アンドレイ・ガヴリーロフ‐名盤紹介+@

文:松本武巳さん

ホームページ What's New?
「音を学び楽しむ、わが生涯より」インデックスページ


 

1.1977年録音。
超絶技巧ピアノ曲集
(まさに聴き手を唖然とさせた実質デビュー盤)

2.1977年録音。
チャイコフスキーの協奏曲
(痛快な技巧‐指揮:ムーティ)

3.1985年‐87年録音。
ショパン練習曲集
(評価が分かれた超絶技巧)

4.ショパンの葬送ソナタ&バラード
(EMIに1985年、DGに1991年録音=ジャケットはEMI)

5.1987年録音。
シューマンの2つの謝肉祭
(自己崩壊への萌芽を感じ取った演奏)

6.1989年録音。
アシュケナージの里帰り公演に同行(ラフマニノフ「協奏曲第2番」)

7.1992年録音。
ゴルトベルク変奏曲
(意外なほど規範的な演奏)

8.1999年9月10日ライヴ
(悲劇的な失速)

 

その後、一切の消息を絶つ・・・

 

■ 英The Guardian,2006年12月21日の署名記事(Stephen Moss)より 

 

Andrei Gavrilov was a teenage superstar with the world at his feet. But then he crashed and burned. One morning in 1993, he decided he couldn't make the journey from Frankfurt to Brussels to play that evening. "I suddenly realised I was not going to play this concert," he says. "It came spontaneously. I called my agent in Belgium and said, 'I'm not coming.' He said, 'Don't be crazy, we are sold out and the Queen is attending.' I couldn't really even explain what was happening to me."

But there were more prosaic factors at work, too: a move to Lucerne, Switzerland, in 2001; a second marriage to a young Japanese pianist and the birth of a son; as well as a number of supporters determined to help him resurrect his career.

With the help of wealthy Swiss benefactors, Gavrilov is performing again. It is difficult to know what this second coming will amount to. He is now 51, no longer young in an ultra-competitive world that thrives on new pianistic sensations. The music business had written him off, and his rejection of its values, his bombast, will not endear him to it. There is always a danger that his nerves will get the better of him, that the Queen of Belgium will again be disappointed.

But the day after he and I talked, he gave a sell-out concert at the Lucerne piano festival - nine Chopin nocturnes in the first half, Prokofiev's Sonata No 8 in the second. The audience was rapt, the standing ovation instantaneous. Knowing his story, I found his playing deeply moving, his theatricality on stage - he has always been a showman - overwhelming. A veteran critic sitting next to me thought he took too many liberties with the Chopin, but I found it thrilling.

(以上は、下記リンク先から一部分を抜粋引用したものです。日本語への翻訳は、著作物の二次使用に当たりますので、控えさせて頂きました。記事全文はリンク先から直接お読みください。)

 

■ ガヴリーロフの過去と現在 

 

 画家の父とピアニストの母親の間に生まれたアンドレイ・ガヴリーロフが、一躍脚光を浴びたのは1974年、18 歳で「チャイコフスキー国際コンクール」で優勝した時でした。同年ザルツブルク音楽祭の舞台にも立った彼は、80年代前半は国外活動を制限されていたものの、ゴルバチョフ政権成立とともに西欧に活動拠点を移し、世界を飛び回る毎日を送るようになります。当時EMIやDGからはCDが続々と発売されました。当時の彼には『演奏不可能な曲は無い』と周囲に思われたようです。

 そんなガヴリーロフの人生は1993年に暗転します。きっかけは、コンサートの「ドタキャン」でした。ベルギー女王が臨席予定であったコンサートを突然キャンセルしたのです。さらにウィーンでリサイタル途中に、ステージから姿を消すという事件を引き起こした彼は、業界から干されます。8年間の音楽活動休止期間、ガヴリーロフは多くを失います。妻と息子も離れていきました。

 当時ガヴリーロフは、芸術的にも暗中模索でした。コンサートから遠ざかっている間も、自らの音楽を追求しますが、心身ともに疲弊し、復帰を諦めかけた時期もありました。このような長い日々を経て、突如音楽に開眼したのです。ガヴリーロフは、音符の意味やメッセージが理解できるようになったと考え、音楽界に復帰します。

 若い日本人ピアニストと再婚し、演奏活動を支援するパトロンも得たガヴリーロフは、私生活でも安定を再び得ました。そんなガヴリーロフが、実質的な復帰コンサートで、ショパンの「夜想曲集」とプロコフィエフ「ピアノソナタ第8番」を取り上げました。後述しますが、夜想曲の方はインターネットで聴くことが可能ですし、この日のコンサートが、冒頭の英文記事の基になっています。

 

■ いくつかのディスクの感想‐備忘録として

 

 ご紹介した各ディスクには、詳細なデータをあえて掲出しておりません。それは2つの理由があります。一つは、すでに多くが廃盤であること、もう一つは、今後の彼を見守りたい気持ちから、過去の名盤への感想を、備忘録として残して置くにとどめたいと考えるからです。

 彼は、メロディア、EMI、ドイツ・グラモフォンを中心に、これまでに30数枚のディスクを残しました。これらは、1974年のチャイコフスキー・コンクール・ライヴ録音の2枚から始まり、1993年のドイツ・グラモフォンへの「グリーグ《叙情小曲集》抜粋盤」で終わりを告げています。初期と、80年代前半がメロディア、77年から90年ごろまでがEMI、最後の3年間がドイツ・グラモフォンへの録音でした。

 他にDECCAへの録音が2枚あり、いずれもアシュケナージとの共演です。1枚目が1989年に、春の祭典(ストラヴィンスキー)の2台のピアノ版(アシュケナージをむしろ押していたのが印象に残っています)の録音と、同年のアシュケナージの里帰り公演(ロイヤル・フィル)に同行し、ラフマニノフの2番の協奏曲をアシュケナージの指揮で演奏した、以上2枚がありますが、この2枚は当時のアシュケナージの録音契約の関係で、DECCAへの録音になったものと思われます。

 

■ 1999年のライヴ録音について 

 

 その後、1993年ごろから上記記載の事情もあり、ガヴリーロフは変質し、姿を消してしまったのですが、K+K Verlagsanstalt から2000年に突如、1999年9月10日のライヴ録音が登場しました。マウルブロン修道院でのライヴ録音で、南ドイツ・ヴュルテンブルク所在の、シトー会修道院(本部はフランス)で、1993年に世界遺産に登録されている修道院です。この修道院回廊でのコンサートは、毎年行われており、1999年にガヴリーロフも参加したわけです。この録音は、現在も入手可能な上、音の良いホールでの良い録音です。

 ここでのガヴリーロフは、別人とかの形容で済まされるような生易しいものではなく、オールショパン演奏ですが、そのすべての楽曲で、演奏が崩壊してしまっているのです。解釈も技巧もともに衰えたなどとか、当日不調だったとか、そんな言葉で済まされるレベルを遥かに超越した、それはそれは神様ですら、到底信じ難い光景であっただろうと思います。

 たとえばエチュードの作品10−9も弾いていますが、弾くだけであるならば、初学者でも演奏可能なエチュードのうちの1曲として知られていますが、ものの見事に技巧そのものが崩壊しています。この演奏を聴いた誰もが、ガヴリーロフが変調を来たしたのは「精神」であることを、無言のままに察知し、理解し、そして悟ったと思います。

 私は、このまま彼は消えてしまうであろうと思いました。私には、ガヴリーロフが重篤な精神疾患である方が、非常に逆説的ではありますが、寧ろ私の内心を説得できたのです。そのくらい、ショックとか衝撃とか、そんな言葉すら到底思い浮かばないほどの、まさに「インパルス」だったのです。

 

■ 2006年暮れの劇的な復活劇 

 

 そんなことがあり、私の脳裏から意図的な部分を含めて、只管抹殺に努めてきた彼の名前を久しぶりに見たのは、奇跡的な英字での紹介記事でした。この紹介記事の全文を、現在でもインターネットで読むことが叶います。

 さらに、うれしいことに、現在はガヴリーロフの公式サイトも存在しています。そこで、過去の名演とともに、2006年の復活の際の、ショパンの夜想曲の演奏が、mp3で公開(無料ダウンロード可)されているのです。彼のプロフィールも、ディスコグラフィも掲載されている上に、今後の予定まで掲載されております。
http://www.andreigavrilov.com/4601.html

 過去を偲ぶための縁としてではなく、将来に向けて、彼の業績を紹介する必要も、どうやらなさそうな状況です。そこで、1.から7.のディスクは、ひと言寸評を残すだけにしたいと思います。この寸評は、ガヴリーロフが完全復活の暁には、各ディスクの評論としてリライトすることが叶うであろうと信じます。そこで、7枚の名盤のディスク詳細は、すべて割愛したいと思います。

 心を病んで、表舞台から消えていく演奏家は、想像以上に多いように感じますが、このたび無事に癒えて表舞台に戻ってきた一人のピアニストを、大昔興奮しながら聴いていた聴衆の一人として、心から彼の復帰を喜び、そして祝福して迎えたいと思います。

 

(2009年10月7日記す)

 

2009年10月8日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記