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■ リヒャルト・シュトラウス アルプス交響曲
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サー・ゲオルク・ショルティ指揮 バイエルン放送交響楽団 録音:1979年9月、ミュンヘン
DECCA (UCCD4702) CD国内盤
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クリスティアン・ティーレマン指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:2011年8月、ザルツブルク祝祭大劇場(ライヴ) Opus Arte (OA1069D) DVD輸入盤
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■ 私にとってのリヒャルト・シュトラウス
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私はなぜか、子どものころからオペラ(とピアノ)が大好きで、オペラ「薔薇の騎士」をザルツブルクで観たい。これが私の子どものころからの勝手な夢であった。そして、何時しか最終ターゲットを、2014年のザルツブルク音楽祭と勝手に決めていた。1864年生まれのリヒャルト・シュトラウスであるので、2014年がザルツブルク音楽祭にとって記念の年になるであろうことは、確かに容易に予想できた。ちなみに私が子どものころは、一般的に55歳が会社や役所の定年であった。そして1959年生まれである私は、2014年8月5日に55歳を迎えるにあたって、まさに勝手に自身の定年を祝うために、2014年8月5日にザルツブルクで「薔薇の騎士」を観ると、子ども心に決めていたのである。
2014年のザルツブルク音楽祭は、確かにリヒャルト・シュトラウス生誕150周年の特集が組まれていた。そしてまさに奇跡としか言いようがないのだが、8月5日にウィーン・フィルによる「薔薇の騎士」公演が実現したのである。確かに「薔薇の騎士」が上演されるであろうことは、十分予想が付いた。しかし音楽祭の期間は1か月以上に及び、その間に「薔薇の騎士」が上演される機会は、多くても5〜6回程度なのである。8月5日に上演がなされたのはまさに偶然である。実に恐ろしい思い込みである。
なお、私はこの自身の夢を叶えるために、2006年に初めてザルツブルクを訪れ、2008年から14年まではなんと毎年音楽祭を訪問していた。そして、この「薔薇の騎士」公演が、私のザルツブルク音楽祭でのちょうど50回目の演目に当たり、かつこの「薔薇の騎士」を最後に、私はザルツブルク音楽祭を卒業したのである。理由なき執念が叶えられたわけなのだが、どういうわけか超高齢化社会が訪れ、私は現在も生活のためにあくせく仕事をさせられている。この事実は遺憾ながらまったく予定外であった。
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■ 私にとってのシュトラウスの管弦楽曲
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一方で、私はリヒャルト・シュトラウスの管弦楽曲が実は苦手であった。もともと、オペラの他は器楽曲や室内楽曲を好んで聴いていた私は、交響曲など管弦楽曲全般が少し苦手ではあった。とはいっても、新ウィーン楽派やストラヴィンスキーなども好んで聴いており、リヒャルト・シュトラウスの管弦楽曲は、オペラと異なり明らかに苦手だったのである。一般に私は標題音楽をやや苦手としており、リヒャルト・シュトラウスの管弦楽曲はまさに避け続けていた音楽なのだった。
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■ ザルツブルク音楽祭でのアルプス交響曲
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2枚目に紹介した、2011年のティーレマンによる「アルプス交響曲」は、実は当日私は会場内で聴いていたのである。ところが、会場全体の大いなる盛り上がりにまるでついていけない私は、満員の祝祭大劇場の中で孤立無援のとても寂しい状態だったのである。よりによって、このDVDには数回、うつむき加減の私が小さめの画像ながらはっきりと映り込んでいて、孤立無援の恐ろしさが際立つまさに私にとって悪夢の思い出なのである。演奏自体は決して悪くなかったように記憶しているのだが、怖くて観ることができないDVDとなってしまった残念なディスクである。
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■ ガルミッシュ=パルテンキルヒェン
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私は、2014年の「薔薇の騎士」に備えて、2011年の「アルプス交響曲」で危機感を持ったことも手伝って、ガルミッシュ=パルテンキルヒェンに行ってみることにし、ついでにドイツ最高峰であるツークシュピッツェにも登ってみることにした。ドイツ鉄道(DB)のガルミッシュ=パルテンキルヒェン駅から、登山鉄道に乗り換えしばらく進み、さらに途中駅からラックレールによる登山鉄道またはロープウェイに乗り換えると、なんとほぼ頂上まで誰でも行くことが出来るのである。
ドイツ鉄道のガルミッシュ=パルテンキルヒェン駅は、ドイツのミュンヘンとオーストリアのインスブルックを結ぶ鉄道路線(ローカル線)の真ん中付近に位置しており、インスブルックから向かうと、保養地として有名なゼーフェルトや、ヴァイオリンの故郷の一つであるミッテンヴァルトを通るため、とても観光に適した路線であると言えるだろう。スキーシーズンだけでなく、夏の避暑地としても栄えていて、著名な国際会議も多く開かれる土地柄であるし、冬季オリンピック開催の経験も持っている町でもある。
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■ ドイツ最高峰ツークシュピッツェ登山
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2012年8月、インスブルックからオーストリア国鉄(ドイツ乗り入れ)でガルミッシュ=パルテンキルヒェンに向かったものの、現地で実は登山鉄道には乗れずに、手前にあるミッテンヴァルトの町に戻り、町を観光して戻るという、まさに調査不足の甘い行動となってしまった。現地に前日から宿泊するか、あるいはミュンヘンから始発列車に乗って向かわない限り、ツークシュピッツェに登り確実に日帰りで戻ることは困難であることを、現地に行くことで初めて知ったのである。ここでは詳細は記さないが、山頂の午後の天候は保証の限りでないこと、頂上に宿泊施設があることも相まって頂上から麓に戻る保証が、予約なしの当日行動では存在していないこと、等々であった。そこで、今度は別の日にミュンヘンから大混雑の始発満員列車に乗り、なんとか念願の頂上まで無事に到達したのである。しかし、当日の天候は午後早い時間から急変し、聞き及んだことが正しいことも知ることになったが、とにもかくにも念願の日帰りでの登頂に成功したのである。
2014年は、「薔薇の騎士」公演を55歳の誕生日に観ることができた記念に、翌8月6日に日帰りでザルツブルクからミュンヘンを経由してガルミッシュ=パルテンキルヒェンの町まで行き、市内のリヒャルト・シュトラウス所縁の場所をいくつか訪れて、ついに夢が叶った思いにどっぷりと浸ることができたのである。まさに至福の1日であった。
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■ ガルミッシュ=パルテンキルヒェンとショルティのアルプス交響曲
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リヒャルト・シュトラウスが、この交響曲を作曲するきっかけとなった子ども時代の登山は、実はどうやら別の山であるようだ。しかし、作曲の地でもあるガルミッシュ=パルテンキルヒェンは、ツークシュピッツェが聳え立つ風光明媚な土地であり、古くからウィンタースポーツのメッカとして知られた町でもあるのだ。少なくともジャケット写真に良く使われるマッターホルンなどとは、明らかに異なる風景が広がるドイツアルプスを指すのである。
ショルティは、晩年にガルミッシュ=パルテンキルヒェンのリヒャルト・シュトラウスの元を訪れ、教えを乞うたことや、追悼の際の演奏を担当したことで知られている。そんなショルティが見たツークシュピッツェは、とにかく登りを急ぎ、登頂後は天候の変化に合わせて行動するといった、ドイツ最高峰のアルプスの山の特質と怖さをもとより知っているだけでなく、ヨーロッパ内陸の気候の急変ぶり(真夏の市街地でも10℃前後まで気温が下がったり、逆に40℃近くまで上昇したり、数年に一度は洪水の被害に遭うなど、日本とは比較にならないほどドラスティックに気候が変化する)への警戒心を、説明抜きに有しているのであろう。
このショルティ指揮のディスクを初めて聴いたとき、前半(登山部分)の恐るべきテンポの速さに辟易とした記憶があり、かなり長い間放置していたディスクである。しかし、2012年に苦労して念願のツークシュピッツェに登頂し、おまけに下山時にたまたま雷雨に遭遇した私は、それ以後理屈を超えてこのディスクに親近感を抱くことになり、愛おしくなってきたのである。演奏自体の瑕疵も少ないし、今の私にとっての「アルプス交響曲」は、理屈抜きにこのディスクなのである。
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■ たぶん2度と訪れることのない彼の地
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私は、念願が叶いザルツブルク音楽祭を卒業したと先ほど書いたが、実は2011年以後に数度にわたり体調を大きく崩し、現在ではほぼテレワークでの仕事となっている。今後私が仮にヨーロッパまで再び旅行できたとしても、このような無計画な体験型の旅行ができることは、残念ながらもはやあり得ないだろう。それ以前に、音楽ホールのような段差が多い場所に行くことも、もはやないであろう。そんな私にとって、「薔薇の騎士」を別とした場合、経験値に基づく最大の愛聴盤として、このディスクは人生の思い出を兼ねて忘れがたいものとなっているのである。
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(2022年7月27日記す)
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