オフチニコフによる異次元の名盤、リスト「超絶技巧練習曲(全曲)」を聴く

文:松本武巳さん

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CDジャケット

リスト
超絶技巧練習曲(全12曲)

  • 第1番 ハ長調「前奏曲」
  • 第2番 イ短調
  • 第3番 ヘ長調「風景」
  • 第4番 ニ短調「マゼッパ」
  • 第5番 変ロ長調「鬼火」
  • 第6番 ト短調「幻影」
  • 第7番 変ホ長調「英雄」
  • 第8番 ハ短調「荒々しい狩り」
  • 第9番 変イ長調「回想」
  • 第10番 ヘ短調
  • 第11番 変ニ長調「夕べの調べ」
  • 第12番 変ロ短調「雪かき」

ウラディーミル・オフチニコフ(ピアノ)
録音:1989年、ロンドン
Olympia(輸入盤 MKM 118)(原盤EMI)

 

■ リストの超絶技巧練習曲集

 

 フランツ・リスト作曲の超絶技巧練習曲集。作曲当時はリスト本人でしか絶対に弾けない曲集として恐れられ、特に第4曲の「マゼッパ」や第5曲の「鬼火」は、ピアノ演奏史に残る難曲とされてきた。往年の巨匠ピアニストたちも、この作品で自らの技巧を競ってきた。難しさに指が絡んで回らずにモタモタ弾いたらみっともなく、如何に達者に、如何に派手に、如何にバリバリと、如何に重量感溢れる形で弾き切るかが、この作品で成功する唯一の条件であると、長年みなされてきたと言えるだろう。

 しかし、今回取り上げるオフチニコフによる超絶技巧練習曲集の演奏は、そんなバリバリ重量級路線がすでに過去になりつつあることを、われわれ聴き手に身近に感じさせてくれる。細部の表情のつけ方まで徹底してこだわっていて、1音1音、1フレーズ1フレーズ、テンポや音量の緩急や変化を細やかに施し、鋭くあるべき音はあくまで鋭く硬質に響かせ、そうでないその他の音は、技巧を前面に押し出さずに抒情性を重んじて演奏している。もはや超絶技巧練習曲集を、単に超絶技巧の展覧会として弾くような時代は終わったのだと、オフチニコフはそんな風に宣言したいのかのように演奏しているように思えてくる。

 技巧とは本来楽曲の細かい描写の目的として使われるものであり、超絶技巧練習曲集には、それぞれの曲ごとに描写を上手く表現するための技術的な目標が、練習曲である以上当然ではあるが設定されているのである。たとえば、最後の第12曲の「雪かき」は、トレモロが全編にわたって多用されており、単に楽譜通りに弾きこなせれば良いというわけでは決してない。超絶技巧は、本来は表現の多様性を求めるために必要なものなのである。オフチニコフは、超絶技巧練習曲集をまったく新しい方向性の音楽として聴かせてくれている。ヴィルトゥオジティを詩情や抒情にまで昇華させて、夥しい量の音符から非常にロマン的な物語が演奏者によって新たに形成されていると言っても過言ではないだろう。そんな異次元の超絶技巧練習曲集の演奏であると思われてならない。

 

■ ウラディーミル・オフチニコフについて

   ウラディーミル・パヴロヴィチ・オフチニコフはロシアのピアニストで、1958年旧ソ連のバシキールに生まれた。モスクワ音楽院ではアレクセイ・ナセドキン教授に師事。1980年にモントリオール国際音楽コンクール第2位入賞。1982年チャイコフスキー国際コンクール第2位(1位なし、ピーター・ドノホーと2位を分け合う)、1987年リーズ国際コンクール優勝などコンクールの入賞歴多数。ロシア人民芸術家、現在モスクワ音楽院教授。2005年にロシア大統領ウラディーミル・プーチンより、ロシアの芸術家に対する最高位の称号である「ロシア国家芸術家」を授与された。現在はモスクワ音楽院教授ならびに日本のくらしき作陽大学などでも教鞭をとっている。

 ロシア人のピアニストではあるが、長身ながらかなり痩せ型の体型をしており、そのためもあってか、完璧な演奏技巧にものを言わせて豪快にガンガンとピアノを鳴らすという重量級のピアニストではなく、音色の美しさに対する繊細な神経と、持ち合わせた超絶技巧とを巧みに両立させるタイプであり、どちらかと言うと女性的な要素を同時に持ち合わせたヴィルトゥオーゾであると言えるだろう。とは言っても長身かつ大きな手で難曲を簡単に弾きこなす、ヴィルトゥオーゾタイプのピアニストであるのは確かである。録音もピアノ独奏曲よりは協奏曲が多く残されているが、プロコフィエフのピアノソナタ全集のディスクは、重量級の全集が多数を占める中で、異彩を放つディスクであると言えるだろう。
 

■ 軽やかに駆け抜ける異次元の名盤

   リストの超絶技巧練習曲集は、技術的には最高度の難しさを誇る作品であり、数々のヴィルトォーゾ・ピアニストたちが挑戦し、多くの録音が残されている楽曲である。このオフチニコフ盤もその視点から捉えると、間違いなく最上級の完成度を誇っているディスクの一つである。しかし、限界に挑むような猛烈なスピード感と、情熱的で重量感溢れる演奏がとても多いなかで、オフチニコフは完璧といってもよいほどの技巧で、意外にスッキリと素っ気なく弾いており、解釈もごくスタンダードでむしろややあっさりした表現と言えるだろう。これほど美しい音色を駆使したしなやかな超絶技巧練習曲集の録音があること自体が驚きである。リストの音楽の持っている本質的な味わいが、余裕をもってきちんと表現されている名盤の一つである。

 迫力満点の豪快で圧倒的と思わせる他の演奏に押されて大きくは宣伝されては来ず、一部のマニアが購入したもののいつの間にか廃盤となっていた。近年は大全集の中の1枚といった位置づけで、ディスク自体は復活しているようだ。彼の演奏は、音色や弱音の美しさに対する繊細な感覚と超絶技巧とを巧みに両立させるタイプのヴィルトゥオーゾであり、古い伝統的名盤と異なり、超絶技巧練習曲集の新たな解釈として今一度見直されるべきディスクであると信じている。この難曲に求められる技巧、解釈、録音の三拍子がすべて揃っているのだ。個々の曲について言えば、この演奏よりも優れた演奏があるだろうが、どの曲をとっても欠点らしい欠点がなく、全12曲のクオリティが揃っている上に極めて全体的レベルが高いのである。特に第4曲「マゼッパ」と、後半に置かれた各曲の出来が非常に素晴らしく、まるで音の機関銃を全身に浴びるような爽快感があるが、仄かなロマンの香りも同時に漂ってくるのだ。すでに多くの指摘がなされているが、強いて言えば確かに第5曲「鬼火」がややインパクトが弱いと言えるだろう。

 『オフチニコフは、音はどちらかといえば他のソ連のピアニストたちよりもむしろ痩せて硬く、ふくよかさや濃やかさに欠けるきらいがあった』(チャイコフスキー・コンクールの際の中村紘子氏の評)とか、『筆者はオフチニコフを二度聴いている。正直言って両方とも同じようなものだった。オフチニコフはすこぶるうまいのだけれども…(以下略)』(佐藤泰一氏の評)など、散々である。上記はオフチニコフの実演を実際に聴かれた二人の日本人の感想である。いずれも著名な指摘であり、多くの方がすでに引用されているようだ。あまりにも情け容赦なく切り捨てられているが、この楽曲から重量級のド迫力を演奏に求めるのが半ば常識化してしまっているからではないのだろうか。そのように考えると、お二人の評はむしろ十分に納得できるのである。

 確かに音色が硬いというのはその通りだと思われる。しかし、痩身のオフチニコフから紡ぎだされる音色は決して単調ではなく、固定観念化した方向からの一方的な見方に過ぎないのではなかろうか。オフチニコフの運指は切れ味鋭く、非常に軽やかにこの超絶技巧の難曲を、まさに爽快に駆け抜けているとは言えないだろうか。確かに音色から判断しても、オフチニコフの演奏から壮大なスケールを期待することはできない。しかしその分、非常にタイトにギッシリと重要な要素が込められた演奏であると思うのである。ただ、リストの超絶技巧練習曲を、このような方向性から捉えた演奏はかつて存在しなかったと言えるだろう。

 横綱相撲を求めるだけが、超絶技巧練習曲が優れた演奏となる絶対的条件では決してない。フィギュアスケートやバレエダンサーのような視点から、超絶技巧練習曲を爽やかに美しく大汗をかかずに弾ききっても、新たな今日的リストの名演奏が生まれるのではないだろうか。今や時代はそのくらい進化しているのではないだろうか。そのように捉えたとき、このオフチニコフの超絶技巧練習曲集の録音から得るものは、非常に多いのではないだろうか。
 

■ 教育関係が主な活動のために

   現在、オフチニコフは、日本での教育活動を長年兼務しており、もはや教育者としてや国際コンクールの審査員としての活動が主になってきているようだ。旧ソ連出身者では実は良くあることではある。近年の日本人の若い演奏家で、オフチニコフの指導を受けたピアニストは、たいへん多いのが実情だろうと思われる。また、今年(2019年)のチャイコフスキー・コンクールの審査員も務められた。モスクワ音楽院でナセドキン(ゲンリヒ・ネイガウス、ナウモフの弟子)の元で学んだピアニストであり、ロシアン・ピアニズムを後世に継承する使命を負った教育者の一人であるのだろう。典型的な「ノイハウス・シューレ(ネイガウス・スクール)」のピアニストであるとも言えるだろう。

 教育界に主な活動を移された関係で、今後多くの新しいディスクに触れる機会はあまり期待できないかもしれない。しかしオフチニコフは、一年のうちかなりの期間日本に滞在しているために、生の演奏に触れる機会はけっこう多いと思われる。この試聴記をきっかけに名前だけでもぜひ記憶しておかれて、何かの機会にオフチニコフの名演奏にぜひ触れて欲しいと念願している。
 

(2019年8月13日記す)

 

2019年8月13日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記