「この音を聴いてくれ!」
番外編 私が聴いているのは何?
■ ドラティ指揮デトロイト響による「火の鳥」
文:伊東青木さんが言及されたように、ドラティ指揮デトロイト響による「火の鳥」(MERCURY)について、「200CD クラシックの名録音」(田中成和 船木文宏編、立風書房)には以下のような記述がある。
ロンドン録音の《火の鳥》は、オーケストラがポディウム(指揮台)からのパースペクティブで現れる。フィナーレの爆発するffもさることながら、序奏部の、録音では滅多にない本物のppは驚異的だ。気味悪いほどの実在感で楽器群が浮かび上がり、そのはるか後方にステージ後壁面が見える。
(嶋護さん、p.178)
私はMERCURYの熱烈なファンで、このレーベルのCDを偏愛している。しかし、私はこの録音を聴いて、筆者の嶋さんのように聞こえたことは一度もない。「オーケストラがポディウム(指揮台)からのパースペクティブで現れる」あるいは「気味悪いほどの実在感で楽器群が浮かび上がり、そのはるか後方にステージ後壁面が見える」という言葉を読むと、私の部屋では満足にこのCDが再生されていないのだと嘆かざるを得ない。私は引っ越し後、リスニング環境を少しは改善したと思っているが、オーディオの専門家から言わせれば、劣悪な音を聴いているのかもしれない。
MERCURYの熱烈な支持者であるにもかかわらず、そのCDを満足に再生できていないのは悔しい。もしかしたら、リスニング環境を劇的に変化させれば、新たな地平を見ることができるのかもしれない。が、私はこれ以上のお金をオーディオにつぎ込んでも得られるものがさほどあるとは思えないので、どうしてもここからの一歩を踏み出せない。
しかし、ドラティの「火の鳥」なら、私の部屋でもすばらしい響きを聴かせるCDがある。ドラティがMERCURY録音から13年を経て録音した82年のDECCA盤である(左写真)。当時、ドラティはストラヴィンスキーのバレエ音楽を立て続けに録音していた。私が所有するのは、「春の祭典」及び「ペトルーシュカ」も収録した2枚組輸入盤である。
ストラヴィンスキー
バレエ「火の鳥」(全曲版)
アンタル・ドラティ指揮デトロイト交響楽団
録音:1982年10月、デトロイト
プロデューサー:ポール・マイヤース
エンジニア:ジョン・ダンカーリー
DECCA(輸入盤 421 079-2)このDECCA盤は、それこそ「気味悪いほどの実在感で楽器群が浮かび上が」る。「ステージ後壁面が見える」というイメージを私は未だに自分の感覚としてとらえることができないが、楽器の音色がこれほどリアルに再現できる録音を私はそれほど多くは知らない。オーケストラ録音が美しすぎるために、この録音を聴くと、「現実の音もこう聞こえるのだろうか?」などと懐疑的になってしまうほどである。
MERCURY録音で聴く「火の鳥」は完全に再生できていならしいのに、同じ再生装置でDECCA録音の「火の鳥」がすばらしく聞こえるのは不思議である。オーディオは何がなんだか分からない。
■ 私が聴いているのは何なのか?
ところで、録音とはいったい何なのであろうか。
私はDECCA録音をMERCURY録音ともども偏愛している。ある意味では「音」そのものを楽しめるからだ。私の部屋では苦労せずしてDECCA録音が実によく鳴る。高級オーディオでなくても十分再生できるようにしてあるのではないかと思う。
しかし、気になることもある。DECCA録音を聴いていると、現実のコンサート以上の音がしているのではないかと思うことがたびたびあるのだ。コンセルトヘボウ管との録音でも、「あのホールの響きを十分に再現している」と感じるのを通り越して、これは「オケやホールの音を聴いているのではなくて、DECCAの音を聴いているのではないか?」と考え込むことがある。
上記ドラティのDECCA録音も、録音を担当したジョン・ダンカーリーが作った音を聴いているように思われることが多々ある(皆さんはそんなことを思ったことはありませんか?) 録音エンジニアの及ぼす影響はいったいどれだけあるのだろうか? 私の予想を超えているかもしれない。
「音」自体も含めて「音楽」だし、CDとは、その音を円盤に詰め込んだものだ。CDが商品として売られる以上、ある程度の音の加工はあり得るだろう。そう考えると、録音というものは技術が生んだ果実とも言えるし、音楽を本来の姿と違った形で再現してしまうある種の毒なのではないかとさえ言えそうだ。私が聴いているものはいったい何なのか? そんな疑問が私の頭から離れない。
(2004年4月12日、An die MusikクラシックCD試聴記)