ブレハッチのピアノで「ショパンピアノ協奏曲集」を聴く
文:松本武巳さん
ショパン
ピアノ協奏曲第1番ホ短調op.11
ピアノ協奏曲第2番ヘ短調op.21
ラファウ・ブレハッチ(ピアノ)
イェジー・セムコフ指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団
録音:2009年7月コンセルトヘボウ、アムステルダム(ライヴ:第1番)
ドイツ・グラモフォン(輸入盤 4778088)(参考盤)
ショパン
ピアノ協奏曲第1番ホ短調作品11
タマーシュ・ヴァーシャーリ(ピアノ)
イェルジ・セムコフ指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
(国内盤の表記に従いました。なお、輸入盤は2番もセムコフ指揮とクレジットされておりますが、誤りです)
録音:1963年7月
ドイツ・グラモフォン(国内盤 UCCG5048)■ 久々の、欧州本流派ピアニスト
ラファウ・ブレハッチは、2005年のショパン・コンクールで、全員一致の結果で優勝を収めたポーランド出身の若いピアニストです。彼のキャリアは開始されたばかりですが、前回のコンクールから、インターネットで配信されるようになり、私も毎夜眠い目をこすりながら、コンクールを聴いておりました。
ブレハッチとの出会いは、伝説としては聞いたことがあったものの、実体験としては恐らく今後も経験することは無いであろう、第1次予選の冒頭の楽曲(それも1分の楽曲です)を聴いただけで、「他の出場者との根本的な違い」と「多分彼が優勝するであろう」2つのことを、私に想起させたからです。しかし、この感覚は、同様にインターネットに深夜かぶりついていた仲間内で、実際に多く囁かれた事実でもありますし、私自身本当にそのように感じたからこそ、あえて紹介している次第です。
私は、新しい世代のデビュー時に、良く使われる宣伝文句としてでは無く、真にコンクールの時点から、ある演奏家を追いかけている自分に出会ったのは、本当に初めてのことでした。その後、私は彼の「追っかけ」となっている自身に、何らの不満もありません。実際に、優勝記念の2006年冬の来日公演では、ピアノ好きの著名な華道家と連日隣り合わせになり、声をかけられる始末ですし、その後も私の熱は全く冷めることなく、2008年8月のザルツブルク音楽祭デビュー・リサイタルも、わざわざ当地まで聴きに行き、すでに彼の公演には、10数回聴きに行っている始末です。一体、なにが私をここまで駆り立てたのか、彼の魅力は一体どこにあるのか、このあたりを少々書いてみたいと思います。
■ ポーランド第二ラジオでのインタビュー
2005年のショパンコンクール・ライヴ配信以来、ときどき訪れているサイトで、お気に入りにも登録しているのですが、ここでたまたま今年の8月9日に、ブレハッチの新譜に関するインタビューが放送されました。その内容に関しては、私の語学力の限界もあって、正しく聞き取れている保証など全く無いのですが、ここに大筋を箇条書きでご紹介したいと思います。
- ショパンの協奏曲を録音することは、DGとの3枚の録音契約で、当初からあったこと。
- コンセルトヘボウとの共演は、ブレハッチが望み、実現したこと。
- 当初は、ヤンソンスが指揮をする予定であったが、ブレハッチ自身が、セムコフ指揮での録音を希望して、オケとDGに受け入れられたこと。
- 指揮者はオーケストラに、木管楽器を明瞭に引き出すことを提案し、オケもそれを受け入れたこと。
- 協奏曲冒頭のオケの独奏部分は、協奏曲がこれからどう展開するのか決まるので、オケと指揮者の選択は非常に重要であること。
- アゴーギクや色彩、ダイナミクスの変化についての提案を注意深く聞いてくれ、ブレハッチはヘボウの音色に深く魅せられたこと。その結果として、第2楽章はオケとピアノの美しい対話が得られたこと。
- オケは第3楽章のポーランドの舞曲を雰囲気豊かに演奏したこと。実際にこの部分を試聴したとき、オケの面々が自画自賛したこと。
- 現在、ピアノに関しては、大家との話し合いや議論は重視するが、師弟関係は誰とも持っていないこと。
- ブレハッチは、今年から大学院で「哲学」を専攻しており、学位取得を目指して研究を継続する予定であること。
- DGとは、新たに3枚のディスクを制作することに合意したが、今後は当面録音する予定は無いこと。
■ 指揮者セムコフについて
イェジー・セムコフは、ポーランドの巨匠で、かつてシューマンの交響曲全集や、モーツァルトの交響曲選集、最近ではマーラーやブルックナーの演奏でも定評があること、これらは多分ほとんど知られていないと思います。なお、彼は、2006年の5月に「熱狂の日…ラ・フォル・ジュルネ・オゥ・ジャポン」で来日し、モーツァルトの交響曲29番と、ピアノ協奏曲9番(ルガンスキーのピアノ)の指揮をしております。この公演を生で聴いたことは、私にはとても大事な経験となりましたが、その時点では、かつてVOXレーベルに録音したシューマン交響曲全集の指揮者と同一人物であることには、遺憾ながらコンサートの当日は、最後まで気付きませんでした。
■ ブレハッチのピアニズムについて
ブレハッチの演奏は、ヨーロッパ・ピアニズムの伝統に根付いていると思います。だから誰かを模倣しているのでは全くありません。彼は彼自身の学識と演奏技術によって、ショパンの持っている独特のテンポであるとか音楽の本質や舞曲のリズムを本当に難なく、非常に自由に、かつとても自然に弾きこなすのです。その典型例が、ショパン・コンクール冒頭の1分間(作品28-7)であったと思うのです。
■ ブレハッチの新譜について
この新譜でまず特筆すべき事実は、オーケストラとピアニストと指揮者の3者が、ほとんど完璧に調和していることだと思います。どの演奏者も決して出っ張ったり目立とうとしたりしていないのです。ピアニストも自分が前面に出て、自己主張をしようとはしていません。他の多くの若いピアニストの録音では、自分を売り込むためにも必須の能力と看做されているにもかかわらず、ブレハッチはそのような恣意的な主張や方策を利用していないのです。彼はとても繊細ながら、一方で伝統に立脚した威厳を感じさせる演奏を行い、世界有数のオーケストラの団員も、彼らと同等の立場で演奏することを許したと考えられるのです。2008年に、ブレハッチは、コンセルトヘボウとの共演経験をすでに持っていますが、両者の関係は、そんなに多くなく、深くなかったにも関わらず、ブレハッチはオケのメンバーの信頼を勝ち得ているように思えます。
ブレハッチはショパン弾きのレッテルを貼られないように、意識的に活動していると思います。ショパンの前奏曲の録音をDGから発売(DGへのデビュー盤)したわずか半年後に、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンの古典ソナタ集を録音し、高い評価を得ました。彼の演奏は決して何かをひけらかさない演奏に徹しています。恣意的な解釈も全くありません。ブレハッチは、過去の演奏を良い意味で参考にし、取り込んでいます。彼はヨーロッパやピアノ演奏の伝統に立脚する一方、自分独自の演奏様式もきちんと提示しています。まるで女性のように軽やかさの伴う繊細さと同時に、ショパンの伝統への忠誠心を痛感させる演奏方式、こうしたブレハッチの演奏の特徴は、かつての、ポーランドが生んだ偉大な女流ピアニストの系譜を、聴き手に思い起こさせる演奏でもあるのです。
■ この録音での指揮者について
ポーランド生まれの偉大な指揮者イェジー・セムコフは、ショパンの2つの協奏曲から、若書きの軽やかさや大胆さを、正しく表現しています。常に無理の無い適切なテンポを維持しつつ、虚勢を張るところが全く無い誠実な指揮振りとなっています。このアルバムでは、普通は消えてしまったり、他の音に紛れ込んだり、流れるテンポに押されてきちんと響かせることができなかった音が、ちゃんと聴こえてきます。本来、聴こえて来なくても仕方がないような、そんな音ではあっても、ショパンとポーランドを思い起こすとき、聴こえて欲しいと願う、そんな音たちが、奇跡的にきちんと聴き取れるのです。ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の清らかな楽器の音色が大きく寄与していることは間違いないと思います。
ここで参考盤として、1963年にセムコフがベルリン・フィルと、ハンガリーの若手ピアニストであったタマーシュ・ヴァーシャーリの伴奏を務めたディスク(セムコフは1番のみの伴奏)を挙げておこうと思います。このディスクで、ベルリン・フィルと指揮者の関係は、必ずしも上手く行っていないように聴こえます。かなり強引にオーケストラをドライヴしており、オケも指揮者の要求にきちんと付いてきておりません。ベルリン・フィルらしからぬ、ギクシャクした演奏(伴奏)に終始しております。いくら、今回の録音の46年前とはいえ、同じ指揮者とは到底思えません。たまたま、両方ともにドイツ・グラモフォンによる録音であることや、両方ともにメジャーオケによる伴奏であるにもかかわらず、全く演奏内容やレベルが異なっているのは、セムコフのその後の経験や成長が、大きく関係しているのかも知れません。そのくらい、旧盤はピアニストの瑞々しさは感じ取れるものの、指揮者との関係も、指揮そのものも二流の伴奏にとどまっております。
いかに、指揮者が人生の過程で成長しているのかを聴き取る上で、比較してみるのも良いかも知れません。私にとって、大満足のディスクとなっており、宝物が増えた喜びに浸っているところです。
- 海外各誌のレビュー等、私はブレハッチの大ファンであるため、大概のものは読んでおります。今回の文章には、他人の意見と同旨の内容が含まれていることも多々あるものと考えられますが、何卒ファンの心理として、共通認識を持った意見に大きく左右される傾向があることをご理解ください。逆に言えば、今回の文章には、私独自の見解はほとんど含まれておりません。この点、予めお断りとお詫びを申し上げます。一人のファンの、紹介記事として、寛容とともにご笑納くださると、とても幸甚です。
(2009年11月5日記す)
2009年11月8日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記