シノーポリとウィーン・フィルによる「リスト管弦楽曲集」を聴く

文:松本武巳さん

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CDジャケット

リスト
交響詩「前奏曲」
交響詩「オルフェウス」
交響詩「マゼッパ」
ハンガリー狂詩曲第2番
ジュゼッペ・シノーポリ指揮
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1996年9,10月、ウィーン
DG(国内盤 UCCG 50039)

 

■ 人気が凋落しているリストのかつての人気管弦楽曲

 

 リストの管弦楽曲は、半世紀前までは間違いなくかなりの人気曲であった。ところが、デジタル録音時代になる以前から、人気の凋落傾向がはっきりとみられ、近年では新録音が出てくること自体がかなり少なくなってしまっている。リストの残したピアノ曲が、今も多くの録音や生演奏で溢れかえっていることと比べて、あまりにも相反する管弦楽曲の人気凋落なのである。従って、クラシック音楽愛好家に対してリストの話を持ち出せば、基本的にピアノ音楽愛好家なのか、オーケストラ音楽愛好家なのかは、凡その判断がついてしまうのが現状なのである。流行は、クラシック音楽の世界にも明確に存在しているのだ。そんな中で、リストを非常に面白く聴かせてくれ、忘れ去るにはあまりにも惜しいディスクがあるので、ここで紹介したいと思う。

 

■ シノーポリならではの演奏解釈

 

 シノーポリは、ここでは思い切り彼独自の解釈を前面に押し出し、大げさなアゴーギグにとどまらず、まさにデフォルメのし放題なのだが、これがリストの本質の一面を鋭く突いているように思えるし、そんなシノーポリの指揮にウィーン・フィルもしっかりと付き合っているのだ。リストの音楽を面白く聴かせるための、楽曲のツボをおさえた大げさな抑揚は、彼の音楽の場合には絶対に必要なのである。例えば、かつてカラヤンの残したリストの管弦楽曲集も、間違いなく名演である。しかし、カラヤンにすらできないことがあった。それは、聴かせどころをしっかり押さえた外面的な表現は実に得意だが、カラヤンはリズム自体をデフォルメすることは、彼のポリシーとしてできなかったのである。分かりやすい例をあげるとすれば、あのフルトヴェングラーのバイロイトの第9のフィナーレのような煽り方は、カラヤンには決して見られないのである。カラヤンのテンポ感は終生厳格であったのだ。

 シノーポリには有名な悪癖があって、たとえばドレスデン所縁の音楽を、シュターツカペレ・ドレスデンで振る際のリハーサルで、よりによって延々と曲の解説を前口上してみせたり、とかく悪い方向での癖が目立つ場合もあったと聞いている。しかし、ウィーン・フィルは、歴史的経緯もあってか、ハンガリー音楽をショルティが振る場合などは、おとなしく従ってはいるものの、両者の協調性を見出すことは、残された録音から判断する限りかなり難しいと言えるだろう。もちろん、残された録音の評価をしているわけではなく、あくまでも両者の協調性の話である。しかし、そもそもイタリア人のシノーポリが、仮にハンガリー音楽の解釈について独自の視点からあれこれと注文をつけたところで、結果的に面白く仕上がるのであれば、ウィーン・フィルとしては特段の抵抗もなかったであろう。

 この管弦楽曲集のディスクは、まるでウィーン・フィル恒例の夏のシェーンブルン野外コンサートにおける演奏のような、ノリの良さをディスク全体にみせていて、シノーポリの描くデフォルメの世界に、ウィーン・フィルは終始しっかりと付き合っているのである。ここに、この盤の独自性と貴重さがあるように思えるのである。

 

■ リストの音楽の持つ二面性

   リストは、そもそも他人のシリアスなオリジナル作品を、何でもかんでも自己流のピアノ曲に編曲してしまった、他に例を見ない奇才なのである。何せ他人の書いたラヴレターまで、自由に編曲してしまうような作曲スタンスであり、とすれば、リスト自身、彼の残した作品を楽譜に忠実に演奏してほしいなどとは、まさか心にも思っていなかったに違いないのだ。その意味でも、シノーポリの演奏姿勢は、リストの音楽を演奏する限りに於いては、何らの問題も生じないのである。

 その一方で、リストの人気曲が集中しているピアノ作品において、リストの作品を多く取り上げ、録音を多く残したピアニストに、クラウディオ・アラウとアルフレッド・ブレンデルという、一般論として希代の頑固一徹派、教条的模範的ピアニストが含まれているのはなぜなのだろうか。もちろん、私はかつてアラウの場合もブレンデルの場合も、リスト録音を取り上げたことがあるが、私個人はアラウもブレンデルも、彼らを教科書的な面白みのないピアニストだと考えたことは、かつて一度もないのである。むしろ、そこにこそ、リストの音楽の本質が隠されているとみるべきであろう。尤もリストの音楽の本質論は別のところで書いたこともあるうえに、今回取り上げたディスクの面白さを紹介するためには、ほぼ不要な議論でもあるので、この程度にとどめたいと思う。

 結局のところ、オーケストラファンとピアノ音楽ファンは、お互いに相容れない面が存在するという以前に、お互いの愛好する音楽及び演奏家の、そもそも正確な知識も持ち合わせていないのだろうと推察する。これは決して批判ではなく、そのくらい外来オーケストラの来日公演と、ピアニストのリサイタルとでは、聴衆の層そのものが異なっているように思ううえに、そもそも外来の著名なオーケストラもピアニストも、チケット代がとても高くつき、かつ来日時期が秋に集中していることが多いので、生半可な興味だけではチケット購入までに至らないのも仕方がないと思われるのである。とすると、リストの管弦楽曲について、オーケストラファンは聴くこと自体をやめるのもやむを得ないであろう。

 それでも、最後に繰り返すが、このシノーポリとウィーン・フィルによるリストの管弦楽曲集のディスクは、他の盤とは異なり一聴の価値があることを、私はもう一度声を大にして主張したいのである。こんなにも面白いディスクが忘れ去られてしまうのは、本当に惜しいと思う。
 

(2017年10月3日記す)

 

2017年10月4日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記