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アントニオ・ヴィヴァルディ 協奏曲集「四季」(協奏曲集『和声と創意への試み』作品8から)
イ・ムジチ合奏団
(1)フェリックス・アーヨ(1955年7月、モノラル)
(2)フェリックス・アーヨ(1959年4〜5月、ステレオ)
(3)ロベルト・ミケルッチ(1969年9月、ステレオ)
(4)ピーナ・カルミレッリ(1982年7月、デジタル)
(5)フェデリーコ・アゴスティーニ(1988年7月、デジタル)
(6)マリアーナ・シルブ(1995年8月、デジタル) 野入志津子(リュート)(6)
フランチェスコ・ブッカレッラ(チェンバロ)(6)
録音:(1)アムステルダム、(2)ウィーン、(3-6)スイス
DECCA(国内盤UCCD-4826)※2013年10月、国内独自企画盤
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■ レコード会社本体による企画盤
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今から5年前に、いつか誰かが企画しそうな内容のディスクが、本当に実現して発売された。伝説の売り上げを記録した1959年のアーヨ盤を含む、イ・ムジチがPHILIPSにスタジオ録音した全6種類の、「四季」の聴き比べ盤である。国内限定の独自企画として発売された。つい思わず、懐かしさに誘われて購入した方も多いのではないだろうか。
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■ 戦後生まれの誰もが、自身の成長と重ねた思いを馳せるようなディスク群
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アーヨのステレオ盤が、この曲の人気に火をつけたのは間違いないだろう。とすると、戦後生まれにとっては、自身の成長と重なるディスクでもあるのだろう。私自身は、このステレオ盤が録音された直後の生まれなので、自身が四季を聴き始めたころには、すでにミケルッチ盤も最新録音盤として聴くことができたのである。しかし、見開きの豪華なジャケットに、全曲のスコア付きのレコードは、ほとんど立派な宝物のように思え、本当に何度も何度も繰り返し聴いたものである。 |
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■ すでに6種類を比較した評論や講演はあるのだが
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完全な二番煎じであるとは思うのだが、それでもこの企画盤への郷愁は私にとっても強く、若干の小文を記したいと考えたのである。どちらかというと、自身の成長過程におけるレコードの捉え方の変化やレコード業界の変化に内容が傾斜しており、通常の演奏自体の評論とは多少異なる視点となっていることを予めお断りしておきたい。 |
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■ 1955年アーヨ盤
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私自身は、このイ・ムジチ最初の録音盤は、フォンタナの廉価盤LPで1980年頃になってから、ようやく手に入れたディスクである。実は、私も子どものころは「ステレオ」という言葉の響きに踊らされていて、このモノラル録音にはなかなか目を向けることが無かったのである。実際には、録音の存在自体もかなり後になってから知った次第である。従って私の中の「イ・ムジチの四季」の記憶は、完全に順序が入れ違っているのだ。演奏は59年盤とはかなり異なり、むしろ後年のミケルッチ盤に近いところがある。厳しいアタックで曲全体を貫くなど、かなり硬派かつアグレッシヴな演奏であり、とてもきびきびした剛毅な音楽となっている。 |
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■ 1959年アーヨ盤
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この伝説のレコードは、実は私が物心ついたころには、すでに自宅にあったのだ。実に立派な装丁のまるで宝物のようなレコードで、まさに決定盤として長年扱われてきて、楽曲である「ヴィヴァルディの四季」と演奏者である「イ・ムジチ合奏団」は、レコード紹介では順序が逆転して、一般に「イ・ムジチの四季」と呼ばれていたように思う。もちろん、あの当時は標題音楽がとりわけ人気が高く、根拠なく無理やり標題を付けることも盛んだったように思う。「運命・未完成」「ショスタコの革命」あたりはまだまだ可愛いもので、ドヴォルザークの「イギリス」とか、挙句は「短くも美しく燃え」とか「哀愁」とか、曲目ではなく映画のタイトルがディスクの帯に単独で記されていたりしていて、思い出せばキリがない。
カップリングも、工夫というより、明らかに奇を衒ったとしかいいようのないものもけっこう多く、「月光ソナタ」と「月の光」とか、「ジュピター」と「惑星」なんてのもあったし、「ツァラ&ティル」が帯のコピーとなっていたレコードもあった。そういう時代背景とともに重ねてみると、「イ・ムジチの四季」が爆発的な流行となったのも、なんとなく理解できそうな気がしてくる。
演奏内容については、簡単にひとことだけ述べたい。これほどまでロマンティックに歌われていたのかと、久しぶりに当盤を聴いてみて少々驚いたのである。基本的に歴史的名盤と呼ぶべきであろう。
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■ 1969年ミケルッチ盤
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このレコードこそ、私が自力で購入した「ヴィヴァルディの四季」のファースト・チョイスであった。このレコードは、実は今でもけっこう聴くことがある。私にとっての「イ・ムジチの四季」とは、つまるところこのレコードを指すのである。甘ったるさを廃したきびきびした楽曲進行と、厳しくかつ明確なアクセントの付け方などは、今でもそのまま通用するディスクではないかと思う。
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■ 1982年カルミレッリ盤
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デジタル初期の録音で、初出はLPであった。物凄い期待を込めて聴いたことを覚えている。そして拍子抜けをしたこともまた鮮明に覚えている。私には、今までの3種類のディスクの「良いとこ取り」を目指した結果、もっともイージーリスニングに近い、主張の不鮮明な音楽作りに終始してしまったように思えたのだ。ただし、アンサンブルの精緻さは、たぶんこの盤が6種類中でもっとも精緻であると思われる。
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■ 1988年アゴスティーニ盤
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すでに、イ・ムジチの人気は明らかに下火であった。当該ディスクはCDのみで発売されたが、大きな話題を呼ぶには至らなかったと記憶している。この盤からオルガンが参加している。響きの厚みだけで捉えると、この録音が6種類中最も分厚い響きとなっている。
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■ 1995年シルブ盤
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この盤になると、発売された当時の記憶も曖昧模糊としている。なんとなく購入した中の1枚に過ぎない存在であった。オルガンを入れてみたり、リュートを入れてみたり、いろいろと工夫してはいるものの、目立った斬新さはなく、基本線は過去の延長線上にありながら、なんとか新機軸を打ち出そうとしたのであろうが、効果はあまりなかったのではないだろうか。
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■ いま聴き直して思うこと
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音楽の中身以上に、レコードという商品自体の盛衰をそのまま表しているような、そんなレコード録音の歴史とともに歩んだ6種類のディスクのように、今では思うのである。
つまり、モノラル録音が長時間収録になりつつあった1955年のアーヨ盤、ステレオ録音が定着し始めた1959年アーヨのステレオ盤、デジタル録音の最初期である1982年のカルミレッリ盤、これらは録音技術の革新とともに登場したディスクであったのだ。しかし、夥しい新録音が発売されていた1988年のアゴスティーニ盤、平成不況のさなかのシルブ盤などは、残念ながら大きな話題を集めるには至らなかった。
結局のところ、実力のみで売り上げを伸ばしたのは、1969年のミケルッチ盤のみであったようにも思うのである。しかしながら、イ・ムジチの演奏は、実に耳に優しく響いてくる。このような音楽の在り方は、作曲当時の音楽様式等を乗り越えて、楽曲をまったく知らずとも、聴き手の心に安らぎを与え続けてくれる演奏であり、そんなクラシック音楽のありようを定着させた功績は、今後も決して消えることはないであろう。
それどころか1959年アーヨ盤は、クラシックのディスク売り上げにおいて、半世紀を経た現在でも、比較的上位に居続けているのである。最良の意味でのヒーリング・ミュージックとして、同時に極上の意味でのBGMとしても、末永く語り継がれる名演奏と言って差し支えないだろうと思う。そんな風にクラシック音楽の領域を広げた功績は、決して消えることのない「イ・ムジチの四季」は、レコードの歴史上最大の成果であり、これこそがこの名盤への評価であると思うのである。
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(2018年11月28日記す)
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