2つのブルックナー「交響曲第6番」録音の背景について

文:松本武巳さん

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CDジャケット

ブルックナー
交響曲第6番

ハインツ・ボンガルツ指揮
ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団
録音:1964年12月、ライプツィヒ
BERLIN Classics (輸入盤 0091672BC)


CDジャケット

オットー・クレンペラー指揮
ニュー・フィルハーモニア管弦楽団
録音:1964年11月、ロンドン
EMI(輸入盤 CDM7 63351 2)

 

■ ハインツ・ボンガルツ

 

  ハインツ・ボンガルツ(1894-1978)は、旧東ドイツの指揮者、作曲家、教育者であった。残された音源は決して多くはないが、日本ではあまり聴く機会のないヒンデミットやレーガーの録音は非常に優れていて、これらの録音は高い評価を現在でも受け続けている。また作曲家として残した作品リストの中に、「日本の春」というタイトルの歌曲集が存在している。今回取り上げたブルックナーは、ドレスデン・フィルの首席指揮者を退いた翌年のライプツィヒでの客演録音である。ライプツィヒ音楽大学で教鞭を執っており、教え子にクルト・マズアらがいる。

 ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団は、長年カペルマイスターを務めたフランツ・コンヴィチュニーが1962年に逝去したため、1964年からヴァーツラフ・ノイマンがカペルマイスターに就任した。伝統あるライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団が、コンヴィチュニーの死の前後から急速に技術的な衰えや音楽の停滞感を示し始めたころの録音であり、後任者ノイマンが祖国でプラハの民主化運動弾圧が1968年8月に発生したため、突如ゲヴァントハウスを辞任するに至り、さらにオーケストラの停滞感や昏迷度が加速していく、そんなオーケストラの危機的な激変時に該当する録音である。

 演奏は、残された録音が決して多くないボンガルツの確かな実力を示す一方で、その他の録音とは明らかに異なる方向性を示した録音でもある。このブルックナーの交響曲では、確かな全体像の把握を感じさせる一方で、金管楽器の強奏をはじめとする強い自己主張が見られる。もちろんこの交響曲は、ブルックナーの中でもとりわけ金管の活躍の場が多い交響曲ではある。しかし一方で、管と弦の見事なまでの融和というブルックナーの交響曲の本質の一つが削がれてしまっており、金管の際立った優位性がこの録音全体を支配していると言えるだろう。オーケストラ全体の音もブルックナーの演奏にしては異質なくらい硬く響いてくる。

 しかしながら、ここでの演奏は、楽曲全体の進行という面から捉えてみると、実に見事な揺るぎないテンポ感を基礎として、音楽の淀みがなく楽章間の矛盾もなく、全曲が一貫した指揮者の主張のもとに纏められており、ボンガルツの確かな指揮者としての能力を感じさせるのである。少なくとも音楽の構成自体にボンガルツの自己主張は及んでおらず決して恣意的な演奏ではないのである。客演ながらオーケストラの統率も問題なく取れており、この観点から捉えると非常に優れた録音であると言えるだろう。名演であると言って何ら差し支えないのである。突出した金管楽器の扱いに違和感さえ持たなければ、間違いなく名演であるのである。なんとも評価の難しい録音である。

 

■ オットー・クレンペラー

 

 ウォルター・レッグが突然フィルハーモニア管弦楽団を解散させた直後に、クレンペラーを担ぎ上げて自主運営団体としてフィルハーモニア管弦楽団を引き継いだニュー・フィルハーモニア管弦楽団とのごく初期の録音で、1964年10月27日の旗揚げ公演(ベートーヴェン「交響曲第9番」)と同時期の録音である。レッグが長年ブルックナーの交響曲第6番の録音を認めてこなかったこともあってか、クレンペラーは手兵オーケストラの非常時に、ようやく積年の望みを達成したわけである。

 第1楽章は通常の演奏に比べると非常に遅い。第2楽章も遅い演奏で、寂寥感を湛えた名曲として人気の高いアダージョ楽章なのだが、クレンペラーは全体を分厚い無骨な響きで押しまくり、情緒的な寂寥感を表現するということなどは凡そ眼中にない即物的な演奏である。第3楽章も遅いテンポで進んで行く。トリオに入ると更に遅い演奏だが、一種おどけたような雰囲気を醸し出すクレンペラーの指揮は、全体の中で特に強く印象に残る部分である。第4楽章も遅めの演奏で、確かに毎度お馴染みの無骨で即物的な演奏ではある。ただし、この交響曲の多くの演奏が最初の2つの楽章に比重が置かれているのに対し、クレンペラーの録音ではむしろ後半の2つの楽章に比重が置かれていると言えるだろう。特に、この交響曲の弱点とされる終楽章を、輝きをもって壮大稀有なフィナーレとして聴かせるクレンペラーの演奏は、深い感動を与えてくれる。

 

■ ゲヴァントハウス管とニュー・フィルハーモニア管

 

 この二つの録音の共通点は、ほぼ同時期の録音であること、そしてオーケストラの危機が訪れた時期の録音であることであろう。輝かしい伝統あるゲヴァントハウス管はこの後クルト・マズアが率いた四半世紀に、崩壊寸前と言えるほどまでオーケストラの能力は低下し、危機に瀕するのである。もちろん、マズアの責任とは言い難い政治的な側面も多いのだが、せめてマズアが着任する前にマズアの指揮の師匠でもあったボンガルツが、ゲヴァントハウスを一定期間率いてくれていたらと思わざるを得ないのである。そんな風に、ゲヴァントハウス管の激変期に残された、この1枚のブルックナー録音を聴くたびに思うのである。

 一方のフィルハーモニア管弦楽団は、もともと録音用に創設されたオーケストラで歴史は非常に浅い。ところが、突然の解散宣言に立ち向かったオーケストラに対してクレンペラーの与えたものは、ウォルター・レッグが拒否し続けたブルックナーの交響曲第6番の録音であった。イギリスでのブルックナー人気の乏しさを乗り越えて、この交響曲第6番の録音こそがクレンペラーの多くのブルックナー録音の代表作であると、今でもイギリスでは言われ続けているのである。こんなイギリスでのクレンペラーの評価が、日本とはかなり異なるように思える理由の一つには、この演奏がオーケストラの窮状を救った録音であることも、意識を超えた深い部分で重なっているのかも知れないと思うのである。

 

(2021年4月21日記す)

 

2021年4月22日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記