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ショパン
- 舟歌 作品60
- 3つのマズルカ 作品59
- ポロネーズ第7番「幻想」 作品61
- 2つの夜想曲 作品62
- 3つのマズルカ 作品63
- 3つのワルツ 作品64
- マズルカ 作品68-4
マウリツィオ・ポリーニ(ピアノ)
録音:2015年5月、9月、2016年5月(ミュンヘン、ヘルクレスザール)
DG(輸入盤 479 6127)
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■ ポリーニのショパン
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今回取り上げるディスクは、発売されたばかりのポリーニの最新録音で、ショパン晩年の作品である作品59から64までと、ショパン絶筆の68-4を収録したディスクである。ちなみに、作品65以後の作品は、ショパンの死後に出版された遺作群であるが、その大半は若い時代の作品をまとめた死後出版であり、作品68-4のみが、最晩年のショパン絶筆のマズルカであるので、今回ポリーニが録音したディスクの収録曲には、明らかな一貫性があると言えるだろう。
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■ 再録音と初録音
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これらの曲目のうち、舟歌、幻想ポロネーズ、作品62の2曲の夜想曲に関しては再録音である。一方、7曲のマズルカと作品64のワルツは、初録音であるので、これらを区別して記すこととしたい。ちなみに、再録音の楽曲は、舟歌が25年ぶり、幻想ポロネーズは実に40年ぶり、夜想曲作品62は10年ぶりの再録音であり、ポリーニの長年の演奏姿勢の変化を比較するには、とても適した新ディスクであると言えるだろう。また、初録音の楽曲も、実際には大半が長年にわたりコンサートで取り上げてきた曲であり、私自身も多くはかつて生で聴いたことがある曲であるので、ある程度の比較は可能であると思われる。
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■ 舟歌と幻想ポロネーズ
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冒頭の舟歌は、前回は1990年9月の録音で、録音会場は同じミュンヘンのヘルクレスザールである。前回の演奏時間は8分36秒であり、今回は7分55秒と、今回の方が早めの演奏となっている。前回からちょうど四半世紀を経た再録音であり、どの程度の変化が見られるか興味をそそられる録音であった。先に結論を書くと、この舟歌に関しては幻想ポロネーズと異なり、響きの変化や残響の取り込み方こそ異なってはいるものの、楽曲全体の根本的な進行や、推進力を中心とした全体の解釈には大きな変化がなかったと言えるだろう。非常に前進性の強い推進力に満ちた演奏であり、ポリーニ本来の特質を彷彿とさせる如何にもポリーニらしい演奏であり、いつも通りのポリーニ節でこのディスクの幕は開くのである。この時点では、まさにポリーニここにあり、と言わんかとするようなディスク冒頭の堂々たる楽曲演奏であるのだ。
また、マズルカ作品59の後に置かれた幻想ポロネーズの演奏は、旧録音は1975年11月の録音で、録音会場は同じくヘルクレスザールである。前回の演奏時間は13分14秒であり、今回は11分31秒とかなり早めの演奏である。実に40年を経ての再録音であるためか、最も変化を感じ取れる録音内容となっている。根本的な違いは、旧録音におけるポロネーズ特有の強い打鍵と強い自己主張が、新録音ではかなり影を潜め、むしろ幻想性に焦点を当てた演奏に変化していることである。その分、幻想ポロネーズが、ショパン晩年の作品であることを、聴き手に自然に理解させてくれるような演奏となっているとも言えるだろう。かなりの大きな変化を聴きとることが可能である。演奏者の年齢的な側面とは異なった、単に表現技法に留まらない音楽自体の変化と深化が感じ取れるのである。そして、同時にポリーニ自身の内面の変化も伴った、そんな大きな変化にも感じ取れた。これは、本当に旧録音とは大きく異なった、別個の方向性を有した演奏であると言えるだろう。
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■ 夜想曲作品62
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前回の録音は2005年6月で、録音会場は同じヘルクレスザールである。作品62-1は前回が5分59秒で、今回が5分45秒である。作品62-2は前回が5分17秒で、今回が5分1秒であり、いずれの曲も今回の新録音の方が若干早い。ただ、録音が前回の全集録音からわずか10年後の再録音であるため、演奏の根本的な姿勢の変化が少ないのはやむを得ないであろう。ここでのポリーニは、前回から10年しか時期を隔てていないこともあって、さすがに大きな違いは特に感じ取れない。ただ、ポリーニは、ショパンをコンサートで取り上げる場合には、夜想曲をプログラムに組み込む傾向が強く、かつすでに夜想曲の全集録音も完成させているのだ。そんな長年弾き続けてきた安定感と自信を感じさせる、堂々たる夜想曲演奏であることは、間違いない。誰もの期待感を決して裏切ることのない演奏である。
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■ マズルカ作品59
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ライバルのアルゲリッチが1965年のショパン・コンクールで弾いた作品59の録音との比較に、誰もの目が行きがちとなるのはやむを得ないであろう。そのくらい、ショパンコンクールでのアルゲリッチのマズルカ作品59の演奏は鮮烈であったのだ。さて、ポリーニの作品59は、3曲とも非常に丁寧に演奏している。この点がまずは目についた。あとは、基本的には好き好きではあるが、ポリーニの若干遅めのテンポ設定は、楽曲を落ち着いて捉え、じっくりと聴き込むことが可能である。また、この録音は非常に美しいマズルカ演奏でもあると言えるだろう。ああ、マズルカを聴いていると言う感覚に浸らせてくれるポリーニの演奏は、私にとって非常に満足度の高いものであったし、得心のいく演奏でもあったのである。
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■ マズルカ作品63
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これぞマズルカ、とマズルカの新録音で膝を打ったのは、いったいいつ以来であったろうか。近年はコンクール等で、ポーランド流儀だとかフランス流儀だとか、常にくだならい議論が白熱する傾向が、遺憾ながら留まるところを知らない。しかし、突き詰めてみれば、本物のマズルカを聴きたいがまるで聴けない、こんなジレンマなのであろう。ポリーニの音楽性の根源を知らされた気がするほどに、このマズルカの演奏は、もはや忘れかけたヨーロッパの伝統そのものを思い起こさせてくれる。ヨーロッパに出自を持つ全ての舞踏音楽の録音の中でも、一際鮮烈な印象を与えてくれる最新録音であると言えるだろう。ポリーニ自身が舞っているようにすら思える素敵なマズルカの演奏である。
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■ ワルツ作品64
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この作品64には、あの有名な「子犬のワルツ」が含まれている。一般的なポリーニのイメージからは多少驚きを感じる方もおられるであろうが、ポリーニがコンサートでワルツを取り上げることは、実際には結構多いのである。演奏内容は、仮にブラインドテストをした場合、ポリーニのワルツ演奏を生で聴いたことがある方を除けば、ポリーニであると当てられないのではないだろうかと思う。そのくらい、全てにノーマルな、普通に優れたワルツ演奏なのである。ポリーニが一体どんな風に子犬のワルツを弾くのだろうかと、そんな疑心暗鬼を含めた妙な期待感をものの見事にはぐらかすほどに、普通に優れた演奏なのである。
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■ マズルカ作品68-4
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ショパンの絶筆である。あまりにも悲しく切ない音楽である。モーツァルトの絶筆であるラクリモーザと同様、決して涙なしには聴けない悲しみの音楽である。ポリーニならば、もっと突き放した客観的な演奏をするかと思いきや、悲しみの中心に弾き手自身が浸った、深い祈りの音楽を静かに奏でているのだ。こんなポリーニを聴くのは初めてであった。
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■ 全体を通じての感想
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まず、すべての再録音の曲で演奏時間が短くなったのには、3つの理由があると思えてならない。うち2つはプラス方向の変化であり、1つはマイナス方向への変化である。この点を順に指摘したいと思う。
第1に、音楽の流れが非常に自然になり、かつてのポリーニが自ら拒絶していたような、楽曲の流れに身を委ねるような自然体の音楽の進行を見せていることである。そのため、かつて時おり見られたある種のギクシャクした部分や、ポリーニの拘りが聴き手にきちんと伝わらなかった不自然さなどが見られなくなったのである。これらは、録音会場が40年にもわたって同じミュンヘンのヘルクレスザール(ここは、バイエルン放送交響楽団の本拠地でもあった)を用いていながら、今回の録音は以前のどの録音よりも、多くの残響が取り入れられていることからも分かるであろう。以前のポリーニならば、このような残響を取り込んだセッティング自体、決して認めなかったであろうと思われるのだ。
第2に、音楽にショパン晩年の作品特有の「諦めと前途への光明」を、今回の新録音からは明白に感じ取れることである。特に、今回のポリーニの演奏からは、前途へ立ち向かう精神的な推進力を強く感じるのである。過去の、作品を突き放したかのようなポリーニの演奏姿勢とは明らかに異なっていると思えるのだ。そして、この不思議な推進力は、音楽全体の活力を与えることにもつながっており、晩年の作品の絶望感からは遠い、作品の魅力を大きく引き出していると言えるだろう。
第3は、技巧的な衰え並びに年齢的な要因からもたらされる、フレーズとフレーズのつなぎ目部分における、多少寸詰まり的な間の取り方の小ささである。決して弾き飛ばしているのでも、弾き切れていないのでもないのだが、音楽のゆとりを少々削ぎ取った老人ならではのせっかちな音楽になってしまっている部分が、わずかだが存在していると思われるのだ。特に幻想ポロネーズに於いては、これらの良い点も悪い点も散見され、全体のスピード感としては旧録音とさして変わらないにも関わらず、演奏の総時間に於いて、結果的に大きく短縮された理由の一つであると言わざるを得ないのである。
しかし、今回の新録音における、音楽の自然な流れと、前途に立ち向かう推進力は、非常に大きな魅力となっているように感じ取れたのである。私は、少なくとも今回のポリーニの録音姿勢は、以前のポリーニの音楽作りよりも好ましいと考えるし、とても魅力的だとも思うのである。
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■ ふたたび、ポリーニのショパン
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彼は、ショパンのディスクを、過去にどの程度残しているのであろうか? 実はこれまで非常に多くのディスクを残しており、全集完成も決して不可能ではないと思われるくらいなのである。
ショパン・コンクールのライヴ録音や、後年になって発売を認めた正規ライヴ録音等を除くと、まずEMIに3枚残されている。コンクール直後の協奏曲第1番(1960年)、国際舞台復帰時のリサイタル盤(1968年)、そして長年にわたりお蔵入りし、近年になってようやくTestamentから出された練習曲全曲録音(1960年)の3枚である。続いて移籍したドイツグラモフォンからは、練習曲集(1972年)、前奏曲集(1974年)、ポロネーズ集(1975年)、ソナタ集(1984年)、スケルツォ集(1990年)、バラード集(1999年)、夜想曲集(2005年、2枚組)、作品33-38の作品集(2008年)、前奏曲集(2011年)を過去に録音しており、今回の新譜はドイツグラモフォンだけで実に11枚目にあたるのだ。都合、正規のスタジオ録音だけで、何と14枚ものショパンのディスクを残しているのである。
かつ、録音時期を並べてみると、ショパン録音に関してはほとんど切れ目なく続いていることにも気づくであろう。つまり、ポリーニの長い演奏活動の中心は、結局ショパンであったことは明らかであろうと思う。少なくともベートーヴェンやシューマンや現代音楽に関する取り組みには、各々一定の途切れた活動時期が存在しているのであるが、ショパンにはそのような途切れた時期がほとんど存在していないのである。
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■ これからのポリーニへの期待
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ポリーニのショパン全集完成への最大の関門は、やはりマズルカとワルツであろう。マズルカは、現時点までに作品30、33、59、63、68-4の都合15曲が残されており、ショパン・コンクールのライヴ録音を含めても未だ18曲に留まっているのだ。また、ワルツは作品34、64の合計6曲が残されており、同様にコンクールライヴを含めても7曲に留まっているのである。マズルカは全部で58曲、ワルツは19曲あるので、かなり多くの曲の録音がまだ残されているのである。
また、その他の小品のうち、重要な幻想曲、子守歌、舟歌は全て録音されているものの、即興曲が4曲のうち第2番以外は未だ録音されていないし、ボレロやタランテラ等も残っている。さらに、ポロネーズのうち第8番以後の9曲と、アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズも残っているが、ポロネーズは第7番までしか録音を残していない大家も多いのが実情であるし、そもそもショパンが7歳で最初に作曲した曲もポロネーズである(第11番)。そして協奏曲は、正規には第1番しか残されていないし、作品2,13,14,22の管弦楽伴奏つきの楽曲も、現時点で録音を残していない。
いろいろと並べ立てたが、せめてマズルカとワルツの全集、これに2曲の協奏曲辺りは何とか録音を完成させて欲しいと念願しているファンは数多いと思われる。そして、今回の新録音で見せたマズルカとワルツの録音の優れた内容から、残りのマズルカとワルツ録音への期待もどうしても高まるのである。今回の新録音はそのような意味合いを持ち、また感想を抱いた次第である。
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■ 弾き手の期待と、聴き手の期待
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ポリーニは近年、少なくとも日本では急速に人気が衰えているのは事実であろう。これは、やはりポリーニの超絶技巧が衰えたことに原因の大半があるのは明らかである。聴衆とはもとより残酷なものであるのだ。しかし、その一方で、プロアマを問わず、ピアノを弾くことを常とするグループからは、現時点でも決して注目度が落ちているとは思えないのである。むしろ、ポリーニと自身との絶望的な距離感が若干狭まり、弾き手のかろうじて手の届くところにまで、ようやくポリーニが舞い降りてきたようにすら感じ、ポリーニに初めて親近感を抱いた、そんな弾き手すらいるように思えるのである。
ピアノを嗜む人は、日本には数多く存在している。これらの愛好家の期待に、ポリーニは今後もぜひ応えて欲しいと念願してやまないのである。それだけの功績を、ポリーニはかつてピアノ界に残してきたと信じている。ポリーニに対する、残された将来に対する期待感は、まだまだとてつもなく大きいのである。少なくとも、ピアノを弾くことを一応続けている私はそのように感じ、これからも期待し続けているのである。
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(2017年2月7日記す)
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