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ホルスト 組曲「惑星」作品32
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ウィーン国立歌劇場合唱団 録音:1961年9月(ウィーン・ゾフィエンザール)
DECCA(国内盤 UCGD 9025)(SACD)
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ホルスト 組曲「惑星」作品32
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
RIAS室内合唱団 録音:1982年11月(ベルリン)
DG(輸入盤 439 011-2)(CD) |
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■ 毀誉褒貶の極端なウィーン・フィル盤
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この1961年録音のDECCAにおけるカラヤンとウィーン・フィルの録音を絶賛するグループの最大公約数的な見解は、一つにDECCAによる黄金期の録音(俗にいう「デッカサウンド」)であること、二つに当時のウィーン・フィルによる演奏であること、三つにカルーショーがプロデューサーであったこと、などの外面的な評価が大きな比重を占めているようである。その一方で、演奏自体の詳細な分析については、意図的に問題点を避けて通っているようにも見受けられるのである。録音芸術(音作り)として完璧であることを前面に押し出し、このディスクがベストセラーを記録した事実を補強材料とし、肝心の指揮者の演奏姿勢や楽曲解釈、オーケストラの技術面などの評価は、この盤の評価対象としては二の次となっているような評論が、意外なことにむしろ多数派なのである。
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■ 評価が割れる再録音盤
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一方の1982年のデジタル録音での、ドイツグラモフォンにおけるカラヤンとベルリン・フィルの再録音盤は、非常に雑な演奏であるとの辛辣な非難から、これぞ完璧な演奏であるとの手放しの賞賛まで、評価がものの見事に割れているのである。ここまで極端に評価が割れたのは、一体どのような理由や経緯があったのであろうか。そもそも指揮者カラヤンの直接の責任とは言い難い事実として、この新録音の再発売時のどこかの時点で、「火星」冒頭の金管楽器のミスが疑われる部分を、どうやら補正したらしいことであるとか、全般的な楽器間のバランス補正を再発売時に行ったように思われる点などが挙げられるであろう。また、初発売時よりも各惑星間の全体的な録音バランスも多少改善されて良くなっているように感じられる。これらは、そもそも指揮者の責任として捉えるべきか否かも含め、このディスクの評価に大きな影響を与えているように思われる。
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■ いったい何がエポックメイキングだったのか?
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日本での一般的な見解は、カラヤンがストコフスキーの録音を聴いて、この曲を録音しようと思い立ったこと、これに黄金期の優れたデッカサウンドがあいまってまさに爆発的にレコードが売れ、この曲のエポックメイキングなディスクであることが、一般的事実として確立していたこと、などが方々で述べられているようだ。しかし、一方で本来重要だと思われる初演者ボールトの録音内容との比較は、なぜかあまり重要視されておらず、ましてや何故にカラヤンがこの曲を録音したかといった契機や動機が、単に指揮者の個人的な独断であるようにすら、捉えられてしまっていると思われてならないのだ。
それはそうと、むしろウィーン国立バレエ団の過去の公演記録と照合してみると、「惑星」は「ジゼル」などとともにこの時期に、演目として取り上げられていたことに気付くだろう。海外ではこのような指摘の方がむしろ目立っているようである。私にとって、カラヤンの録音意思が仮にストコフスキーの録音に接したことが、当初のきっかけであったとしても、一方の当事者であるウィーン・フィルにとっては、「惑星」がバレエ団の新たな演目に入っていることの方が、よほど楽曲を取り上げる契機として穏当かつ妥当な理由づけであると思うのだが、如何であろうか?ましてや、カラヤンとウィーン・フィルは、「ジゼル」の録音もほぼ同時期に行っているのである。
なお、蛇足ではあるが、「ジゼル」はバレエの演目としては、これをクラシックバレエのベストワンとして挙げるバレエファンが多数いることを指摘しておきたいし、ウィーン・フィルのメンバーはもとより国立歌劇場管弦楽団のメンバーでもあり、国立バレエ団とも無縁な団体ではないので、伝統的演目である「ジゼル」の場合以上に、新演目であった「惑星」を、事前にどこかで取り上げておく必要性を感じたことは、ウィーン・フィル側の事情として見ても、十分に予想可能な事情であったであろうと思われる。
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■ ウィーン・フィルの悪癖とも受け取れるディスク
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61年盤の演奏内容で、基本的に大きな問題があると思われるのは、少なくとも以下の4ヶ所であるだろう。まず、「火星」では、5拍子のリズムがかなり不正確に刻まれており、音楽の推進力である程度誤魔化してはいるものの、全体的に落ち着きがなくバランスも悪い。つぎに、「水星」では、アインザッツがまるで揃っていないため、楽曲全体がバラバラに聴こえてしまうところが否定しえない。さらに、「木星」では、下降音型と、上昇音型の扱い方が明らかに異なり、演奏姿勢が矛盾していると思われる。下降音型のみ、カラヤンお得意のレガート奏法で演奏しているのは、さすがに如何なものであろうか。そして、「天王星」では、変拍子がきちんと刻めていないために、全体的にかなりギクシャクした進行となってしまっているのだ。これらの問題点は、冷静に聴けば誰しもが指摘可能であるだろう。
ところで、ウィーン・フィルは、たとえばチェコやハンガリー生まれの指揮者や音楽作品に対して、相手の格次第では舐めてかかることが多々あることは、良く知られた事実であろう。ウィーンから見れば、同様に音楽過疎地とも言えるイギリスの現代音楽に対しても、優秀な指揮者が明確な意思を示さない場合には、十二分に舐めてかかる危険性が伴う事例であっただろうと予想できる。ところが、さすがのカラヤンといえども、61年当時はこの曲を決して熟知していたわけではないので、そこまで明確に楽曲を把握し、かつウィーン・フィルを統率しきれていたわけでは、どうやらなさそうである。それ故、ウィーン・フィルはまるで同時期のクーベリックが指揮した際に残された、多くのとても残念な録音のように、彼らの癖としてかなり舐めた対応をしてしまっていると思わざるを得ないのである。でないと、いくら何でも上記のようなお粗末なミスのテンコ盛りとはならないだろうと思われるのだ。
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■ カラヤンの真意はどこに
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1961年のDECCAによるウィーン・フィルとの録音には、確かにカラヤンに取って、ストコフスキーの録音を意識した側面があったのかも知れないが、同時に国立バレエの予定された演目その他からも、「惑星」の演奏を意識する契機が重なり合ったのであろうと思われる。そんなこんなから、いろいろと複雑な事情が絡まり合って、結果的にカラヤンはこの曲を録音することに至ったのかも知れないと思われる。一方の1982年のベルリン・フィルとの録音は、思いのほかエポックメイキングとしての地位を確立した録音を残したカラヤンだったが、その間にカラヤン自身もまたいろいろと「惑星」について知るところが多くなり、61年録音の技術上も含めた不備が、カラヤン自身にとっても看過しえないほどに目立ってきたのであろう。それ故、カラヤンは手兵と再録音することに踏み切ったのであろうと考える。
再録音でのカラヤンは、録音の編集面での問題をここでは棚上げすると、その他に受けた再録音の批判の大半は、当時のカラヤンに向けられた一般的な批判とほぼ同じ内容で埋め尽くされているとも考えられるのである。つまり、「惑星」の再録音固有の問題を指摘した批判とは凡そ看做せない、当時のカラヤンに対する一般的な批判ばかりが目立つのである。その上で、82年再録音盤を落ち着いて聴いてみると、前の段落で私が指摘した61年録音における4ヶ所の問題点は、ほぼ全て完璧に解決しているのである。再録音の演奏自体の好悪はともかくとして、カラヤンは20年前の録音における技術面での問題点を全てクリアしているのである。少なくともこの事実は正当に認めるべきであろう。
ただ、それにもかかわらず、宇宙へのロマンやファンタジーを求め、期待する多くの聴き手からは、この演奏の非常に現実的な世界に特化した演奏は、聴き手の期待値の方向性次第では、とても無味乾燥なものに感じてしまうのも仕方がないことなのかも知れない。再録音時のカラヤンにとっては、たとえば「木星」の演奏を例に挙げると、バッカスの神様の下世話な世界をリアルに描くことの方が、むしろ重要なのであって、宇宙の壮大なロマンについては、残念ながらカラヤンは大して目を向けていないのである。しかし、カラヤンの再録音の意図がこのような理由に基くものであったのならば、これはカラヤン盤に対して、無い物ねだりをしているに過ぎないのである。
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(2017年1月6日記す)
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