ヤナーチェク「マクロプロスの秘事」を聴く(観る)

文:松本武巳さん

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DVDジャケット

レオシュ・ヤナーチェク作曲
歌劇「マクロプロスの秘事」(全3幕)

  • アンゲラ・デノケ(S、エミリア・マルティ)
  • レイモンド・ヴェリ(T、アルベルト・グレゴール)
  • ヨッヘン・シュメッケンベッヒャー(Br、コレナティ博士)
  • ピーター・ホア(T、ヴィーテク)
  • ユルギタ・アダモニテー(Ms、クリスタ)
  • ヨハン・ロイター(Br、ヤロスラフ・プルス男爵)
  • アレシュ・ブリスツェイン(T、ヤネク)
  • リンダ・オーミストン(Ms、掃除婦)
  • ペーター・ローベルト(Bs、道具方)
  • ライランズ・デイヴィス(T、ハウク=シュレンドルフ)、他

ウィーン国立歌劇場合唱団
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
エサ=ペッカ・サロネン(指揮)
演出:クリストフ・マルターラー

録音:2011年8月10日、ザルツブルク祝祭大劇場(ザルツブルク初演)
C MAJOR(DVD)(輸入盤70 950、リージョンオール)

 

■ ザルツブルク音楽祭での初演

 

 当地での新演出による、『マクロプロスの秘事』は、2011年8月10日が初演で、以下同月13日、18日、25日、30日に上演された。私は、初演の8月10日と、再演の8月13日に立ち会うことができた。当該DVDは初演の模様を中心にライヴ収録したものである。8月10日の私の座席は、メインカメラのすぐ隣(日本流の2階前方ブロック、真ん中やや右より[RANG MITTE RECHTS 4列])であり、ほぼ当該DVDと同じ角度で観たとお考えくださって結構である。8月13日は、日本流1階最後方に位置する、俗にいう個室[PARTERRE LOGEN]にてゆったりと観劇した。直接ザルツブルク音楽祭事務局から購入したので、チケットの値段は8月10日が200ユーロ、8月13日が270ユーロであった。

 ザルツブルクを訪れたのは4年連続で、通算では5回目となる。今回は当地で10日間(8月6日から15日まで)滞在した。(その後2015年時点で、通算8回訪問)当地への日本からの直行便が無いことと、一人旅であるために気儘な個人旅行として直接インターネットで予約し、ヨーロッパ域内移動はその場の気分で切符を窓口購入する形で例年赴いている。旅行者としては他人への参考となることがほとんど書けないと思われるので、その面からの記述は控えたいと思う。

 本来まるで計画性を持たない私ではあるが、『マクロプロス初演を観る』をお題目として予定を組んだので、当オペラに対する思い入れが元々存在していることを、ここで事前に明らかにしておきたい。私にとって、ヤナーチェクのオペラの中で、当オペラが最も重要なのである。もちろん、女狐も、イェヌーファも含めて、ヤナーチェクのオペラはすでに生で6演目を経験しているのだが、このオペラと『ブロウチェク氏』の2演目が、私にとってのお気に入りなのである。

 

■ マクロプロスの秘事

 

 このオペラとの出会いは、多くの方と同様に、故マッケラスとウィーン・フィルによる一連のヤナーチェク録音のディスク(DECCA)であった。その後、チャペックの戯曲を題材とした、と言うよりもヤナーチェクのオペラ用台本がベースである、宝塚歌劇団花組公演「不滅の棘」(2003年)を経て、2006年12月の東京交響楽団と飯森範親によるセミステージ方式での日本初演(2日サントリーホール、3日ミューザ川崎シンフォニーホール)、さらに日生劇場45周年公演(2008年11月20日、新日本フィルハーモニー交響楽団、指揮はアルミンク)にも立ち会った経緯のある、私には既に親しみのあるオペラである。

 

■ チャペックとヤナーチェク

 

 マクロプロスの秘事は、原作では喜劇であり、オペラでは悲劇であるといわれている。その根本は、根源的には「死なない」のか、「死ねない」のか、という問題に尽きるであろう。チャペックが書いた戯曲の第3幕をほぼ全部カットしたヤナーチェクであるが、71歳で当オペラを作曲したヤナーチェクは、恋人カミラに宛てての手紙では、37歳年下の彼女に対して人生と死の意義を語っている。

 一方で、喜劇と捉えたチャペックは、この戯曲を書いた当時はまだ30代前半であったようだ。私にはこのオペラや戯曲の解釈には、年齢にとどまらない人間の生と死の根源的意識や、恋愛対象における一般性と特殊性が潜んでいるように思う。その人自身のおかれた人生上の境遇により、喜劇か悲劇かの解釈が分かれているように見受ける。定型として喜劇なのか、それとも悲劇なのかは、マクロプロスの秘事に関する限り、実はさして重要ではないのだと思われる。

 

■ 演奏について−オーケストラ

 

 良くも悪くもウィーン・フィルの特質が発揮されていたように感ずる。それは伝統あるオーケストラが、普段から弾き慣れた音楽に対して美音を響かせるという、とても本質的な特質自体からもたらされることではあるのだが、その一方で、音楽を古典派から後期ロマン派の範疇に閉じ込めることを癖としているとも言い換えられるのである。もちろん、そこからもたらされる美点は、音楽の汎用性を大いに高め、かつウィーン・フィル固有の音を対外的にも維持している、稀有な団体であることにも直結する。

 しかし、ヤナーチェク固有の響きを求め期待している聴き手には、サロネンの努力を超えて、ウィーン・フィルの固有の世界にオケ自らが引きずり込んでいる、そんな部分も散見された。そして、その指揮者サロネンへの聴き手の期待ごと、このオーケストラはたまに裏切ってしまうような、そんな部分までときには見られたのである。あまりにも美しい、あまりにも滑らかな、そんなウィーン・フィルの究極の美質が、ヤナーチェクへのある種屈折した楽曲構造への聴き手の期待感をも、結果的には同時に裏切ってしまうのだ。

 なんという優れたオーケストラなのであろうか。しかし、なんという贅沢な不満なのであろうか。彼らは、マッケラスとのヤナーチェク録音チクルスで、30年前からしっかりとヤナーチェクに既に馴染んでしまっているのである。上手過ぎるなどという戯けた不満ではあるが、あえて延々と記しておきたいと思う。

 

■ 演奏について−指揮者

 

 サロネンが指揮をすることに関しては、そもそも事前から大いに期待しており、かつ結果として裏切ることも上記のオーケストラの問題を除いてはほとんどなかったと言える。非常に安定度の高い緻密な指揮であったと思う。また指揮棒を操る雰囲気も、とても美しく、かつ見栄えのする指揮ぶりであったと思う。彼の良さは、20世紀の音楽全般を、すでに前世紀の古典楽曲として振っていることに尽きるだろう。もちろん表現の厳しい側面はそのように振っているものの、基本的にはサロネンはきわめて自然体で、ヤナーチェクの音楽を音構造も含めて正しく捉えており、この点でも私の期待を裏切ることはなかったと思う。

 

■ 演奏について−アンゲラ・デノケ

 

 数年前のドレスデン国立歌劇場引越し来日公演で、薔薇の騎士での出演と初来日が予告されながら、結果的にキャンセルとなってしまい、私は生で彼女を見たのはこれがようやく2回目であった。彼女に関する感想は全く不要であり、ひと言で片付くであろう。容姿や演技力を含めて全てにおいて絶頂期を継続中である、と。

 因みに初演の翌日、劇場内の楽屋出口付近で彼女と遭遇し、会話をさせてもらった。なぜか両手にRed Bullを持った彼女の気さくな人間性そのものの面白さは、凡そ尊大さとは無縁の、会話して非常に楽しい女性であった。話しかける直前の彼女は、8月11日の当地演目であるフィガロの結婚のアリアを、何曲か続けて鼻歌混じりに楽しそうに歌っていたが、実はロンドンで発生した暴動のために、指揮者とオーケストラがヒースローから搭乗できず、リヴァプール経由で向かう羽目になり、チケットを持っている全員が開演待ちの間ワインを飲み放題になるという珍しい事態に陥ったため、マクロプロスの出演者(当日リハーサルが行われた)が、開演を待つ聴衆と渾然一体となって自由に会話可能な、当地でも珍しい状況下でのハプニングとなったのである。

 

■ 演出について

 

 クリストフ・マルターラーによる新演出に対する不満は、あちこちで散見された。特に開始前と幕間の無言劇(パントマイム)に関して、いろいろと賛否両論があったように思う。

 しかし、私は、これまで観た(映像ディスクを含む)当オペラの演出としては最右翼に位置する優れたものであったと思う。特に開始前の延々と続いたタバコ部屋での無言劇は、私にとっては斬新かつ当演出の白眉であったし、このパントマイムを見つめるサロネンを同時に後方から見られる位置に座っていた私には、とても楽しい開始前の寸劇でもあった。このパントマイムのおかげで、すっかり緊張感の解けた私は、冒頭からオペラに没頭し集中できたと思う。

 ただし、舞台の左右両端で繰り広げられるパントマイムを両方見つつ、舞台中央でのオペラ自体の進行もきちんと観ることができる座席環境が、劇場全体にきちんと保証されていたとは到底言いがたく、座席の場所によっては演出への不満が出たであろうことは容易に想像がつく。特に重要なパントマイムの場でもあった左端の状況が見えにくい座席だと、演出の意図がほとんど理解できなかったのではと心配する。

 なお、字幕はドイツ語の方の字幕は時折見たものの、英語の字幕に関しては最後まで見ることがなかったので、コメントはできないが、ドイツ語の字幕は見やすく、判りやすく、かつ適切な良訳であったと思う。(筆者の言語能力は、ドイツ語>英語≧チェコ語であり、ドイツ語は読み書きレベルである一方、英語とチェコ語はせいぜい日常会話レベルにとどまり、私の能力にかなりの差があることを記しておきたい)

 つぎに、マルターラーの演出に関して、私の見解を述べておきたい。第一に、彼は激しい動きや大きな動きを演出することは、過去の演出その他の成果を勘案して、もとより苦手であろうと思うのだ。しかし一方、緩慢ではあっても一定の視覚効果を忘れがたい印象として与えることを、演出上得意としているように思われる。執拗なほど繰り返される舞台左手での老婆と警備のやり取りなどは、その典型であろう。その一方で、エミリアの真実の告白の際の4名の男性の貧乏ゆすりは、女性の異常な告白に翻弄されている男性を表していると思われる。

しかし、果たしてそれだけなのであろうか?

 

■ 私見及びまとめ

 

 私は、少なくともマルターラーは『4』を意識しての演出であったと考える。冒頭のパントマイムで、人生を4つに分かっているところから開始し、左手のドアは4つ、エミリアの人生もエリナ・マクロプロス、エリアン・マックグレゴル、エウヘニア・モンテス、エミリア・マルティの4名分であり、情事の件数もハウクの相手がエウヘニア・モンテスとエミリア・マルティの両方であったことを勘案すると、4件に分かつことができるだろう。舞台上中央で翻弄される男性も4名(コレナティ、ヴィーテク、プルス、グレゴル)である。

 とすれば、左手のパントマイムでは、人生をゆっくりと過ごす通常の4分の1の緩慢な動きで表現し、舞台上での翻弄された4名の男性の貧乏ゆすりは、イライラを表すことが主目的ではなく、逆にエミリアの4分の1しか生きられない(即ち4倍速の動きを表現したもの)ことを表現したものであり、ヤナーチェクの音型に乗って貧乏ゆすりをしたのも、生命の疼きを4倍速で表現することで、ようやくエミリアの人生を舞台上でエミリア以外の登場人物が表現しうる、その時系列の長さを見える形で表現したものと理解する。

 もしかすると、これらはほとんど邪推なのかも知れない。しかし、少なくともマルターラーは、タバコ部屋の左端の階段を4段にし、左側のドアを4つ設け、冒頭で人生を4つに分かつ無言劇を挿入し、舞台前方で4名の男性を並んで座らせ、同時に貧乏ゆすりをさせ、かつその際のヤナーチェク特有の音楽動機を、時系列を4倍速として表現するために利用したのだろう。なお、舞台右手における配置その他の理由づけについては、私の理解力の問題から、今なお一部の考えがまとまっていないためにここで論じることができないことも、正直にお伝えしたい。

 私はヤナーチェクの音が苛立ちを表現したものとはもちろん捉えないし、マルターラーも苛立ちの表現のための演出であったとは思わない。まさに、エミリアに翻弄された男性の情けなさを表現したものと思う。そこにこそ、300年を超える人生を過ごしたエミリア・マルティへの想いが集約された演出であったと思うのだ。そして、そのように見つめていた私には、非常に優れた演出であると思えたのである。

(2015年9月2日記す)

 

(本稿はヤナーチェク友の会のために2012年3月20日脱稿した評論文に、若干修正を加えたものである。また、当曲は一般的には「マクロプロス事件」と呼ばれるが、ここでは、ヤナーチェク友の会の見解に合わせ「マクロプロスの秘事」で統一した。)

 

2015年9月5日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記