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《レゾナンス》 モーツァルト
ピアノソナタ K.310 ベルク
ピアノソナタ 作品1 リスト
ピアノソナタ ロ短調 バルトーク
ルーマニア民俗舞曲 エレーヌ・グリモー(ピアノ)
録音:2010年9月(ベルリン) DG(国内盤 UCCG-1516) |
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■ レゾナンス
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ドイツグラモフォンからリリースされたグリモーのアルバムには、それぞれのディスクに独自のテーマが付けられており、今回の「Resonance」に限らず、前作の「Reflection」や「Credo」等のテーマを見てもはっきりわかるように、グリモーが自らの視点で捉えた歴史観を、自ら再編纂するような斬新かつ果敢なテーマばかりであると言えるだろう。グリモーはクラシックのディスクとしてはきわめて稀な、総合的な企画力でもって勝負していると言えるだろう。
「Resonance」とは、共鳴・共振という意味である。選曲の背景に潜んでいる共通テーマは、本人自身がインタビューでも語っている通り、「オーストリア=ハンガリー二重帝国」である。当時の作曲家の目に留まり、作曲に影響を与えたであろう政治・経済・文化や、自己の内面を形成するために欠かせない時代背景といった、いわば個人的視点から歴史全体の流れを鳥瞰し、これらを浮き彫りにしようとする非常に斬新な試みであると言えるだろう。その意欲は高く評価したい。
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■ モーツァルトのピアノソナタ
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冒頭のモーツァルトのピアノソナタには、やはり多少の違和感があると言わざるを得ない。モーツァルトには珍しい短調のソナタなのだが、驚かされたのはグリモーの出す音そのものである。彼女は非常に硬い音色を基調とし、これらの音色が重厚に被さりあって、かなり異質なモーツァルト像を表現していると言えるだろう。ちなみに、決して響き自体が重いのではなく、むしろ響きが非常に濃厚なのである。一方で、ピアノの機能や特質を最大限に活かした演奏でもあり、ほぼロマン派の音楽を演奏するような、非常に色彩感に富んだやや風変りな演奏であると言えるだろう。
グリモーのピアノの音色や演奏自体はたいへん美しいのだが、彼女の刻んでいるリズム自体が、そもそもかなり独特な刻み方だと思うので、私にはどうしても最後まで違和感が残った。第2楽章は、さすがに抑制の効いた表現で、部分的にはうっとりとさせられたものの、この楽章でも相変わらず打鍵そのものはかなり強い。第3楽章は、かなり早めのテンポでどんどん先に進み、最後は力強く堂々と演奏を閉じている。
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■ ベルクのピアノソナタ
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ごく初期の作品であり、確立された12音階技法で作曲されたのではないとしても、調性は一定せず無調のように聞こえ、かなり演奏の難易度が高い曲である。作品1とはいえ、決してベルクの試作品などではなく、作曲家の有した世界観をほぼ完全に表現した作品であり、無調的な独特な響きのなかに濃厚なロマンを極限まで凝縮し、切り詰めた緊張感に満ち満ちた、ごく演奏時間の短いピアノソナタである。
グリモーは美しい響きで全体を弾き進めており、濃厚なロマンの香りと深い抒情を繊細かつ奔放に表現しているので、高く評価できるだろう。かなりきめ細かな表情に富んだ多彩かつ豊かな演奏であり、グリモー特有の濃厚な色彩感が、曲全体に統一的なイメージを与えることに成功していると言えるだろう。音色の透明感こそさほど感じられないが、打鍵そのものが強いために、音が非常に明瞭に聞こえてくる利点がある。
この曲は、ロマン派特有の旋律美とは怖ろしく異なるところに真の魅力が隠されていると言われている。グリモーは、歴史的事実と彼女自身の歴史観を重ね合わせて、ピアノで具体化し表現しようと試みているように思われるが、そもそもグリモーは作曲家の意図を無視してでも自分自身を表現するタイプであり、ベルクの音楽作品の具現化と言うよりも、グリモー独自の方向性を主張した演奏と言えるのかも知れない。
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■ リストのピアノソナタ
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ロマン派リストの代表作ともいえるピアノソナタで、統一された動機を形式のなかで極限まで拡大し、尽きない感情と文学性を非常に重視した壮大な規模のピアノソナタである。グリモーの演奏からは、残念ではあるがあまり強い感銘を受けなかった。演奏は新鮮そのもので、長大さを忘れさせる力演であり、美しい箇所もあちこちに見いだせるし、激しく盛り上がる箇所もいくつかあったものの、美しいメロディーと抒情満点の演奏に、グリモーは自己陶酔に浸っているように思えた。エクスタシーかつセクシーな演奏と言えるのかも知れないが、グリモーの作り出す世界に共鳴できない場合は、聴き手はむしろ疎外感に苛まされてしまう、そんな危うい演奏でもあるのだ。
確かに全編美しい響きやメロディーなのだが、突如としてピアノの轟音が響きわたる。また音が非常に大きく打鍵が鋭い。強いというより、むしろ鋭いという印象である。早いパッセージの部分ほど打鍵が鋭い上に、独特の重量感を聴き手に感じさせるのだ。ただし、決して音楽自体の進行は重くない。最後の場面では、低音の響きが途切れ途切れに続き、雰囲気全体が暗く沈み込みながら静かに曲を終える。全体的に今一歩音楽に入りきれないというか、聴き手が演奏に没頭できないというか、ディスクを聴いている途中で、申し訳ないが他のことを何気なく考えてしまったりしてしまったのである。
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■ バルトークのルーマニア民俗舞曲
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最後に置かれたバルトークのルーマニア民俗舞曲は、曲そのものが持っているエキゾチックな響きと、グリモーの持つエキセントリックな資質とが上手く重なり合って、優れた相乗効果が見られたように思う。フィナーレに相応しい演奏の盛り上がりも十分に感じ取れた。ただし、ダイナミックスに関しては、多少もの足りなかったようにも思われる。
バルトーク独自の音の響きが、心の奥底からわき上がるように歌われ、民俗音楽を根底で支えてきた民衆の素朴な力強さに思わず心を打たれる、そんな優れた音楽である。ディスクを聴く前は、バルトークのピアノソナタをなぜ弾かないのだろうとも思ったのだが、リストのピアノソナタの後で、バルトークをリスト以上にテンションを上げて弾くのは、ディスクとしてのバランスがかなり悪いと言えるだろう。いわば、「ルーマニア民俗舞曲」は、このディスクにおけるアンコール曲として、グリモーはプログラミングしたのだろうと思う。とても素敵な終わり方をした良い企画であったと思う。
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■ ふたたび、レゾナンス
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グリモーの目指す内面を達成するために、楽曲演奏を通じて邁進していくように、ディスクの楽曲収録順序はそもそも構成されているのであろうが、なぜか聴き終えた結果として真っ先に印象に残ったのが、冒頭の違和感を持つモーツァルトのピアノソナタの演奏であると言わざるを得ないのだ。「Resonance」は、実際の歴史を題材としつつ、現実にはグリモーが描いた想像・空想の世界でもある。想像力や空想が及ばないところにこそ面白さや楽しさがあるように、グリモー自身にとって最も苦労し、違和感を持ちつつ演奏したと思われるモーツァルトの方が、かえって結果的に聴き手に大きな印象を残すのは、一見矛盾しているように思えるものの、実際にはこの種の企画がもたらす必然的帰結なのかも知れない。このように考えたとき、グリモー自身が当初目指したところとは違うのかも知れないが、結論において目標は十分に達せられたのかも知れない。本当に難しいものである。
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■ 選曲についての個人意見
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伊東さんは、かつて以下のように記されたことがあり、実はこれが今回の執筆動機なのである。そこで、伊東さんの文章を以下に引用したい。
かつての私はリストのピアノ・ソナタロ短調を完全に忌み嫌っていたのです。初めて聴いたのはブレンデルの旧盤で、まだ私は学生でした。その時の異様な気持ちは今も忘れられません。「これは、そもそも音楽なのであろうか。これほど醜悪なものが何故音楽と言えるのか。しかも何故名作と言われるのか」と疑問が浮かび上がったものです。音楽とは、人を楽しませるものであると私は確信しています。その視点では、リストのロ短調ソナタは醜悪極まりないものに聞こえたのです。
ところが、当然と言えば当然のことながらピアニストにはこの曲の真価が伝わりやすいらしく、偉大なピアニストたちがこの曲に挑戦し、録音を残しています。私もほとんど怖いもの見たさでこの曲の録音を聴いてきました。そのお陰で、30分もあるこの大曲に聴き入り、心が大きく揺すぶられることが何度か起きています。30分をかけて聴き終わった際には、聴き手である私も燃焼しますから、大変なカタルシスを得られるようになりました。
実は、有名な曲であるにもかかわらず、私には苦手な曲が今もいくつかあります。そのひとつが、ベルクのピアノ・ソナタ作品1です。残念ながらこの曲を今の私は生理的に受け付けません。何度か努力して聴こうとしても、胸が押しつぶされるような気持ちになるため、わずか10分程度の曲でありながら最後まで聴き続けることができません。CDで聴いてさえ、堪えられません。コンサートホールではその場から逃げられませんから、生では聴けません。そこまで生理的に受け付けない曲を我慢して聴くこともないとは思うのですが、気になってしまうというのは病気なのかもしれませんね。
驚いたのは、昨年、リストのロ短調ピアノ・ソナタと、このベルクのピアノ・ソナタ作品1をカップリングしたCDがリリースされたことです。ピアニストはエレーヌ・グリモー。CDの最初には奇抜な演奏によるモーツァルトのピアノ・ソナタ第8番イ短調K.310を置き、それにベルクのソナタ、リストのソナタ、バルトークのルーマニア民俗舞曲と続きます。グリモーは企画ものが好きなようですが、モーツァルトとリスト、ベルクが並んでしまうとは。企画ものであるにせよ、こうして同じCDに収められ、同じ聴衆に聴かせているのです。ピアニストにとっては違和感がないということでしょうか。もしかすると聴衆にも。今の私ではちょっと受け入れがたいのですが、そういう時代になってきたのでしょうね。
あと何十年かかるか分かりませんが、ベルクのピアノ・ソナタを私が喜んで聴く日が来るかもしれません。時々精神的肉体的にリラックスしているときにでもチャレンジしたいと思っています。
(2011年1月27日、伊東さんの文章より抜粋)
伊東さんがこの文章をお書きになられてから、すでに6年近くが経過したが、現在はどのように思われているのだろうか。実は私は、個人的に新ウィーン楽派の音楽はあまり好きではない。ところが、そんな私が生まれて初めて新ウィーン楽派の音楽を弾いたのが、このベルクのピアノソナタ作品1だったのである。私が未成年の時点で弾いた、唯一の新ウィーン楽派の音楽でもある。
また、当時はリストのピアノソナタに嵌り込んで、本当に熱心に練習に取り組んでいたのだが、理屈ではなく単に事実として言うならば、実はリストのピアノソナタに取り組んだ直後に、ベルクのピアノソナタに取りかかったのである。それは、高校3年の秋のことであった。またこれと同時に、バルトークの「アレグロ・バルバロ」にも取り組んでいたことは、明確に記憶している。
グリモーの選曲の成否や当盤の目指した真の方向性は、もちろんグリモー自身にしか分からない。ただ、ピアノを聴くことと弾くことには、やはり明らかに違う志向性が存在していると言わざるを得ないのである。上手いか下手かの問題を一切抜きにするならば、私はこのグリモーのディスクの選曲そのものには、実はほとんど何一つ疑問を感じないのである。もちろん、寄せ集め感覚を排除するための、何らかの後付けの理屈は、ここではもちろん別の問題である。
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(2016年12月10日記す)
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