「私のモーツァルト」
私のモーツァルト:過去、現在、未来

文:ゆきのじょうさん

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■ はじめに

 

 今回の伊東さんから与えられた「私のモーツァルト」というお題はとても深いと感じ入りました。「私と」でもなく「私にとっての」でもない、「私の」というタイトルから、今回は私自身の体験と、モーツァルトとの関わりを、この機会に書きつづりたいと思います。取りあげるディスクのジャンルはバラバラで、内容もバラバラですが、縦糸は個人的雑感ですのでご容赦いただきたいと思います。

 

■ 過去 その1 聴き手としての私のモーツァルト

 

  私が中学生になったとき、父は趣味が高じて脱サラをし、ジャズピアニストになっていました。私は反抗期ならではの、お決まりの展開でピアノもジャズも、その世界に踏み入れることなく、クラシック音楽に熱中していきました。そんな私に父が友人からダビングしてもらったということで、一本のカセットテープをくれました。そこにはモーツァルトの交響曲が三曲、ハフナー、40番、ジュピターが収録されていました。この3曲の原体験がこの演奏であったと言って過言ではありません。しかしもらったカセットテープには重大な問題がありました。演奏者が誰か書いていなかったのです。なんとなく父にも聞くこともできず、でも気になって仕方がありません。特に、おお、と思ったのは第40番の終楽章です。指揮者が興奮してきたのか、「うん、うん」と呻いている声が入っています。ライブなのかとも思いましたが、拍手もなく観客ノイズもありません。一体誰が演奏しているのか、ますます気になってきました。

 そんな中、1976年に音楽之友社から『音楽の友デラックス 別冊ディスコグラフィック・カタログ』が出ました。第1巻はモーツァルトでした。これは序文によれば「1976年9月までに国内で市販された30cmLPレコードの中から、モーツァルトに関するすべてのレコード化作品を選び出し、作曲家の生涯の中に、成立年代順に従って配列したもの」で「レコードによる、作曲家の肖像を描き出すことが、いわば1つの編集意図になっている」という当時としては壮大な本でした。ネット検索などができない時代です。私はこれを辞書として紐解いていました。

 そこには各曲のレコードの多くが演奏時間とともに列挙されていたので、私はカセットテープから楽章毎の時間を計測して当てはめてみることにしました。ところが、演奏時間で一致するものはありませんでした。演奏時間が未記入のもので、35番、40番、41番を録音しているもの、そして今まで聴いた演奏以外、という条件でヒットしたものは、ヨーゼフ・クリップス指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管のものでした。FM放送でやらないかと心待ちにしたり、リクエストをしたりしましたが、聴くチャンスはありませんでした。

 大学時代になって、なけなしのお金をはたいて輸入レコード店でクリップス指揮による後期交響曲全集のボックス盤を購入しました。胸をときめかせてレコード針を落としてみたところ・・・何とまったくの別演奏でした。私はいたく落胆しました。クリップス盤自体はとても良い演奏で気に入り、その後中期交響曲全集も買い求め今なお所有していますが、求めていた演奏ではなかったのです。その後は探し求めることもせずに過ごしていたところ、ある日のFM放送で流れた《ジュピター》を耳にして「もしかするとこれではないか?」と思うものに出会いました。国内盤を購入して聴いてみたところ、第40番の第4楽章で確かにうなり声が入っていて、カセットテープと同一音源と分かりました。それがこの演奏です(紹介ディスクは買い直した輸入盤)。

CDジャケット

モーツァルト
交響曲第35番「ハフナー」
交響曲第40番
交響曲第41番「ジュピター」
ジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団
録音:1963年10月11、25日(ハフナー、ジュピター)、1967年8月25日(40番)
欧州Sony Essential Classics (輸入盤 SBK89834)

 第40番第1楽章でのセルが実現した奇跡のようなゆらめきは伊東さんが既に触れられている通りです。ハフナーでの疾風怒濤のような演奏も、ジュピターの堅牢壮大な終楽章も見事で、私にとっての愛聴盤です。

 

■ 過去 その2 弾き手としての私のモーツァルト

 

  大学に行って、私は大学オケに入りました。大学オケと言っても新設大学であったため弦楽オーケストラ程度の10人前後の団体でした。団長の伝手で来てもらったトレーナーは厳しい人でよくしごかれ、叱られました。後年、チェリビダッケというしごく指揮者が有名になりましたが、あの時代にチェリビダッケが知られていたら、和製チェリなどと言われたでしょう。練習の教材として使われたのはモーツァルトのセレナード第13番ト長調「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」 K.525と決まっていました。トレーナー氏曰く「アイネ・クライネ」を練習すれば基本的なすべての発想法を修得できる。」それこそ暗譜するくらい、何回も弾かされて、私たちはすっかりこの曲が嫌いになりました。今はそんな「トラウマ」はありませんが、未だこの曲の決定的名演奏には出会ったことはありません。

 さて、大学オケの定期演奏会では、同じモーツァルトの弦楽合奏曲を取りあげたこともありました。それがこの曲です。

CDジャケット

モーツァルト
ディヴェルティメント K.136、K.137、K.138
ヘルベルト・ブロムシュテット指揮シュターツカペレ・ドレスデン
録音:1973〜77年、ドレスデン ルカ教会
BERLIN Classics(輸入盤 0011882BC)

 既にこの名盤については、伊東さんが取りあげていらっしゃいます。
弦楽合奏曲というよりは弦楽四重奏曲であったかもしれませんが、私自身はこの三曲は弦楽合奏、それもモダン楽器で聴きたいと思います。最初のK.136は、やはり脳天気なくらいのあっけらかんとした曲です。音楽はこれくらい明るくなければ、というくらい明るいです。第3楽章では私が担当する第二ヴァイオリンは細かいパッセージを懸命に弾かなくてはならないのですが、第一ヴァイオリンが受け持っている主旋律はテンポが速くなりやすく、「セカンド殺し」と呼んでいました。K.137は通常とは異なる緩−急−急の構成で、ちょっと斜に構えた曲調です。演奏するのも一番難しかった記憶があります。K.138は出だしが「ジャン・ケン・ポン」「あーいこでしょ」と言っているようだと話していました。K.136に匹敵する明るさですが、更に気品があるように思いました。この第2楽章を弾くことが一番気に入っていました。第3楽章は本来なら豪華絢爛に表現するべきなのでしょうが、技術がついていきませんでした。

 ブロムシュテット盤は、プロだから勿論なのですが、私が四苦八苦して弾いていたところも唖然とするくらいにあっさりと弾いてしまいます。また三曲の描き分けも嫌みなく行っていて、こんなふうに弾けたら気持ちが良いだろうといつも思います。

 

■ 現在

CDジャケット  私が最近よく聴いているモーツァルトのディスクを挙げることにします。

モーツァルト
ヴァイオリン協奏曲全集
ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲 K.364
レジス・パスキエ ヴァイオリン
ブルーノ・パスキエ ヴィオラ
ピエール・バルトロメー指揮リュージュ・フィルハーモニー
録音:1994年1月、1996年7月、1998年6月、リュージュ
仏naive(輸入盤 V 1002

 モーツァルトに求められるものの一つは、屈託のない、愉悦感や華美さなのかもしれないと考えています。そしてそれを嫌味なく表現するのは、このディスクのようなフランスの演奏家達かもしれないとも。ここでのパスキエの演奏は小粋な節回しもあって、お気に入りの一枚です。

 

■ 私のモーツァルトの未来

CDジャケット

ハイドン-モーツァルト ピアノのための作品集 第1集 《暁から天頂まで》
ハイドン:ピアノ・ソナタ第11番 変ロ長調 Hob.XVI:2 (1760年頃)
モーツァルト:ピアノ・ソナタ第4番 変ホ長調 K.282(1774年)
モーツァルト:ピアノ・ソナタ第17番 変ロ長調 K.570(1789年)
ハイドン:ピアノ・ソナタ第59番 変ホ長調 Hob.XVI:49(1789-90年)
ピアノ:クレール=マリ・ル・ゲ
録音:2004年9月27日〜30日、サル・アクスティカ、パリ
Accord(輸入盤 4769154)

 同時代を生きたハイドンと、モーツァルトのピアノ・ソナタを対比させるという凝った内容のプログラムです。各々初期と後期から1曲ずつ。作曲年代順に並べて、なおかつ調性は交差するようになっています。

 これはマルク・ヴィニャル氏のプロデュースによるもので、氏は解説で変ロ長調を「明晰な調性」、変ホ長調を「力強く、なおかつ包み込むようなソフトな調性」と書いています。この同じ調性の曲を二人の作曲家がどのようにソナタを創造したのかを対比する試みということで、「ミラー・ゲーム」と呼んでいます。この種の企画は弦楽四重奏では過去にもあったがピアノ・ソナタではなかったとも記しています。

 クレール=マリ・ル・ゲというピアニストは、今回初めて聴きました。解説書の末尾に過去のディスクの一覧がありますが、シューマン、リスト、ラヴェル、ストラヴィンスキー、バルトーク、さらにはエスケッシュという現代作曲家などが挙がっていて、技巧を駆使してバリバリ弾いていくタイプなのかと勝手に想像してしまいます。しかしこのディスクでは技巧を前面に誇示することはなく、テンポも息が詰まるようなこともありません。音の粒は揃っていて美しく輝いています。だからといって淡々と弾いているわけでもありません。ハイドンはまるで硬い土に刻むように音が直立し、弾けて並んでいきます。一方、モーツァルトは、柔らかい苔が生えている所に澄み渡るように深く響きます。構成についても1曲目のハイドンから2曲目のモーツァルトへは、まるで一つの曲のようにすぐさま続くのに対して、最後のハイドンへは十分に間をとっているなど、曲間にも意思が透徹しています。素晴らしい完成度をもった一枚だと思います。モーツァルトを時代の関係性から見ようという方向性は、私に新しいモーツァルトのとらえ方を教えてくれました。なお、このディスクは第1集ですが、ソナタ集ではなく「作品集」となっています。しかも今回のタイトルは《暁から天頂まで》となっています。今後どのような企画、タイトルで続編がでるのか、これからの楽しみとなりました。

 余談ですが、世に「ジャケ買い」という言葉があります。ジャケットデザインを主たる動機としてディスクを買うという行為を指すと思います。私が新盤を買う場合はむしろ「ジャケ買わない」という動機が大きく働きます。(これはあくまでも個人的なポリシーなので、他の人が為していることを批判する意図はないことをお断りしておきますが)アーティストが大写しのジャケットは多くの場合は食指が動きません。それが美人の女性アーティストとなると尚更手が伸びません。視覚から入ったイメージが音楽を聴いていると邪魔になるからです。そんな私が初めて手を伸ばした美人アーティストのジャケットのあるディスクが、このモーツァルトの一枚であったことを付記します。

 

(2006年6月13日、An die MusikクラシックCD試聴記)