ポリーニの「ワルトシュタインソナタ考」
―伊東さまの試聴記を契機として―

文:松本武巳さん

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ベートーヴェン
ピアノソナタ第21番 作品53「ワルトシュタイン」
マウリツィオ・ポリーニ(ピアノ)

 

■  伊東さまへの返信としての試聴記

 

 ポリーニに関する伊東さまの2004年12月18日と21日の評論に、私なりの想いを伝えるがために、急遽ペンを執る気持ちに強く駆られた。その根本は、伊東さまの音楽に寄せる(An die Musik)熱い想いと、ピアノへの愛情を私が強く感じたからに他ならない。

 

■  ポリーニの再録音までの経緯

CDジャケット
1988年録音(DG)
CDジャケット
1997年録音(DG)

 1988年録音におけるポリーニのスタンスは、従前のやや神経質なポリーニそのものである。そこから紡ぎ出される音楽は、完璧なテクニックと、完璧な譜読み、完璧な表現力、完璧な録音、完璧な編集と言った、完全無欠を常に目指して演奏活動を継続していた最終時期にあたる快演であったように思う。そこから導かれる音楽は、常に硬質なやや冷たい響きであるが、しかし実にコントロールが良い意味で行き渡った演奏であった。当時のポリーニは、デビュー以来の史上最高のテクニシャンとしての地位を、依然として完璧に保持していたし、その意味での強烈な印象を持たされ続けていたのであるが、当時《ポリーニは情緒音痴か?》なる議論が巻き起こったりもしたのだが、普通は否定的に論じられている内容であるにもかかわらず、それ自体までもポリーニにとっては、誰にも到達不可能な神業を持ったピアニストとして崇められて居続けたことの象徴であったのである。私はこの旧録音の時代までのポリーニを否定しているのでは決して無い。当時のポリーニに私も同じように熱中し、その超絶かつ完璧な演奏に酔いしれたものであった。この意味における前人未到であった彼のレコード録音は、それ自体が伝説であったと言えるだろう。なぜならば、かつて超絶技巧でならした誰もが、その技巧にピアニスト本人が酔い、年齢とともにテクニックの超絶性が落ちて来ると、結果として魅力が費えてしまった、そのようなアクロバティックな演奏家が歴史上の一コマとして、多く刻まれている。しかし、従来のテクニシャンが、自らのテクニックを恣意的な方向に推し進めて行ったのに比して、ポリーニは、彼自身の良い意味での神経質さと、多分潔癖性の故に、彼は作曲者と楽譜に対する忠誠を、絶対に放棄しなかったために、過去のテクニシャンのような単なるスポーツ的な快感とは一味違った、超絶かつ音楽的な名演奏を輩出し続けたのである。

 

■  1990年代にポリーニは変身した

 

 ところで彼は、90年代に入って大病を患ったようである。今年(2004年)の初夏の来日時も、やや背中が丸くなって、初老の方のような前屈みの状態で歩行していた。ところが、音楽自体は驚愕するほどに、変容を遂げたように感じた。第一に、テクニックは60歳代としては相変わらず超絶ではあるが、彼の内心の吐露をまず伝えんがためであろうか、テクニック的にはやや綻びもあったように感じた。しかし、今のポリーニは《音楽する》喜びのためにピアノに向かい、その大前提が満たされるならば、他のことをあまり気に留めないようになった。以前はあまりにも神経過敏な演奏を繰り返したポリーニが、自らのピアノを通じて音楽を聴いてくれる人、否、聴いてくれる者がいようがいまいが、お構い無しに自己主張をするように至ったのである。細かい事には目も呉れず、ひたすら音楽に没入していくさまは、逆に超絶なテクニックが無かろうが、コントロールの行き渡った完璧な演奏で無かろうが、すべてを忘れて、彼の音楽そのものに引き込まれて行く度合いが強まり、演奏を聴き終わった後の、深い感動を呼ぶように至った。実際には、細部のミスが目立つ場合もあるし、全体の構成がやや崩れて統一感が希薄になっているケースもあるが、そういうことが気になるときは、ポリーニ自身の旧盤を聴けば解決するのである。今まさに、ポリーニは芸術の伝道者として、誰も到達していない世界に踏み込もうとしているように感じる。

 

■  客観的な裏づけ

 

 ポリーニの最近のライヴ録音の傾向は、伊東さまもお書きになられているように、非常にスリリングで白熱しているが故に、非常に演奏時間が短く感じるのであるが、さにあらん、実際の演奏時間は、以前とほとんど変わっていない。そのことを痛感したのが、5月の来日リサイタルで2回聴いた「ショパンの練習曲作品10−4」の演奏である。恐るべき荒々しさと豪快さが同居している凄演であるにもかかわらず、冷静な一部の聴き手や、またはこの曲の演奏経験がある人は気付いたかも知れないが、実際は非常にゆったりしたテンポ設定であったのである。実演奏時間で比較するならば、1972年の録音よりも10%近くもスローテンポだったのである。この曲のみフライング拍手が出たほど会場を興奮の坩堝に巻き込んだとは思えない半面、実はこれこそが、芸術の本質の一側面を表しているとも言えるだろう。

 

■  彼の変身がもたらすリスナーへの最大のプレゼント

 

 過去のポリーニの完璧志向が最も良い方向に出た録音は、一連の20世紀の音楽であろう。さらに、ショパンのエチュード、シューマンのピアノソナタ第1番、等のロマン派の音楽の一部も当てはまるであろう。しかし、過去の神経過敏な部分や超絶テクニックが前面に出ていたためか、ベートーヴェンやモーツァルトには必ずしも名演奏と言うには何か齟齬を感じる引っ掛かりを感じていたのも事実である。実際に伊東さまも、70年代のポリーニが録音した、ベートーヴェン後期ソナタ集に対して、やや否定的な評価をなさっておられる。ところが、近年到達したポリーニの境地は、以前はどちらかと言えば適性を欠いていた作曲家や楽曲への適性がむしろあると考えられる。一方で、もはや、彼には絶対に再録音をして欲しくない楽曲もまた生じて来たように思われる。この変遷は、レコード録音という過去の記録と、彼の現在進行形の現役ピアニストとしての将来を重ね合わせると、彼の生きざまに合わせて、我々ピアノ音楽愛好家が録音時期と適性を想像しながら、ポリーニの録音の中から、個人の嗜好を自由に組み合わせてライブラリーを形成できるという特権を享受しているのである。我々は、ポリーニが大きく変容したが故に、とてつもない贈り物を、ポリーニ自身から与え続けてもらっているのである。

 

■  最後に

 

 芸術とは何か? 到底結論は出ないが、ポリーニはかつてデビュー当時から80年代までは、完璧な総合芸術家であったように感じ、それがただのテクニシャンとポリーニとの差別化を図る要因であったと思う。そして、現在のポリーニは彼の内心の発露を最優先し、その他のことに目も呉れない演奏様式に変容したが、しかし、彼の永年培ってきたテクニックと正確な譜読みを維持しているが故に、誰も到達し得ない世界に立ち入っているのであろう。彼は、以前、もっともスタジオ録音が似合う演奏家の一人であったと思うが、いまや、もっともスリリングなライヴの人(もちろん、私がいつも使用している語法とは異なった意味で使っています)になったのである。ポリーニの永い演奏生活の帰結点は、このようなまるで改宗したかの印象を受ける変容振りではあるが、彼が超絶的テクニシャンであった当時においては、彼の潔癖性が演奏の恣意化を阻止し、逆に内心を吐露する爆演タイプに変容した現在は、彼の作曲者と楽譜に対する無意識下での敬意が根底に潜んでい続けるために、結果として、爆演には全くならずに、深い精神性あるいは深い芸術性を持つに至った稀有な演奏家に、ポリーニは到達したのである。彼のピアニストとしての人生のターニングポイントが、「ワルトシュタインソナタ」の新旧録音の間の9年間のどこかにあり、その結果としてピアニストとして極めて幸福な変容を遂げたことに、万雷の喝采を浴びせたいと思う。

 

■  完全な追伸

 

 伊東さまが、ワルトシュタインソナタにご興味を持つに至られた経緯が、私の高校生時代のこのソナタの拙い録音であったとのご発言を、私に対して先月なされました。もちろん、私に対する完璧なお世辞であることは当然ですが、ワルトシュタインソナタに昔熱中していた私にとりまして、伊東さまがワルトシュタインソナタについてのポリーニの演奏を試聴記にしたためられたことのきっかけが、とにもかくにも私であったことに大いなる感謝を捧げます。本当にありがとうございました。演奏家を育てるのも殺すのも、何気ないひとことのお世辞でもかまわないが褒め言葉であると思っています。そしてそこにこそ、評論の原点があるとも思っています。演奏家を育てるために存在するような評論家がもっともっと増えて欲しいと念願しています。音楽に留まらず、他人の行為を批判したり意見するのはいとも簡単ですが、他人の行為を好意的に捉え、褒めることの難しさを最近痛感しております。

(2004年12月22日記す)

 

2004年12月23日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記