イェネー・ヤンドーで、リスト「ピアノソナタ ロ短調」を聴く(ヤンドー追悼)

文:松本武巳さん

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CDジャケット

リスト
ピアノソナタ ロ短調 S178/R21
(併録:2つの伝説 S175/R17、グレートヒェンS513/R180)
イェネー・ヤンドー(ピアノ)
録音:1995年9月、ドイツ・ザントハウゼン
NAXOS(8.553594)

 

■ 膨大な録音をNAXOSに残したヤンドー

 

 今年(2023年)の7月4日、現役の中では好きなピアニストの一人であったイェネー・ヤンドーが、71歳というまだまだ活躍可能な年齢で世を去ってしまった。ハンガリー南部の都市ペーチで生まれ、ハンガリーの首都ブダペストで世を去った。廉価盤として一世を風靡したナクソスレーベルに、まさに膨大な録音を残したのだが、これらの演奏はどれもが凡そ安かろう、悪かろうと言うような軽い内容とは程遠い、どのディスクをとってもたいへんに優れた一級品の録音群であったのである。

 ヤンドーは長年リスト音楽院の教授を務めていただけでなく、日本の武蔵野音楽大学との縁が深く、そのような経緯もあって日本人ピアニストの弟子も数多く、ヤンドーの本業は、ピアニストというよりむしろ音楽教育者であったと言えるだろう。

 

■ 教育者特有の、極めて理知的な演奏

 

 今回取り上げる、リストのピアノソナタを中心とするディスクだが、同じNAXOSレーベルに残した1990年の録音(カップリングとしてラ・カンパネラやオーベルマンの谷が入っているので簡単に区別できる)とは別録音である。1990年の録音は、ブダペストでの収録であったが、少し奥まったホールの先から音が聴こえて来るような、かなり個性的な音作りがなされていた。それに対し、ここで紹介するディスクは、一般的に優秀な録音であり、誰もが抵抗を感じない音作りで統一されている。

 イェネー・ヤンドーは、技巧が先行したピアニストであるとの先入観が、どうしても頭から離れないが、実際にはどんなパッセージであっても基本的に美しく表現し、全体的に端正極まりない穏健な楽曲解釈は、リストの多くの作品のような技巧的な曲に対して、どうしても無理をする演奏家が多い中で、ヤンドーの演奏スタンスは曲本体の構造が無理なく聴きとれるので、大変貴重であった。しかも、ヤンドーは単なる技巧派ではなく、強靭な響きと鋼のような打鍵を基礎とした大変力強い演奏家であり、ヤンドーのピアニストとしての底力を感じないではいられない。特に、低域の和音の重厚かつ深々とした打鍵と、それでいながら決して濁ることのない調和のとれたハーモニーが同居した凄みのある演奏は、過去の多くのリストのピアノ曲の録音からは、ほとんど得られなかった特徴ある演奏であったと言えるだろう。

 ヤンドーは、ほとんど妖怪のような巨大な構築物であるリストのピアノソナタに対して一歩も引かないスケールで立ち向かい、一方で耽美的で溺れるようなロマンティシズムの極致でもあるこのソナタを、信じられないほどの余裕を見せつつ、転々とする性格描写をきちんと弾き分けて最後まで丁寧に演奏している。真に優れた技巧を持つピアニストがリストを演奏すれば、このソナタは実に音が良く鳴ると言うことが、まさに実感できる。なお、ヤンドーはリズムを正確に刻みつつ、ゆとりをもって若干遅めのテンポを設定し、とても折り目正しく端正に曲を開始している。また曲全体を通じて明快で粒の揃った音で統一されていて、いわゆる力感にも全く過不足のない、少々驚くべき演奏なのである。

 

■ どこか、温かく、心の和む演奏

 

 このように、とても理知的なアプローチで、演奏者自身の知性と教養に加えて、繊細な感性をも感じさせる優れた演奏である。さらに、全体を見通した安定したテンポや自然に聞こえるフレージングではあるが、実は予め綿密に設定されているようにも思える。ところが、曲を突き放したいわゆる醒めた演奏というわけでは決してなく、かなり控えめながらも、演奏者の心の温かさや、楽曲の持っている懐かしさを感じさせるような、そんなハッとさせる瞬間も垣間見られる。

 慈しむように全体を包み込むような柔らかい弾き方や、スタッカートをあえてマルカート気味に刻む部分もあり、ヤンドーならではの演奏の特徴も十分に持ち合わせていて、決して聴き手を飽きさせない技を持っている。現実に特別に優れた特徴や、ヤンドーにしかできない突出した能力ではないのだが、聴こえてくる音楽から清潔感が漂い、とても気品のあるピアニズムで、俗にいう知情意のバランスが完璧にとれていて、音楽の進行に全く無理がないのである。良い意味で中庸のテンポを維持しており、その一方で実は細部にまで細かい配慮がなされている、そんな演奏だと言えるだろう。

 

■ リストの本質を捉えて離さない名演

 

 追悼文であるため、褒め過ぎであると思われる方もいらっしゃるであろう。確かに、例えば現役ではポリーニやアルゲリッチ、引退したブレンデル、すでに亡くなったホロヴィッツやリヒテルの演奏のような、余人をもって代えがたい演奏ではない。しかし、リストが作曲したピアノソナタそのものを、演奏者の個性に邪魔されることなく聴くことをもしも望むならば、このディスクこそ最初に指折るべき演奏なのである。長い間心の糧となる多くの演奏を与えてくれたヤンドーの冥福を祈り、心より感謝を捧げたい。

 

(2023年9月30日記す)

 

2023年9月30日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記