ツィメルマンの2枚のリスト録音を聴く

文:松本武巳さん

ホームページ What's New? 旧What's New?
「音を学び楽しむ、わが生涯より」インデックスページ


 

  ■ 1.協奏曲
CDジャケット

リスト

  • ピアノ協奏曲第1番
  • ピアノ協奏曲第2番
  • ピアノと管弦楽のための『死の舞踏』

クリスティアン・ツィメルマン(ピアノ)
小澤征爾指揮ボストン交響楽団
録音:1987年4月
DG(輸入盤 423571-2)

  ■ 2.ソナタ他
CDジャケット

リスト

  • ピアノソナタロ短調
  • 灰色の雲
  • 悲しみのゴンドラ第2番
  • 葬送曲(『詩的で宗教的な調べ』第7曲)

クリスティアン・ツィメルマン(ピアノ)
録音:1990年2-3月
DG(輸入盤 431780-2)

  ■ ツィメルマンのリスト
 

  最初にお断りしておきたい。私はツィメルマンが好きだった。しかし、あるころから彼の目指す方向性が、いわゆる教条的な方向へと大きく舵を切っていたのである。私は大いに戸惑い、そして悩んだが、今は彼の行こうとする方向を静かに見守りたいと考えている。その典型的な演奏例として、私は今回2枚のリストの録音を挙げたいと思うのである。2枚の録音は、3年を経ずして行われており、ほぼ同時期のツィメルマンの音楽の方向性を示していると考えて差支えないだろう。
 なお、私の好きなツィメルマンのディスクとして、以下の3枚を挙げておきたい。すべてドイツ・グラモフォンへの録音で、モーツァルトのソナタ集、ショパンのワルツ集、そしてダンチョフスカとの共演でフランクとシマノフスキ、以上の3枚である。いずれもツィメルマンの活動初期の録音ばかりである。これらは、今聴き直しても惚れ惚れするディスクばかりである。この中には、ツィメルマン自身が再発売を拒絶しているディスクもあるのだが、再び世に出ることを願ってやまない。

 

■ まずは絶対的に評価できる点を

 

 この2枚のディスクは、いずれも技術的な意味(それも多方面からの意味)で捉えた場合に、間違いなく世界最高峰の優れた演奏であり録音であると言い切れる。ポリーニよりもアルゲリッチよりも全盛時のホロヴィッツよりもミスが少なく、そのくせ音楽全体の流れに、淀みも表現の違和感もなく、楽譜にきわめて忠実でありながら、適切な音の伸び縮みもそれなりに聴き取れ、緊張感の過不足も全くなく、音楽全体に一定の不可欠な迫力もあり、演奏自体の切れ味も十分にあるのである。さらに、指揮者やオーケストラとの協調性もしっかりと維持し、実に適切にピアニストとして伴奏者との協調に努めている。どの観点から捉えても、ほとんど満点に近い、完璧と言って差支えない出来映えなのである。

 

■ つぎは批判的な目で

 

 その一方で、どうやったらここまで情に溺れずに、リストの音楽を演奏可能なのであろうか?もっと言えば、ロマンの奔流と言える美しいメロディーや、リストの音楽の持つ悪魔的な囁きや、リスト特有の官能的な響きや、リスト以外にはみられない独自の和声や、その他もろもろのリストの音楽が持っている誘惑のどれ一つにも、ツィメルマンは一切心を揺さぶられることなく、演奏を淡々と続けているのである。
 まるで台風の荒れ狂う暴風や、地震の激しい揺れや、眼前の火山の突然の噴火を目の当たりにしながら、淡々と数学や物理の公式を解きつつ、今後の防災対応を沈着冷静に判断しているかのような、ほとんど超絶的に人間離れしたそんな異次元的な感覚を、ツィメルマンの演奏から感じ取れてしまうのである。
 後者の例はまだまだ学問上の話である。しかし、リストの音楽とは、そこに広がっている空間、たとえば官能性一つを取ってみても、絶世の美女に囲まれながら、あるいは同時に多くの美女から言い寄られながら、そんな中でまるで表情一つ変えることなく、淡々と音楽を進行させていくなんて言うことが、人間として果たして可能なのであろうか?私にはこんな風にしか思えないのである。

 

■ 日本での高い人気と絶大な評価

 

 このようなことは、考え方と視点を変えれば、一般に言われている日本の教育の現状に若干似ているように思えなくもない。日本では一般に記憶力に頼り、考える力を養うことが足りないと言われることが多い。そのため、基礎力はあるが応用力に欠けるとも言われている。これは、海外のコンクールに日本人が参加し始めた当時、日本人の演奏は全員ミスが少なくしっかりと弾いているが、個性に乏しく印象に残りにくいと評価され続けた時代が長かったこととも、たぶん根底に於いて通じるであろう。
 このようなことを、究極まで突き詰めた演奏が、ここで取り上げたツィメルマンのリスト演奏であると指摘することが、かなりの確率で言えるのかもしれない。そのように考えたとき、日本での絶大な人気の陰には、日本でかつて理想とされた教育の最大限かつ最高の成果を、ツィメルマンの演奏の背後から感じ取れるような、そんな演奏内容であるとも言いかえることが可能なのだと思う。また、ツィメルマンの出自(ポーランド出身でショパン・コンクールの覇者)や、協奏曲のディスクでは伴奏を小澤征爾が受け持っていることも、このディスクに対し不動の人気と高い評価が与えられている、そんな要因の一つなのかも知れない。
 ましてや、あのルックスである。日本人に取って聴き手として分かりやすく理想的な音楽を提供してくれて、かつ見た目も出自も完璧で、加えて音楽性自体は非常に高いのであるから、日本での高い人気と絶大な評価も、首肯できると言わざるを得ないのである。

 

■ 欧州での必ずしも高くない評価

 

 一方の欧州では、録音の多寡は演奏家の良し悪しの評価対象としてほとんど問われないが、演奏家のレパートリーの広さは、彼の地の実力の評価ポイントでも最重要の位置を占めていると考えられる。実際のところ、バレンボイムやブッフビンダーの諸々の全曲演奏チクルスは、彼の地では冗談抜きに非常に高い人気を呈していると言えるだろう。間違いなく欧州ではスペシャリストよりも、膨大なレパートリーと、それに付随する知性・教養こそが、演奏家としての評価の大前提なのである。
 このように見たとき、ツィメルマンは自らレパートリーを厳選し、納得のいかないプログラムでコンサートを開くことは決してないし、それ故キャンセルも確かに多い。もちろん、歴史上、レパートリーが狭くても、キャンセルが多くても、欧州で名演奏家としての地位を誇った演奏家は存在する。しかし、一般的には上記のような評価が主であり一般的でもあるのである。

 

■ 今後ツィメルマンはどこへ行く?

 

 彼は、違法録音に対して非常に神経過敏である。もちろん、違法な相手に対して誰もがそれなりに気になることは当然であるし、違法が許されるはずもない。ただ、ツィメルマンの過敏さはどう見ても通常よりは相当神経質になっており、かつそのことが自身の活動範囲を自ら狭めているとも言えるだろう。
 つぎに、彼は政治的な演説を舞台上で行うことが時々ある。これまた、欧州では確かに、最低でも自国と訪問国の政治情勢の知識は必須である。ところが、一方で欧州では『囚われの聴衆』に対して演説をぶつことは、かなり嫌悪される傾向がある。つまり、知見としての政治情勢の知識は、本人の政治姿勢とともに人間性や知性・教養の一つとして高く評価されるが、一方で時と場所によると、そのような演説は明白にバッシングを受ける対象となってしまうのである。
 この2点を見るとき、彼もまた、旧東側の崩壊に立ち会った当事者の典型的な演奏家ではないのだろうかと、心配になってくる。旧東側の最終期の停滞感あふれる世界から脱出した演奏家が、その後自由を保障された後に、精神を病んだり、そこまでではなくても演奏活動を止めてしまう例が、今なお一定数出ているのである。このことは、ツィメルマンとて例外ではないだろう。そんな意味で、ツィメルマンが精神的に悩んでおり、それが演奏に反映し、近年ではついに録音数の激減や、新しいプログラムの減少に繋がっているとしたら、ツィメルマンがそこから脱出できるかどうかは、今後まだまだ大変な道程が待ち受けているのかも知れない。陰ながら、デビュー直後の3枚のディスクを決して忘れることなく、静かに見守っていきたいと思う。

 

(2016年10月25日記す)

 

2016年10月26日掲載、An die MusikクラシックCD試聴記