ブロムシュテットとシノーポリの「第9ライヴ」を聴き比べる
文:松本武巳さん
ベートーヴェン
交響曲第9番作品125
エディット・ヴィーンス(ソプラノ)
ウテ・ワルター(アルト)
ライナー・ゴルトベルク(テノール)
カール・ハインツ・シュトゥリチェク(バス)
ヘルベルト・ブロムシュテット指揮シュターツカペレ・ドレスデン
ドレスデン国立歌劇場合唱団
録音:1985年3月30,31日(ドレスデン・ゼンパーオパー、ライヴ)
Profil(輸入盤CD PH11009)ベートーヴェン
交響曲第9番作品125
ソルヴェイグ・クリンゲルボルン(ソプラノ)
フェリシティ・パーマー(アルト)
トマス・モーザー(テノール)
アラン・タイタス(バス)
ジュゼッペ・シノーポリ指揮シュターツカペレ・ドレスデン
ドレスデン国立歌劇場合唱団
録音:1996年4月(ドレスデン・ゼンパーオパー、ライヴ)
DG(輸入盤453 423-2)■ 悩んだ末の試聴記を書くことにしよう
今回は、ともにカペレの歴史的なライヴ録音2点、いずれもゼンパーオパーでのライヴで、曲目はベートーヴェンの第9である。1985年3月のブロムシュテットによるゼンパーオパー再建記念ライヴと、11年後の1996年4月に同会場で行われたライヴ収録である、シノーポリによる強い批判を浴びることの多い音源である。
前者を絶賛する聴き手の代表格として伊東さんが指折られ、後者に強い批判を浴びせる聴き手の代表格もまた伊東さんである。そんなホームページ上に、一見伊東さんと真っ向から対立する試聴記を書こうというのである。それでも、あえて書き残しておきたい気持ちに駆られ、この駄文を認めることとした。
温厚な伊東さんをして、もしかしたら怒らせることになるかも知れぬが、私なりの2枚のディスクに対する感想を以下に書きたいと思う。そこで、まずは伊東さんの両盤に対する試聴記の概略を、以下に示しておきたい。(筆者の考えで抜粋したため、文責は松本にある)■ 伊東さんによるブロムシュテット盤(抜粋)
「第九」には、人それぞれにいろいろな想い出があるだろう。クラシックファンなら、コンサートでこの曲を聴いて感激した経験が必ずあると思う。聴き馴染んで愛着のあるLPやCDもあるだろう。だから、まず客観的な点数をつけることはできまい。それを承知の上で私は、このCDの演奏は「第九」ベスト10の中に必ず入るべきだと思う。この録音を知っている人なら、誰もが納得するはずだ。
録音されたのは1985年3月30,31日。これはゼンパー・オパー再建記念コンサートの模様を収録したものなのだ。ドレスデンは、1945年3月13日から14日にかけて爆撃に会い、市内は灰燼に帰した。ゼンパー・オパーもその空襲で焼け落ちている。幸運なことに、外壁が残されていたので、旧東ドイツ政府は国家の威信をかけてゼンパー・オパーの再建を始めた。
音楽の話をするのに、音楽以外の要素を持ち込むのはあまり好ましくはないが、この「第九」に限っては、再建コンサートの実況録音であるという点を抜きにしては語れないと思う。全曲を覆う張りつめた空気は、スタジオ録音とは一線を画している。ブロムシュテットの気合いの入り方が違う。カペレの奏者達の尋常ならざる気迫を感じさせる演奏で、ものすごい緊迫感と勢いがある。私は何度もこのCDを聴き、その度に声を失うほどの感銘を受ける。おそらく、交響曲第9番をベートーヴェンが作曲した際に頭に鳴り響いていたのは、このような演奏ではないだろうか。
私は、クラシック音楽を聴いていてよかった、と思う時がたまにある。このようなCDに巡り会ったときだ。理屈抜きですばらしい。そして歴史的背景を知ると、なお演奏者達の演奏にかける心意気が伝わってきて感動する。そうなのだ。この演奏は多分に浪花節的なのだ。これほどストレートに音楽に対する熱い思いを反映させるカペレが私は好きだ。■ 伊東さんによるシノーポリ盤(抜粋)
これは非推薦盤の中でも最悪クラスの非推薦盤である。もしかしたら、この「第九」を評価する方が読者の中にはおられるかもしれないが、少なくとも私にはベートーヴェンの息吹のかけらも感じられない。聴いてがっかりしたなどというレベルではない。最初にこのCDを聴いたときは、失望を通り越して怒り心頭に発したのである。演奏には、覇気も、生気もなく、熱気もない。また、ベートーヴェンの音楽に対する指揮者の共感さえ微塵も感じられない。シノーポリには、この曲に真摯に取り組もうという姿勢がなかったのだろうか?あるいは彼は、ベートーヴェンの音楽が好きでないのだろうか?
一体どうしてこんなCDができてしまったのだろうか。シノーポリはこの「第九」を録音しなければならない理由が何かあったのだろうか?大レーベルDGの意向が強く働いたことは想像に難くない。■ ブロムシュテットのライヴ録音(一般論)
ブロムシュテットは、この約5年前に、同じオーケストラとスタジオ録音を完成している。それに比べて、圧倒的に熱いこの演奏は、高く評価されてきた経緯も含めて、十分理解できる優秀なディスクである。また、再建記念コンサートと言う、一種異様な高揚感の下での演奏会であったことも十分に予見できるし、本当に熱く盛り上がったのだろうと、そのように思うのである。ここまでの意見は、伊東さんと全く軌を一にしていると言えよう。
■ シノーポリのライヴ録音(一般論)
こちらは、オーケストラやホールに特別な事情があるとすれば、リヒャルト・ワーグナーが当地でベートーヴェンの第9を上演してから、ちょうど150周年に当たることである。一方の指揮者シノーポリにとっては、初めての第9、ベートーヴェン録音であった。しかも、それをライヴ収録しようと試みたのである。そうすると、こちらは特別な事情がそれなりにあったと推測することは十分に可能だと思われるのだ。
■ ブロムシュテット盤の問題点
この演奏は、祝祭気分の高揚からくる、何とも言えない前のめりな、それを聴衆も後押しするような勢いが明白である。しかし、仮に、この演奏が何らかの記念コンサートであることを隠し、最後の拍手もカットしたらどうであったろうか。あるいは、時代が30年も過ぎたため、東欧の民主化を、単なる世界史の一コマに過ぎない、現在進行形の世界とは到底捉えられない、非常に若い世代の聴き手が聴いたとしたらどうであったろうか。絨毯爆撃は愚か、ベルリンの壁も東欧の民主化も、実体験からはほど遠い、単なる教科書上の出来事に過ぎない、そんな醒めた目と耳で、このディスクを聴いたとしたら、果して同じメンバーによる約5年前のスタジオ録音よりも優れた演奏であると、本当に思えるであろうか。このような不安がどうしても払拭できないのである。
つまり、優れた演奏であることは争わないが、万人に高く評価されるべきなのは、やはり全集に収録された方の第9ではないだろうか。すなわち全集盤の参考盤として、当該第9ライヴは存在しており、ドレスデンや、ゼンパーオパーや、旧東ドイツに何某かの思い入れがある場合は、参考盤が圧倒的に上回るが、それ以外の一般にはバランスの取れた全集盤を推薦するのが穏当ではないのだろうか。どうしても、このように思えてならないのである。■ シノーポリ盤を評価すると
私は、シノーポリ批判派が指摘する演奏内容のうち、精神性の欠如と、きめ細やかで繊細な再現性の欠如の2点は、むしろシノーポリが第9を指揮するに当たり、意図的に排除したのではないかと考えている。
そして、シノーポリは、まず第1楽章から第3楽章までをかなり早めに演奏し、かつ響きが固いことも指揮者のそもそもの意図であったと考えている。また、第4楽章のゆったりとしたやや輪郭のはっきりしない音の広がりは、決して覇気や熱気がない平板な演奏ではなく、良く聴くとソリストの独唱はあっさりとしているのだが、合唱団の音の広がりに関しては、柔らかく会場全体を包み込むように、そんな風に演奏されているように聴き取れるのである。
すなわち、私にはシノーポリは、第9をいわゆる交響曲としてではなく、最終楽章の合唱部分に全ての焦点を当てた、そんな楽曲として捉えていたために、第3楽章までは素っ気ないほど早く、かつ堅い響きで統一し、第4楽章に至ってもソリストの独唱はさり気ない淡々としたものとし、最後の最後に至り合唱団の能力に全てを託し、あたかもワーグナーの楽劇内の合唱の場面のような効果を狙ったのではないだろうか、そのように考えるのである。
しかし、シノーポリの狙いは、成功したとまでは言えなかったと思われる。それは、彼にとって初めてのベートーヴェンの交響曲録音であったことと、交響曲に対して万人が期待するような方向性での演奏とは、まるで正反対の方向性であったため、彼の考える楽曲構造が聴き手に十分に伝わらなかったこと、さらには合唱部分に到達するまでの時系列の問題もあるであろう。あまりにもシノーポリの考えを追究するには、合唱の出現部までに長時間が経過してしまうからである。
これが正しいのかどうかは、シノーポリの急逝によって、誰にも分からない謎となってしまった。しかし、彼はワーグナーの合唱曲集だけでディスクを作ったりしていることや、そもそもの適性がオーケストラの統率よりも、オペラや声楽の指揮の方が長けていたことは間違いないと思われる。シノーポリは、史上初めてベートーヴェンの「合唱」を演奏しようと試みたのかも知れない。「交響曲第9番」を前座として・・・■ 私の嗜好について
私は、クラシック音楽のジャンルで言えば、日本のクラシックファンの多くが好んでいるであろう、管弦楽が最も苦手なのである。器楽曲、室内楽曲、声楽曲などが好きな割に、交響曲や管弦楽曲は決して嫌いではないが、前三者に比べれば大きな興味を引かないのである。
シノーポリが、もし仮に第3楽章までを単に前座として演奏しようとしたならば、堅い響きで素っ気なく通過し、第4楽章では独唱者が合唱を引きだしていくように牽引し、最後に合唱の壮大な広がりを表して全曲を終える、そんな音楽として第9を作り上げようと試みたのではないのかと、そんな風に考えてしまうのだ。もちろん、かなりシノーポリに好意的な解釈を私は意図的に行っているし、一方で遺憾ながらシノーポリはその方向性で成功したとまでは言えないであろう。ただ、永久に彼の真意を知ることが叶わないなら、彼の残した唯一のベートーヴェンに、誰か一人くらいは光を当てても良いのではないだろうか。私はそんな風に思うのである。(2016年11月16日記す)
2016年11月16日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記