ショパン・コンクール過去の入賞者たちの音源から−第2回−

文:松本武巳さん

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4回−1949915日〜1015
応募者63名、書類選考通過14カ国54名、参加者13カ国41名

<主な出場者と結果>
1位 ハリーナ・チェルニー=ステファニスカ(ポーランド)
1位 ベラ・ダヴィドヴィチ(ソ連)
第2位 バルバラ・ヘッセ=ブコフスカ(ポーランド)
予選落ち パウル・バドゥラ=スコダ(オーストリア)

<主な審査員>
ズビグニェフ・ジェヴィエツキ(ポーランド=委員長)
カルロ・ゼッキ(イタリア)
レフ・オボーリン(ソ連)
マルグリット・ロン(フランス)
ラザール・レヴィ(フランス)
ヤン・エキエル(ポーランド)
マグダ・タリアフェロ(ブラジル)

<音源>

CDジャケット

1位 ハリーナ・チェルニー=ステファニスカ
ポロネーズ第4番作品402
夜想曲第7番作品271
幻想即興曲作品66
マズルカ作品333681174
練習曲作品1012
録音:19501951年(ポーランド、オーストリア)
muza(輸入盤 PNCD002

CDジャケット

1位 ベラ・ダヴィドヴィチ
3つのエコセーズ作品7235
マズルカ作品684
スケルツォ第4番作品54
録音:19491952年(ソ連、ポーランド)
muza(輸入盤 PNCD001

 

5回−1955222日〜321
応募者138名、書類選考通過25カ国77名、参加者24カ国73名

<主な出場者と結果>
1位 アダム・ハラシェヴィチ(ポーランド)
第2位 ヴラディーミル・アシュケナージ(ソ連)
第3位 フー・ツォン(中国)
第7位 リディア・グリフトウヴナ(ポーランド)
第10位 田中希代子(日本)

<主な審査員>
ズビグニェフ・ジェヴィエツキ(ポーランド=委員長)
ルイス・ケントナー(イギリス)
カルロ・ゼッキ(イタリア)
アルトゥーロ・ベネデッティ=ミケランジェリ(イタリア)
レフ・オボーリン(ソ連)
マルグリット・ロン(フランス)
ラザール・レヴィ(フランス)
ステファン・アシュケナーゼ(ベルギー)
マグダ・タリアフェロ(ブラジル)

<音源>

CDジャケット

1位 アダム・ハラシェヴィチ
バラード第1番作品23
練習曲作品2562511
マズルカ作品674633
前奏曲作品45
夜想曲作品621
ポロネーズ第6番作品53
録音:1955年(コンクールライヴ)
muza(輸入盤 PNCD002

CDジャケット

2位 ヴラディーミル・アシュケナージ
練習曲作品256
ポロネーズ第6番作品53
録音:1955年(コンクールライヴ)
Capriccio(輸入盤 C7039

 

■ 第4回ショパン国際ピアノ・コンクール 

 

 第4回は、1949年の9月から10月に開催されました。戦後初めてのショパン・コンクールで、この回からコンクールはショパン協会ではなく、国家事業として開催されるようになりましたが、そもそも戦渦を逃れたホールがほとんどなく、市内で唯一戦禍を逃れたローマ・ホールで開催されました。

 この回の審査方法の特徴として、審査員席からコンテスタントが見えないように、間にブラインドを設けて審査を行ったことにあると思います。しかし、特に不公平は生じないことが実証され、第5回からはふたたび元の公開での審査に戻った経緯があります。

 戦後初めてのコンクール開催で、順位を付せられた12位までの13名中、ポーランド人が8名を占めました。もっとも、まだ国際航空便の就航もされておらず、戦後の激しいインフレのさ中でもあり、かなり限定的なコンクールの開催とならざるを得なかったこともあってか、第1位には、ハリーナ・チェルニー=ステファニスカとベラ・ダヴィドヴィチが選ばれました。しかし、二人は同列の第1位ではなく、ダヴィドヴィチは次席1位という結果となりました。

 チェルニー=ステファニスカは、以前ショパンの協奏曲第1番の録音が、ディヌ・リパッティと取り違えられ、そのためもあってか、高い評価を受けた経緯があります。確かに、打鍵の確かさと強さ、推進力の大きさ等、似たような部分が多く見られます。一方のダヴィドヴィチは、その後ソ連国内に長年とどまってしまい、西側に出てからの一時期に話題を呼んだものの、第一線での活躍の時期は非常に短かったようです。むしろ、ディミトリ・シトコヴェツキーの母親として著名であるように思います。

 

■ 第5回ショパン国際ピアノ・コンクール 

 

 第5回は、1955年の2月から3月にかけて開催されました。ワルシャワ・フィルハーモニーのホール落成式に合わせて、本来は1954年に開かれるところでしたが、翌年の1955年2月に開催されました。

 第1位は、地元ポーランドのハラシェヴィチ、第2位に若干17歳のソ連代表アシュケナージ、第3位は中国代表のフー・ツォンが入り、驚きを与えました。なお、ここで○○国代表との文言を用いましたが、戦後開催されたショパン・コンクールは、ポーランドの民主化にいたるまでの長期間、各国において事前に予選会が行われ、各国の代表を送り込む形式で行われておりました。もちろん個人での自由参加も可能でしたが、自由参加組のみに第一次予選が行われ、絞りがかけられておりましたので、実質的に国家代表による競技会形式が取られていたわけです。

 このため、ソ連などはきわめて選りすぐった選抜選手団とでもいうべきメンバーをコンクールに参加させており、戦後のショパン・コンクールは、国家の威信をかけたコンクールへと変容していったのです。日本においても、1980年にいたるまでコンクール派遣のための予選会が行われており、その理由として、ヴィザの取得から、コンクール中の練習ピアノの確保にいたるまで、各国の予選会を経ていることにより、参加者は大きな優遇措置を得られたわけで、ワルシャワに地縁があるとか、友人が住んでいるとかの特別な事情が無い限り、各国の予選会に出て、国家の代表として参加するほうが賢明でもあったのです。当時の東側の政情も勘案すると、このような参加形態はむしろ、参加者の身の安全を確保する上で、有効なコンクール開催手段として定着していったのです。

 

■ コンクールの結果に関するスキャンダル  

 

 第1位に地元ポーランドのハラシェヴィチが選ばれ、第2位にソ連のアシュケナージが入ったことに関して、当時のコンクールが日本への情報量の少なさも加わって、後々までスキャンダルに近い騒ぎとなり、1980年のポゴレリチ騒動が起こるまでの話題を独占した感があります。ここには、はるばる日本から一人の聴衆として参加された、当時非常に高名な音楽評論家の発言も、大きく寄与されていたように見受けられます。

 確かにコンクール後の活躍の度合いや、両者のテクニックの差などを考えますと、情報量の少なさや海外の報道陣や音楽関係者のポーランド入国が限られていたことも相俟って、スキャンダルに近い扱いを受けたことは間違いないでしょう。さらに、ここに、あのミケランジェリが審査員として参加しており、彼の発言力ならびに審査員としての審査結果への署名を行わなかったことも加わって、騒動が大きくなってしまったようです。

 しかし、私は、この結果は特に驚くようなものでは無かったように思います。それは、第4回までの優勝者が、どちらかというと端正な音楽表現や、落ち着いたショパン演奏に対して、高い評価を与えられていた結果としての優勝のように感じますし、激しい感情を込めたショパンとか、技巧的なショパンに対してはそもそも参加者の嗜好自体が、当時はまだそのような方向には無かったように思えるのです。

 加えていえば、コンクール当時のアシュケナージは、非常に技巧的な一方で、表情をあまり表に出さない演奏をしており、現代風といえば確かに現代風であるものの、当時の審査員や聴衆には、精密機械に見えた部分も否定できないように思うのです。しかし、コンクールの結果としては彼に第2位を授与しており、私には特に不自然な結果とは思えません。少なくとも当時17歳になったばかりのアシュケナージは、現在のアシュケナージとはかなり様相の異なる演奏スタイルを、視覚的にも行っていたように思います。

 むしろ、第3位のフー・ツォンへの評価のほうが、私にはある種の驚きを与えてくれました。それは、音楽の様式面から捉えると、少なくとも当時のヨーロッパのピアニズムから判断して、非常に特異なスタイルを貫いており、たとえば日本からの参加者が比較的西洋スタイルに同化した演奏様式を取っているのに比べ、きわめて独自の解釈と独創性にあふれており、彼に第3位入賞を授与した審査員団に対し敬意を表したくなってきます。たいへん優れた審査員団による、進取の気風あふれた審査であったように思います。

 

(2010年8月8日記す)

 

2010年8月18日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記