いろいろな「皇帝」協奏曲の演奏を聴き比べる‐標題音楽の難しさ‐
文:松本武巳さん
ベートーヴェン作曲
ピアノ協奏曲第5番変ホ長調作品73「皇帝」1.(動かない「皇帝」)
園田高弘(ピアノ)
近衛秀麿指揮日本フィルハーモニー交響楽団
録音:1970年8月4日(日本:川口)
DENON(国内盤COCQ-83906)2.(動き回る「皇帝」)
エレーヌ・グリモー(ピアノ)
ヴラディミール・ユロフスキー指揮シュターツカペレ・ドレスデン
録音:2006年12月(ドイツ:ベルリン)
DG(輸入盤 477 6595)3.(クレムリン蹂躙下での「皇帝」)
ヤン・パネンカ(ピアノ)
ヴァーツラフ・スメターチェク指揮プラハ交響楽団
録音:1969年(旧チェコスロヴァキア:プラハ)
SUPRAPHON(輸入盤 SU 3540-2 013)4.(ベートーヴェン時代より古い「皇帝」)
ゲルハルト・オピッツ(ピアノ)
マレク・ヤノフスキ指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団
録音:1995年9月(ドイツ:ライプツィヒ)
BMG(国内盤 BVCC-38325-27)5.(コスモポリタンな「皇帝」)
ラドゥ・ルプー(ピアノ)
ズビン・メータ指揮イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1979年(イギリス:ロンドン)
DECCA(輸入盤 475 7065)■ はじめに
今回ご紹介する皇帝は、いずれも知る人ぞ知るレベルの録音にとどまっており、いわゆるこの曲の名曲ランキングには決して入ってこないであろうと思う録音ばかりを並べてみましたが、この5枚のディスクには個人として何かを書きたくなる部分を含む録音であるからこそ、俎上に挙げた次第です。しばらくお付き合いくださるととても幸甚です。
■ 園田と近衛の場合
お二人ともにすでに鬼籍に入られた、20世紀の日本洋楽界を支えてこられた重鎮です。しかし、当時の日本人男性で、ヨーロッパに渡り本格的な教育を受けた数少ない2名でもあるのです。園田は高名な割には、演奏に対する批評はさほど好評であるとは言いがたい側面もありました。それは、あまりにも融通の利かない、堅すぎる演奏に終始したからだと言われています。一方の近衛は貴族出身であることと、近衛版という、自身による改訂版を用いて指揮をしたことを、今なお誤解され続けている側面がある指揮者でした。
しかし、私はこの演奏は、本質的に硬い園田を近衛が良い意味で煽りつつ、上手に曲の進行をリードしているように見受けますし、実はほとんど同時期のライヴ映像が残されているのですが、そちらを見ると、近衛は微動だにしない当時の日本の聴衆を含めて、本来的な音楽を志向し日本に広めようとした結果、自身の改訂版を用いたりした工夫や苦労が垣間見られます。この録音は一般的な名演では無いでしょうが、日本の音楽史を語る意味でも、日本の音楽界がプラス方向に踏み出す指針となった録音の一つであると確信します。生前園田の硬さをカラヤンが好んでいたようで、初来日時や、ベルリンでの定期演奏会で2人は共演しており、カラヤンから見ると、当時のヨーロッパがすでに失いつつあった、良い意味での「不動の皇帝」像に近い演奏であったのでしょう。しかし、私には実際のところは「動かない皇帝」であったとも思うのです。この録音が残されたことは、とても幸運であったと思います。
■ グリモーの場合
フランスではグリモーの人気は頂点をきわめており、現在は軽々しく批判も出来ないほどの人気振りです。しかし、少なくともこの皇帝の録音に関する限りは、グールドが意図して演奏したストコフスキーとの録音以上に、我々がイメージする一般的な「皇帝」像からは非常に遠い演奏になっていると言わざるを得ないでしょう。
それは、あまりにも音楽が「動きすぎる」ことに尽きるでしょう。冒頭のピアノの部分も、グールドの録音は本当に遅い演奏で、聴き手を驚かせましたが、グリモーは遅いレベルをはるかに超えて、私には「分散和音」の聴音のテストをされているように思えてきます。もちろん上手いとは思います。しかし、標題音楽は、好むと好まざるとに関わらず、表題を知っている聴き手が聞くことを前提に考えると、この彼女の録音は、残念ながら「皇帝」協奏曲に聴こえない宿命を負っているように思えてなりません。
■ パネンカとスメターチェクの場合
このコンビの録音は、本来は1970年のベートーヴェン生誕200年を目指しての全集録音の一環であったと思いますが、最後に録音した4番は1971年ですから、諸々の事情があったものと推察されます。やはり、この演奏には、クレムリンに蹂躙された1968年夏のソ連軍のプラハ侵攻を抜きには考えにくい側面があるように思えてなりません。チェコは、ドイツからもロシアからも挟み撃ちにされ支配されてきた歴史的経緯から、文化も言語も、ドイツとロシアの中間に位置しながら、両国との関係はあまり良好とは言いがたいように思います。
この演奏は、まさにクレムリンの重圧下で行われたためか、想像以上に親ドイツ風の演奏であり、政治的な関係を知りえない聴き手や、無関係な聴き手からすれば、間違いなく隠れた名演であると思います。やはり圧政下とは言いつつ、ドイツ文化とロシア文化をともに共有することが無意識に可能なチェコで、ロシアに蹂躙されている当時に残したこの録音が、政治と無関係な聴き手に、優れたドイツ風解釈と演奏であると映るのは、事件から40年経過した現在ではむしろ好ましいと言って良いと思います。だからこそ、スプラフォンはこのような歴史的録音を、積極的に再発売しているのだと考えます。
■ オピッツとヤノフスキの場合
これは直系ドイツを継承した演奏であると、聴く前から大いに期待されるディスクであると思います。しかし、期待は当たっていると言えば当たっていますが、19世紀前半に作曲された「皇帝」ですが、まるで古楽のように古い時代のドイツを語った演奏になっています。堂々たる演奏と言うよりも、ベートーヴェンもびっくりの古い「皇帝」です。その意味で、この録音は貴重だと思います。滅多に聴けない側面を有していると思うからこそ、紹介した次第です。
■ ルプーとメータの場合
ルーマニア国籍のピアニストと、インド生まれの指揮者が、ユダヤ人のためのオーケストラをバックに、ロンドンで録音した演奏です。一般的に、このような録音をまさに「コスモポリタン」と呼ぶのでは無いでしょうか?
この演奏に関わっている誰一人として、「皇帝」を「皇帝」らしく演奏したいなどと、決して欲していないと思われます。しかし、私はこの演奏から、本来聴き手が「皇帝」協奏曲という標題音楽を聴くときに、一般的に求めるであろうほとんどの重要な要素が、きちんと全て入っている名演であると考えるのです。そのことを皮肉であると考えることも、もちろん可能だとは思います。しかし、そのことこそが、音楽が本質的に持っている、汎用性であると考えると、ドイツとも皇帝とも接点が無いメンバーによる演奏が、優れた演奏になることは何も珍しいことでは無いでしょう。しかし、分かっているつもりでも聴き手もなかなかそのように割り切れない部分もあると思います。なぜなら、音楽も、そして政治も、広い意味での文化に他ならないからです。偏見と先見が逆転することも、決して珍しくは無いと思います。しかし、そんな移ろいこそが、音楽を聴く喜びの一つでもあるとすると、この問題は永遠の命題であるかも知れませんね。
■ さいごに
今回ご紹介した演奏は、グリモーの録音を除けば、近時話題に上ることも稀な録音ばかりであろうと思われます。しかし、そもそも我々は、演奏を聴く前からある種の事前の予想をするからこそ、コンサートに行き、ディスクを買い求めるのですから、結果的に上手く解決できる可能性はほとんど無いとは思うものの、「標題音楽」は、通常以上に「本場もの」を聴く前から想定し、聴き手が事前に限定してしまいがちな分野だと思います。この事実は仕方が無い反面、そもそも音楽には汎用言語としての伝播力があるからこそ、我々日本人も西洋音楽を等しく享受していることを、わざわざ意識するまでも無く、「本場もの」であることと名演であることとは、少なくとも録音技術が発達した今日においては、ほとんど無関係であると言い切れるでしょう。
航空機はおろか、自動車も鉄道も無かった時代であればいざ知らず、「本場もの」への無意識の志向を、「標題音楽」であるがために、絶対音楽以上に知らず知らずのうちに、聴き手の自由度を狭めているような気がすることがあります。どうしようも無いことだとは思いつつ、これは本当に聴き手としてももったいないことだと思えてなりません。その意味で、私は、個人的には「標題音楽」はあまり好みません。しかし、そのこと自体、すでに「表題」に囚われている証拠でもあることを思うと、私の心は複雑に錯綜します。
(2009年8月30日記す)
2009年9月19日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記