|
ブラームス ヘンデルの主題による変奏曲作品24(オリジナルピアノ曲)
ヴラディーミル・アシュケナージ(ピアノ) 録音:1991年12月10日、スイス DECCA(国内盤 POCL
1181)(余白は、ピアノソナタ第3番作品5)
|
|
ブラームス
ヘンデルの主題による変奏曲作品24(E.ラッブラによる管弦楽編曲版)
ヴラディーミル・アシュケナージ指揮 クリーヴランド管弦楽団
録音:1992年7月、クリーヴランド DECCA(輸入盤 436
8532)(余白は、交響曲第4番作品98)
|
|
■ ブラームスのヘンデル変奏曲
|
|
オリジナルの変奏曲は、ブラームスの残したピアノソロ用変奏曲の代表作の一つで、パガニーニの主題による変奏曲と並んで、ピアニストの間では比較的よく知られた曲である。主題と25の変奏曲からなり、ブラームスが書いた唯一のフーガが終曲に含まれている(それも109小節に及ぶ4声の大フーガ)ことでも知られる。変奏曲の最高峰の一つとされる作品で、徹底的に対位法が多用されており、技巧面でもオクターヴ奏法の連続等、かなり高い技巧が求められる。1861年12月7日、クララ・シューマンにより初演。
一方のラッブラ編曲による管弦楽版は、かなり珍しい楽曲に属すると思われるが、ブラームスの原曲である変奏曲を、ほぼそのまま管弦楽曲に置き換えており、両者を比較してみることに一定の価値があると目される。ラッブラは1901年に生まれたイギリスの作曲家で、鉄道会社に就職後に音楽大学に入りなおした、晩成の作曲家。ヘンデル変奏曲を管弦楽用に編曲したのは1938年のことである。このラッブラ編曲の管弦楽版は、他にトスカニーニやオーマンディ、さらにネーメ・ヤルヴィらの名録音が残されてはいるものの、さすがに絶対的な録音量は多くない。比較的珍しい部類に属する楽曲であろう。
|
|
■ あえて大作を余白扱いに
|
|
ピアノソロの方では、大作ピアノソナタ第3番作品5を、管弦楽版の方では、大作交響曲第4番作品98を、あえて余白扱いにしてまで、今回はアシュケナージの演奏したヘンデル変奏曲を取り上げるわけである。ここでアシュケナージが、実際のディスク録音に於いて、メインの楽曲としてヘンデル変奏曲とカップリングしたのが、ピアノソロのディスクの場合はブラームス最後のピアノソナタ第3番であり、管弦楽指揮の場合もブラームス最後の第4番の交響曲であり、アシュケナージはこれらの組み合わせから推察するに、かなり気合を入れて録音に取り組んだものと思われる。そこで、この2点のディスクの録音に至るまでの経緯を、私なりに想像してみたいと思う。
|
|
■ ピアノソロ版
|
|
ハンブルクでこの作品を完成させたブラームスは、クララ・シューマンにあてて、「貴女の誕生日のために作曲した」という手紙を添えて、初演を依頼したのである。この時点ではクララはすでに未亡人であるが、終生独身であったブラームスとともに、非常に複雑な感情が錯綜した三角関係を窺わせるような、意味深長な手紙である。クララは期待に応えてたいへん白熱した演奏で、ブラームスの新作変奏曲を見事に演奏したものの、その場でのブラームスは素っ気なく冷たい態度に終始したようである。熱演したクララはたぶんブラームスの態度に歯ぎしりしたことであろう。そのことは、クララ自身の残した日記からも容易に窺い知ることができる。クララのまさに恋する女心の偽らざる吐露であると考えざるを得ないので、その日の日記を下記に紹介したいと思う。
ヨハネスの「ヘンデル変奏曲」を弾いた。ひどく神経過敏にはなったが、立派に演奏し、熱心な喝采を受けた。ヨハネスの冷淡さは私をひどく傷つける。彼は変奏曲をとうてい聴いてはいられない、自分の作品を聴いてじっとしているほど恐ろしいことはないと言う。ヨハネスの気持ちもよく理解できるが、せっかく一生懸命に打ちこんでいるのに、作曲者自身が喜んでくれないのは辛い。
(1861年12月7日付クララ・シューマンの日記(原田光子編訳)より抜粋)
|
|
■ 管弦楽曲編曲版
|
|
ラッブラの編曲を聴くと、確かにイギリス人による編曲だと思わせるところがある。例えば冒頭の主題を聴くと、まるでヘンリー・パーセルを思わせるような開始部分となっているのだ。彼自身は20世紀の現代の作曲家であるにもかかわらず、11曲もの交響曲を残したようであるが、どう考えてもラッブラの代表作は、このブラームスのピアノ曲の管弦楽用編曲であろう。ところが、録音の数自体は少ないものの、かなりの巨匠たちがラッブラによるヘンデル変奏曲の管弦楽編曲版の録音を残しており、ラッブラはこのことで後世に名を残すことができたのである。
|
|
■ ピアニスト兼指揮者アシュケナージ
|
|
ピアニストとして演奏活動を開始し、後に指揮者となった演奏家は、この世に数多く存在している。その中で、私が考えるには、アシュケナージは彼の信ずる目的を達するために、あえて指揮者になったと思うのである。しかし、そのことが結果的には指揮者としての評価を確立させることができないだけでなく、ピアニストとしての評価まで落としてしまうことにつながったように思える。
アシュケナージは、他の誰よりもピアニストの視点で、指揮活動を行っていると考えられる。これは、たとえばウィーンフィルとベートーヴェンのピアノ協奏曲全集を録音(1983年ごろ)したわずか3年後に、再度今度はクリーヴランド管弦楽団とピアノ協奏曲全集を録音(1986年ごろ)しているのだが、この近接した時期に残した二つの全集を比較してみると、アシュケナージの録音目的がなんとなく見えてくるのだ。ウィーンフィルとの全集では、指揮者はズビン・メータであり、アシュケナージはソリストとして録音に臨んだのである。一方のクリーヴランドとの全集では、アシュケナージは、指揮者兼ソリストとして弾き振りを行っているのだが、彼はここで、ソリストが協奏曲の伴奏部分をどのような解釈で進行してほしいと願っているかを聴き手に明らかにしてくれる、そんな指揮ぶりに徹していると言えるだろう。その結果、ピアニストとしての演奏内容も、当然ではあるが今までとは異なってくるのである。しかしながら、ピアニストの望み通り指揮してくれる指揮者は、少なくとも一流とみなされる指揮者では大して多くはないであろう。結果として、アシュケナージが弾き振りで録音した、クリーヴランドとの再録音の全集は、指揮者としてもピアニストとしても、非常に中途半端な録音として、評論家から切り捨てられてしまったのである。
この2つの録音の前後から、アシュケナージは指揮者として二流との烙印だけでなく、肝心のピアニストとしても技術面を含めてすでにピークを過ぎたものとみなされ、さらにそれから一定の時間が経過すると、アシュケナージは指揮者としてはもちろん、なんとピアニストとしても批判の嵐の只中に引き込まれてしまったのである。過去の名演奏も含めて一気に彼の評価が急落したのである。私にはアシュケナージのピアニストとしての一般的な評価の不幸な転換点が、このクリーヴランドとのベートーヴェンピアノ協奏曲の再録音であったと、そんな風に思われてならないのである。
|
|
■ アシュケナージの神髄
|
|
後にアシュケナージが、ブラームスのヘンデルの主題による変奏曲を録音しようと思い立ったときに、ピアノ版と管弦楽編曲版のどちらの演奏・録音により大きな比重がかかっていたかは実際にはもちろん不明ではあるが、ピアノソロ演奏とオーケストラの指揮を、同時期に取り組む必要性が確実にあったのであろうと私は推察している。またそのように考えると、より得意なピアノソロでの録音をまずは経て、その直後にブラームスの交響曲第4番の余白として、ラッブラ編曲版のヘンデル変奏曲をカップリングしたかったのだと、そんな風に思われるのである。
もう私の言いたいことは自明であろうと思われる。ブラームスの交響曲第4番は、バロック様式の変奏曲であるパッサカリアを終楽章に取り入れた交響曲であり、作曲の着想がバッハのカンタータから得られたことは確実である。アシュケナージにとって、この交響曲の余白に、どうしても入れるべきカップリング曲として、当初からヘンデルの主題による変奏曲が脳裏に浮かんできたものと思われるのだ。ヘンデルとバッハをつなぐ作品と言えるピアノのためのヘンデルの主題による変奏曲の、ほぼ原曲に近い管弦楽編曲版であるラッブラのスコアをみたときから、アシュケナージはこのカップリングを考え、かつてベートーヴェンの協奏曲を録音した際の経緯と同じ趣向から、先んじてピアノソロ作品であるヘンデルの主題による変奏曲を録音の上で、ブラームスの交響曲第4番の録音に向かったのだろうと思われるのである。同年の大作曲家ヘンデルとバッハをつなぐ企画として、アシュケナージならではの発想を駆使した結果であったと思うのである。
この発想は、演奏収録時間が短いレコード時代には不要な発想であったと思われる。しかし、CD時代には必須となったカップリング曲探しに迫られたとき、そもそもピアニストとして著名なアシュケナージならではのユニークな発想で、1991年12月にまずはピアノ版の録音を済ませたうえで、翌年7月に引き続いて交響曲第4番と管弦楽編曲版ヘンデル変奏曲の録音に臨んだと思われるのである。このような芸当が可能な演奏家がいったいどれだけいるのであろうか。ましてや、ベートーヴェンのピアノ協奏曲の場合と異なり、そもそもピアノソロ作品と、管弦楽編曲作品を別々に録音したため、この2つの録音に於いて、アシュケナージはベートーヴェンのときのような批判を受けなかったのである。
私には過去のアシュケナージはおろか、現代のアシュケナージも批判の対象としてみることはどうしてもできないのである。その根拠となる一例を、今回はぜひ紹介したかったのである。 |
|
(2017年10月3日記す)
|