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マーラー:交響曲第2番(復活) シャルロッテ・マルギオーノ(ソプラノ)
ヤルド・ファン・ネス(アルト) ドレスデン国立歌劇場合唱団、ドレスデン交響合唱団
ベルナルド・ハイティンク指揮シュターツカペレ・ドレスデン 録音:1995年2月13日、ドレスデン、ゼンパーオパー
Profil (輸入盤 PH 07040)
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■ 演奏の経緯について
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- 1895年、マーラーの交響曲第2番が初演されてから、ちょうど100年後の演奏。
- 1945年2月13日、連合国軍によるドレスデン絨毯爆撃から、ちょうど50年後の演奏。
- 1985年2月、ゼンパーオパー復興から、ちょうど10年後の演奏。
ちなみに、1990年、ドイツ軍によるロッテルダム爆撃50周年演奏会(ロッテルダム・フィル)でも、ハイティンクは当曲を取り上げており、録音も残されている。
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■ ハイティンクのマーラー交響曲第2番
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コンセルトヘボウ首席指揮者時代の早い段階で、交響曲の全集録音を完成させたハイティンクは、これまでにレコーディングと並行して実演でも数多く、マーラーの交響曲を取り上げてきた。豊富な実績から現代屈指のマーラー指揮者であったハイティンクによるこのライヴ録音は、第二次大戦下の連合国軍による「ドレスデン絨毯爆撃」から50周年にあたる1995年2月13日に、ハイティンクがシュターツカペレ・ドレスデンを指揮して、ドレスデンのゼンパーオパーでおこなったコンサートの模様を収めたもので、ハイティンクにとってこの交響曲の実に8つ目の正規録音である。
ドレスデン絨毯爆撃が行われた2月13日に毎年追悼演奏会をおこなうのが、シュターツカペレ・ドレスデンの恒例行事となっている。マーラーの交響曲第2番は、葬送行進曲に始まり、最後は大合唱を用いた感動的なフィナーレで閉じられる、極めてドラマティックで聴き映えのする大規模作品であり、ハイティンクは前述の通り、かつて1990年にドイツ軍によるロッテルダム爆撃50周年記念演奏会でも、この作品を取り上げた経験から、ここでもハイティンクはマーラーの交響曲第2番を取り上げたものと考えられる。
ちなみに、シュターツカペレ・ドレスデンとの共演にあたり、ハイティンクはソリストに、1990年のロッテルダム・フィル、1995年のコンセルトヘボウとの演奏と同様、オランダ人歌手、マルギオーノとファン・ネスを起用して臨んでいる。後年2002年、ハイティンクは急逝したシノーポリの後任として、シュターツカペレ・ドレスデンの首席指揮者に就任しているが、運営上の問題から短期間で辞任することになった。
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■ 第1楽章:22分30秒
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やや遅目の演奏である。マーラーが以前作曲した交響的断章「葬礼」に加筆した楽章である。マーラーのこの交響曲の長大な第1楽章は、激しい弦のトレモロに乗り、チェロとコントラバスが地底から呻くような、まさに地響きのように開始される。その後一転してヴァイオリンの天国的に美しい調べに変わる。その後も、地獄と天国をまさに行ったり来たりしながら第1楽章はゆっくりと進行していく、そんな恐るべき壮大な楽章となっている。マーラー自身は第1楽章終了後、5分間の休憩を取ってから第2楽章を開始するように、スコアに指示を残している。
ハイティンクは、シュターツカペレ・ドレスデンの特質を生かすために、彼自身の他の同曲の録音よりも意図的にやや遅めに演奏したと思われる。非常に細かい速度変化を繰り返し指示し、まるで心の襞のような詳細な表情付けが連続している。展開部に入っても、さらにコーダに至っても同様に遅目の演奏であるが、理性でコントロールされ計算され尽くした、それでいながら振幅のとても大きな荘厳な演奏である。ちなみに、この楽章に限らず、弱音部分が演奏全体を支配しているのが、この交響曲演奏のもう一つの大きな特徴と言えるだろう。
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■ 第2楽章:10分43秒
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やや遅めの演奏である。第1楽章とは正反対に、ゆったりと優美に旋律が歌われる歌謡的な楽章である。中間部で一度雰囲気が荒々しく変化するものの、すぐに元の優美な雰囲気に戻る。この楽章はつかの間の休息を楽しむかのように、ゆったりとした雰囲気で進行していく。この楽章におけるハイティンクの弱音の取り扱いは、特に強く印象に残る。構造的で実に雄大な演奏であるにもかかわらず、ゆったりした優美な旋律があまり目立たないために、楽章全体の印象がやや弱くなってしまう欠点があるように一見思えてくる。しかし、逆に言えば、弱音の注意深い取り扱いのおかげで、雄大な構造面がきちんと示され、優美さが単なる甘美に堕することがないように、しっかりと踏みとどまっている秀演だとも言えるのではないだろうか。
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■ 第3楽章:11分46秒
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やはりやや遅めの演奏である。第3楽章はティンパニの一撃で開始されるが、マーラー自身の歌曲集「子供の不思議な角笛」から素材が転用されている楽章である。とても明るく楽しく魅力に満ちた楽章で、一度聴いたら強く印象が残ると思われる。ハイティンクは遅いテンポでかなり細かく精密に全体を描写しているが、本来この第3楽章はスケルツォ楽章であるため、もう少し前に向かう推進力があっても良いように感じられる。全体のバランスはきちんと取れているものの、さすがに少々疲れ気味になるところもあるように思われる。コーダに入ると途端に盛り上がりを見せており、劇的な終楽章を聴き手にそれとなく予告するような指揮ぶりで楽章を閉じているが、このハイティンクのライヴ録音で、私にとって若干の不満が生ずる唯一の楽章となっている。
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■ 第4楽章:5分15秒
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引続きやや遅目の演奏である。「原光」と題されたこの第4楽章も「子供の不思議な角笛」から素材が転用されている楽章である。アルト独唱で「わたしは神から出たもの、そして神の御許にふたたび戻る」と歌われていて、とても効果的で美しい音楽であると同時に、終楽章に向けての大事な導入ともなっている短い楽章である。ハイティンクが長年にわたって重用し続けているアルトのファン・ネスは、非常に美しい声の持ち主であり、かつ正確な歌唱力を持ち合わせており、指揮者との信頼が厚い関係にあることが十分に窺える、優れた出来となっている。
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■ 第5楽章:36分08秒
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これまたやや遅目のテンポを基調としているが、展開部以後では抑揚が大きく強くつけられており、これまでとは一転して、むしろやや速めの演奏となる箇所が散見される。テンポ・ルバートなども、穏健なハイティンクとしては効果的かつ意識的に多用されており、非常にメリハリの付いた演奏と言えるだろう。
この終楽章は、最後の審判の場面と復活の音楽を基本とし、クロプシュトックの「復活する、そう、復活するだろう」が用いられている。しかしながら、マーラーによる加筆部分から判断すると、必ずしもキリスト教の復活信仰を表す音楽ではなく、生死を永遠に繰り返す壮大な宇宙観や、深遠なる自然界の摂理といった、音楽を遥かに超えた壮大な内容がこの終楽章に込められていると言えるだろう。極めて長大かつ壮大な楽章であり、大きく3部に分かれている楽章であるとみなされている。
第2部の行進曲の途中で、突然"Pesante"になる箇所などは、凡そハイティンクとは思えないほど大見得を切った指揮ぶりで、会場内にいた聴衆は間違いなく強い感動を覚えただろう。第3部の最後は「蘇る、そうだ、お前は蘇るだろう。おお信ぜよ、わが心よ」と、パイプオルガンの大音響をベースとして、オーケストラも合唱も大音響で応じ、誇らしく高らかにかつ荘厳に歌われ、長大なこの交響曲が閉じられる。まさに感動的なフィナーレだが、ハイティンクがここまで劇的にスケール雄大に楽曲を歌い上げることは、彼としては非常に珍しい指揮ぶりであると言えるだろう。
この終楽章も、冒頭から引き続き弱音が効果的かつ特徴的に用いられ、一方でディナーミクをかなり強調したメリハリの効いた指揮をハイティンクは行っている。シュターツカペレ・ドレスデンの弦楽器群の、消え入るような弱音から迫力満点の強奏まで、特徴ある幅広い表現力を存分に生かしたハイティンクの指揮ぶりであり、このオーケストラの基礎的な能力なくしてはあり得ない演奏スタイルだったと言えるだろう。
終結部は、非常に長い静止部を経て、実にゆっくりと荘厳に声楽が入ってくる。終結部ではあまりテンポを揺らさずに、むしろインテンポで押し通すことによって、この交響曲の壮大かつ荘厳な雰囲気を余さず表現していると言えるだろう。最後は非常に荘厳でありながら、同時に劇的かつ効果的に演奏されて、まさに感動的な形で曲を閉じている。
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■ 全曲を通じての感想
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ドレスデン絨毯爆撃50周年、ゼンパーオパー再建10周年という記念式典での演奏会であり、重厚かつ劇的な名演となっている。ただし、中間楽章では前述の通り、進行の遅さが重さや推進力の欠如となりかかっている。全体を通して、凡そハイティンクらしからぬ劇的かつ振幅の大きな演奏であるが、この演奏会の開催目的や楽曲の本質を合わせると、十分成り立つ話であると思う。確かにハイティンクに求める演奏スタイルからは、この録音は多少異質であると言えるだろう。
しかし演奏が途中で妙に煽るように高揚するわけでもなく、インテンポでしっかりと終着点に向かって着実に進んでいる。そして終楽章に入ると、これまで抑えてきたエネルギーが一気に外に向かって出され、盛り上がって行くのだ。ドレスデンにとって、特別な日に行われた、実に式典に相応しい演奏であったと言い切れるだろう。
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(2020年6月11日記す)
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