非常に宗教色の強いテーマを扱っていることもあってか、甘美な美しい旋律が全編を支配しており、とても聴きやすい楽曲であると思われる。いわゆるゲンダイオンガクとは一線を画しており、転調の仕方や、和声上の進行から、近現代の作品であることは自明であるものの、ぜひ一聴をお薦めしたい楽曲である。

 

■ 参考盤ディスクについて

 

 アンセルメの古い録音は、楽曲自体への視点や演奏の視点が、他の盤とかなり異なったアプローチから入っていると思われる。これを、どのように解釈するかで、録音の評価が割れると思われる。個人的には、余り好みの演奏では無かったが、無価値なアプローチであるとは決して思っていない。なお、当該ディスクの感想は、提供を受けたテープによる感想であることを、予めお断りしておく。

 次にアンチェルの録音は、当時のクーベリックと連絡を取り合える環境に無かったにも関わらず、アプローチにおいて共通するものを感じてならない。この録音を聴けば聴くほど、クーベリックとチェコフィルで聴きたかった、との無いものねだりの気持ちが強くなってくる。このように書くと、アンチェルもクーベリックもチェコ人だからとの共通認識を持たれるであろうが、実際のところ、二人の共通項は、指揮者としての現代的な視点が似ているのであって、その意思を伝えるべきオーケストラの理解能力と指揮者の意思に対する処理能力の差が、表れているに過ぎない。それ故、なおさらクーベリックとチェコフィルで聴きたかったとの思いが募るのである。

 ヴァーレク指揮の演奏は、私には彼らの視点が若干定まっていないように見受けられた。悪い演奏では無いのだが、指揮者もオーケストラも、当該作品への共感を抱いていないか、または共感した感じ方に齟齬があったかのどちらかであるように思える。

 マッケラスからも似たような印象を受けるのだが、細部のまとめが上手いせいなのか、破綻したりしていない上に、一定の聴後の満足感も感じ取れるのだが、演奏を聴いて感動できないし得心もできないのが、私の正直な感想である。何かが違っているか、何かの掛け違えがあるのか、それは分からない。前述のヴァーレクの場合は、齟齬の部分が何となく見えてくるのだが、マッケラスからは自身が感動できない原因が見えてこない。そのため、互いの感性の違いだと割り切れない、非常にこだわりたくなってしまうものがあるのだ。それはそれで、マッケラスが一流であることの証かも知れないのだが、実にもどかしいものが残ってしまう。そしてそれに拍車をかけているのが、録音の不明晰さである。ほとんど演奏同様もどかしいこと限りない、霞がかかったような雲に覆われたような録音である。なおさら、演奏自体のもどかしさを助長しているように思えてならない。

 

■ 最後にクーベリックの2枚について

 

 実は、初演の際の熱気溢れる雰囲気が、スタジオ録音盤からは全く感じ取れず、両者が同じ指揮者による演奏・録音とは一見信じられないくらい、異なった演奏姿勢となっているが、細部の処理等を聴き比べると、同じ指揮者の演奏であることも確かに認めざるを得ない。クーベリックは、スタジオ録音の際には、多分に教科書を執筆するような使命感を持ちつつ、録音セッションに臨んでいたと思われるのだが、このこと自体は個人として高く評価している。古典的な著名な楽曲の演奏スタイルとしては、ライヴ中心の録音姿勢よりも高く評価したいと考えている。

 しかし、今回のような新作に関して言えば、演奏に理屈抜きの高揚感とかが必須であるように思えてならない。スタジオ録音から感じる隔靴掻痒たる苛立ちは、ライヴ録音からは全く感じ取れず、結果的にスタジオ録音がお蔵入りしたことは、正解であったのかも知れないと思ってしまった。そもそも、初演とか未知の作品の紹介とかは、本質的にライヴ向きで、スタジオでじっくりと取り組む性質のものとは異なるのかも知れないと思う。演奏とは、本当に難しいものだと痛感した次第である。

(2009年5月15日記す)

 

An die MusikクラシックCD試聴記 2009年5月19日掲載