アンネローゼ・シュミットの『ショパン名曲集』3枚を聴く

文:松本武巳さん

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LPジャケット

ショパン名曲集1
バラード第1番作品23,第3番作品47
練習曲作品10-9,10-10,10-12
ポロネーズ第6番作品53「英雄」
マズルカ作品33-4,59-1,63-3,67-4
アンネローゼ・シュミット(ピアノ)
録音:1974年11月、東京・中央区立中央会館
DENON(OX-7024-ND)国内盤LP 

LPジャケット

ショパン名曲集2
バラード第2番作品38,第4番作品52
子守歌作品57
練習曲作品25-7,25-8,25-12
マズルカ作品17-4,30-2,30-4,50-3
アンネローゼ・シュミット(ピアノ)
録音:1976年11月7−8日、東京・日本コロムビア第1スタジオ
DENON(OX-7097-ND)国内盤LP 

LPジャケット

ショパン名曲集3
幻想曲作品49
ポロネーズ第7番作品61「幻想」
ポロネーズ第5番作品44
夜想曲作品62-1,62-2
アンネローゼ・シュミット(ピアノ)
録音:1976年11月21−22日、東京日本コロムビア第1スタジオ
DENON(OX-7170-ND)国内盤LP 

 

■ 名ピアニストアンネローゼ・シュミット

 

 アンネローゼ・シュミット(1936年 - )は、旧東ドイツ、ルターシュタット・ヴィッテンベルク出身のピアニスト。父親はヴィッテンベルク音楽院の院長であった。1955年、ショパン国際ピアノコンクール参加。この回の2位入賞者アシュケナージは1歳違いの1937年生れである。1958年から共産圏以外でも演奏を行い、アメリカも訪れている。日本には1973年を最初に5回来日し、リサイタルや協奏曲演奏の他に、今回紹介するショパンを含めて全部で5枚のディスクを残したが、その後日本では忘れられがちである。1987年ハンス・アイスラー音楽大学ベルリン教授に就任。1990年女性初のハンス・アイスラー音楽大学ベルリン学長に就任。1995年まで務める。2006年健康上の理由で引退した。 

 

■ シュミットの生地について

 

 ルターシュタット・ヴィッテンベルクは、ドイツ連邦共和国ザクセン=アンハルト州の都市。単にヴィッテンベルクとも呼ばれる。現在の都市名は1938年以降で、宗教改革の立役者マルティン・ルターがヴィッテンベルク大学神学部教授として教鞭をとった。同州ルターシュタット・アイスレーベンと共に「ルター都市」を都市名に冠している。現在の人口は約46,000人。エルベ川沿いに位置し、約60km南にはライプツィヒがある。1517年、マルティン・ルターが大学内の聖堂の扉に『95ヶ条の論題』を提示したことが宗教改革の口火となった。ヴィッテンベルクは宗教改革における重要な根拠となった都市である。 

 

■ アンネローゼ・シュミットの名録音紹介

 

 まず、モーツァルトのピアノ協奏曲全集(マズア指揮ドレスデン・フィル)が筆頭に挙げられるだろう。それから、ショパンのピアノ協奏曲第1、第2番(マズア指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団)、さらにDENONの出張録音で、ブラームスのピアノ協奏曲第2番(ケーゲル指揮ドレスデン・フィル)など、多くの協奏曲作品が残っている。ソロ作品としては、シューマンのピアノ作品集成(CD3枚分)も忘れ難い。これらは、ほぼ全て1970年代に集中的に録音されたものである。

 上記の他に、1963年という早い段階に、オトマール・スウィトナーの指揮で、シュターツカペレ・ドレスデンとの共演で、モーツァルトのピアノ協奏曲第15番及び第21番を録音しているが、マズアとの後年の全集が有名なためか、この録音は意外に知られていない隠れた名盤となっているようだ。 

 

■ アンネローゼ・シュミットのショパン録音

 

 上記で紹介したマズアとの協奏曲録音とは別に、日本での来日公演中に、ショパンのソロ作品を合わせて3枚、いずれも名曲集の形でDENONへ録音したものが残されている。1974年と76年の2度の来日中に録音されたもので、いずれもここで紹介するディスクである。ジャケット等を見る限り、DENONは東独の美人ピアニストとして売り出そうとした痕跡が明白である。1974年の1枚はそれなりに売れたようだが、76年の2枚は存在自体あまり知られていないように思える。録音会場も、74年のものは当時東京でピアノリサイタルが頻繁に開催されていた、銀座築地の中央区立中央会館での収録であるが、76年の2枚は東京の日本コロムビア第1スタジオでの収録である。また、シュミットは東独製のピアノを普段好んで使っていたが、日本での録音はすべてスタインウエイのフルコンサートが使われており、その点でも東独での録音とはかなり印象が異なるのは否めない。 

 

■ 1974年録音の『ショパン名曲集1』

 

 日本で非常に人気の高い、バラード第1番と英雄ポロネーズを中心に構成された名曲集である。私は、すでにシュミットの生演奏に接していたので、このLPが無事に目に留まったが、もしも未知のピアニストであったなら、このような寄せ集めの名曲集に手を出すことは無かったようにも思う。このアルバムは、作品番号から判断しても、曲の収録順序から判断しても、単に寄せ集めの名曲集である。その意味では、たとえば「ショパンリサイタル」と言った、曲の選択や配列に演奏者の明確な意図が感じられるレコードとは違うことを、書いておきたい。このことから、日本でのシュミットの販売戦略が見えてくると言わざるを得ないのである。

 この『名曲集1』でのシュミットは、恐ろしいほど素っ気ない直球勝負で、それがかえってショパンの異なった魅力を引き出しているようにも見受けられ、聴いた直後の印象は決して悪くなかったことを覚えている。あえて言うなら、バックハウスが戦後DECCAに録音したショパン作品集に近い感覚を持ったのである。実際、次の来日時に続編が出ることを期待して待っていたのである。 

 

■ 1976年録音の『ショパン名曲集2』

帯

 それなりに待望していた続編の録音が発売されたとき、私は日本特有の「オビ」に書かれているキャッチコピーに絶句した。写真では見づらいかも知れないが、右側に縦に『容姿の美しさがそのまま演奏の美しさとなってショパンの音楽を優雅にいろどる。』と書かれているのだ。本格的にピアノに取り組んでいた当時の私にとって、レコードはまさに聴くためのものに過ぎなかったので、普段は購入したら即刻「オビ」などは破棄してしまう質であった。大事にディスクをコレクションするようになったのは、ピアノを弾くことを中断して以後のことである。にもかかわらず、この「オビ」に書かれたキャッチコピーはあまりの衝撃からか、破棄を免れ保存されたのである。

 この『名曲集2』の存在価値は、『名曲集1』と合わせると、4曲のバラードが全曲揃うことに尽きる。その他は、明らかな寄せ集め録音集でしかないと思わざるを得ないのである。本人の意思だけで録音し、発売を許諾したものでは多分ないだろうと想像する。当時の東ドイツの音楽家たちは、国家の外貨稼ぎに協力する代わりに、海外での演奏活動を許されたそんな一環であったのだろうと思う他はない。まさに残念な名曲集であった。 

 

■ 1976年録音の『ショパン名曲集3』

 

 こちらは、同じ1976年の来日時に録音された最後の名曲集にあたる。そして、ここで初めて一定のアルバム制作目的が見えてくる内容となっているのだ。表面には幻想曲と幻想ポロネーズを置き、裏面冒頭は大作ポロネーズ第5番を配しているのだ。『名曲集1』で英雄ポロネーズ(第6番)の録音を残しているので、ポロネーズは最も重要な3曲が揃ったことになる。

 ここでのシュミットは、決して幻想性などには見向きもせず、大規模かつ晦渋な作品を彼女なりの素っ気ないほどのストレートな表現で弾き切ることで、かえって幻想曲と幻想ポロネーズの魅力を引き出していると言えるだろう。かつ、裏面冒頭のポロネーズ第5番と構成面における整合性も見せており、実はアルバムとして捉えてみても十分に聴き応えするのである。シュミットの本領を垣間見せたアルバムであるだけでなく、今後への期待を膨らませる充実した内容であった。 

 

■ その後のアンネローゼ・シュミットの活動

 

 ところが、これを最後に新しい録音は途絶えた。また、本国における録音も、モーツァルトの協奏曲全集が時を同じくして完成し、同様に新しい録音はほぼ潰えてしまったのである。彼女の経歴と残した録音履歴から類推するなら、音楽教育を活動の中心に移したものと想像される。父親も音楽院の教育者であったこと、彼女の録音歴にベートーヴェンがほとんど出てこないこと(最も著名な彼女のベートーヴェン録音は、間違いなく「エリーゼのために」である)等からも、そのように想像される。

 一般に、著名な演奏家が、音楽大学や音楽院の重鎮を兼ねている国と、演奏家と教育者を基本的に切り離している国が存在する。各国の教育システムをここで鳥瞰するつもりはないが、ドイツは基本的に後者に該当する国であると言えるだろう。また、この頃、ショパン国際ピアノコンクールの審査員を務めたこともある。音楽大学の学長を降りてから多少時を経て、演奏活動にも終止符を打ったことを重ね合わせると、演奏活動は徐々に制限が加わっていったものと想像される。

 それにしても、シュミットが本領を発揮した『ショパン名曲集3』は、売れ行きが芳しくなかったと聞いている。1970年代の日本では、まだ幻想曲作品49も、幻想ポロネーズ作品61も一般のファンには晦渋な曲であり、ましてやポロネーズ第5番をセットにしたこの『名曲集3』は、セールスの対象を誤ったとしか言いようがない。この内容であるならば、明らかに音大生をターゲットにすべきであったと思わざるを得ない。しかし、東独の美人ピアニストとしての売込み戦略では、ちょうどその当時はポリーニやアルゲリッチの初来日直後であり、一方でアシュケナージが足繁く来日を重ねていたことを考えると、音大生の興味を惹くには、残念ながら勝負にならなかったであろうと思う。『ショパン名曲集3』だけでも、再び陽の目をみることはないのであろうか。このまま忘れ去るには余りにもったいない録音である。

 

(2020年5月26日記す)

 

2020年5月26日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記